山口賀代子「少女期」(「左庭」14、2009年08月30日発行)
山口賀代子「少女期」は少女の感覚がリアルである。私は少女であったことはないのだけれど、リアルに感じる。少女も少年も、ある部分はかわらないのかもしれない。その「かわらない部分」、共通の部分を出発点にして、違う部分にたどりつき、あ、これが少女の感覚か--と思い、納得するというのがほんとうのところかもしれないけれど。
山口は、はじめて海へはいったときのことを書いている。
「少女」を「少女」にしているのは、具体的には「綿のシュミーズが肌にまとわりつく」ということばかもしれない。けれども、それはよくよく考えれば、シュミーズのかわりに綿のパンツと言い換えれば「少年」に簡単にかわってしまう。水着ではなく、薄いパンツ。それが水に濡れて、肌にまとわりつく。もっといえば、ペニスにまとわりつく。
そして、そのときの「恥ずかしさ」もまた共通のものである。「少年」にも恥ずかしさはある。だから、その感覚は「少女」特有のものではない。
別の言い方をすべきなのかもしれない。
私が、はっと驚いたのは、「おもいがけない海の豊かさにからだがなじむ」の「おもいがけない」である。私は、こどものころを思い返してみたが、海へ入って「おもいがけない」と感じた記憶がない。
私は虚弱体質だったので、実は、小学校のときは海にははいったことがない。禁じられていた。学校の申し送りがうまくいかなかったのか、中学には「禁止」がつたわっていなくて、中学になってはじめて海にはいった。それでも、私には、その海が「おもいがけない」ものではなかった。
何かに触れて、そのことから「おもいがけない」と感じることが、たぶん「少女」なのだ。
そして、そのあとがもっと「少女」っぽい、私は感じる。はっきりいえば、びっくりしてしまった。
「からだがなじむ」。ああ、そうなのか、「少女」とは「おもいがけない」ものに「からだがなじむ」のか。
「少年」は違うのである。
からだ「が」なじむのではない。からだ「に」なじませるのだ。
新しいものに興奮して、ありふれたことばでいえば、それを征服する。自分のからだの支配下におく。海を例にとれば、海をなじませる。自分の思うようにする。「泳ぐ」とはからだ「が」海に(水に)なじむことではなく、からだ「に」水をなじませる、からだのいう通りに水を動かすことなのだ。水の中を進むのではなく、水を自分の方に引き寄せるのが泳ぐということなのだ。
海を自分のつこゔにあわせて動かす--もちろん、そんなことはできないのだが、自分の思うようにできると錯覚する。それがたぶん「少年」の感覚である。たとえば、島へむかって泳ぐというのは、自分が島へ向かうというよりも、海に浮かんでいる島を自分の方へ引き寄せる。綱を引っぱるように、ぐいぐいと、水そのものを引っぱるという感じなのだ。水まるごと、島を引っぱる。それが「少年」の感覚だ。あるいは、私の、というべきなのかもしれないけれど、私はそう感じる。
ことろが、山口はそんなふうには感じていない。海を征服するのではなく、いっしょになってしまう。その親和力が「少女」なのだ。
腕を前にだすことは、「少女」山口にとっては、魚になることなのだ。水になること、魚になること--その区別がない。「なじむ」というのは、そういうことなのだ。
山口賀代子「少女期」は少女の感覚がリアルである。私は少女であったことはないのだけれど、リアルに感じる。少女も少年も、ある部分はかわらないのかもしれない。その「かわらない部分」、共通の部分を出発点にして、違う部分にたどりつき、あ、これが少女の感覚か--と思い、納得するというのがほんとうのところかもしれないけれど。
山口は、はじめて海へはいったときのことを書いている。
ときどき波のすくない水際で
こわごわ海に足指をいれたり
ひっこめたり
おそるおそるすることが恐ろしい
そんなわたしを海に誘ったのは誰だったのか
記憶にもないその人につれられ
下着のまま海にはいる
こわごわ 足をすすめる
綿のシュミーズが肌にまとわりつく
恥ずかしさよりも
おもいがけない海の豊かさにからだがなじむ
ゆるゆるとからだにまとわりつく水の感触
「少女」を「少女」にしているのは、具体的には「綿のシュミーズが肌にまとわりつく」ということばかもしれない。けれども、それはよくよく考えれば、シュミーズのかわりに綿のパンツと言い換えれば「少年」に簡単にかわってしまう。水着ではなく、薄いパンツ。それが水に濡れて、肌にまとわりつく。もっといえば、ペニスにまとわりつく。
そして、そのときの「恥ずかしさ」もまた共通のものである。「少年」にも恥ずかしさはある。だから、その感覚は「少女」特有のものではない。
別の言い方をすべきなのかもしれない。
私が、はっと驚いたのは、「おもいがけない海の豊かさにからだがなじむ」の「おもいがけない」である。私は、こどものころを思い返してみたが、海へ入って「おもいがけない」と感じた記憶がない。
私は虚弱体質だったので、実は、小学校のときは海にははいったことがない。禁じられていた。学校の申し送りがうまくいかなかったのか、中学には「禁止」がつたわっていなくて、中学になってはじめて海にはいった。それでも、私には、その海が「おもいがけない」ものではなかった。
何かに触れて、そのことから「おもいがけない」と感じることが、たぶん「少女」なのだ。
そして、そのあとがもっと「少女」っぽい、私は感じる。はっきりいえば、びっくりしてしまった。
おもいがけない海の豊かさにからだがなじむ
「からだがなじむ」。ああ、そうなのか、「少女」とは「おもいがけない」ものに「からだがなじむ」のか。
「少年」は違うのである。
からだ「が」なじむのではない。からだ「に」なじませるのだ。
新しいものに興奮して、ありふれたことばでいえば、それを征服する。自分のからだの支配下におく。海を例にとれば、海をなじませる。自分の思うようにする。「泳ぐ」とはからだ「が」海に(水に)なじむことではなく、からだ「に」水をなじませる、からだのいう通りに水を動かすことなのだ。水の中を進むのではなく、水を自分の方に引き寄せるのが泳ぐということなのだ。
海を自分のつこゔにあわせて動かす--もちろん、そんなことはできないのだが、自分の思うようにできると錯覚する。それがたぶん「少年」の感覚である。たとえば、島へむかって泳ぐというのは、自分が島へ向かうというよりも、海に浮かんでいる島を自分の方へ引き寄せる。綱を引っぱるように、ぐいぐいと、水そのものを引っぱるという感じなのだ。水まるごと、島を引っぱる。それが「少年」の感覚だ。あるいは、私の、というべきなのかもしれないけれど、私はそう感じる。
ことろが、山口はそんなふうには感じていない。海を征服するのではなく、いっしょになってしまう。その親和力が「少女」なのだ。
おそるおそる顔を海水につけてみる
すこしからだを沈めてみる
沈めたまま腕をまえにだし
泳ぎの真似事をしてみる
魚になれるかもしれない
腕を前にだすことは、「少女」山口にとっては、魚になることなのだ。水になること、魚になること--その区別がない。「なじむ」というのは、そういうことなのだ。
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