詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山口賀代子「少女期」

2009-09-17 00:38:26 | 詩(雑誌・同人誌)
山口賀代子「少女期」(「左庭」14、2009年08月30日発行)

 山口賀代子「少女期」は少女の感覚がリアルである。私は少女であったことはないのだけれど、リアルに感じる。少女も少年も、ある部分はかわらないのかもしれない。その「かわらない部分」、共通の部分を出発点にして、違う部分にたどりつき、あ、これが少女の感覚か--と思い、納得するというのがほんとうのところかもしれないけれど。

 山口は、はじめて海へはいったときのことを書いている。

ときどき波のすくない水際で
こわごわ海に足指をいれたり
ひっこめたり
おそるおそるすることが恐ろしい
そんなわたしを海に誘ったのは誰だったのか
記憶にもないその人につれられ
下着のまま海にはいる
こわごわ 足をすすめる
綿のシュミーズが肌にまとわりつく
恥ずかしさよりも
おもいがけない海の豊かさにからだがなじむ
ゆるゆるとからだにまとわりつく水の感触

 「少女」を「少女」にしているのは、具体的には「綿のシュミーズが肌にまとわりつく」ということばかもしれない。けれども、それはよくよく考えれば、シュミーズのかわりに綿のパンツと言い換えれば「少年」に簡単にかわってしまう。水着ではなく、薄いパンツ。それが水に濡れて、肌にまとわりつく。もっといえば、ペニスにまとわりつく。
 そして、そのときの「恥ずかしさ」もまた共通のものである。「少年」にも恥ずかしさはある。だから、その感覚は「少女」特有のものではない。

 別の言い方をすべきなのかもしれない。

 私が、はっと驚いたのは、「おもいがけない海の豊かさにからだがなじむ」の「おもいがけない」である。私は、こどものころを思い返してみたが、海へ入って「おもいがけない」と感じた記憶がない。
 私は虚弱体質だったので、実は、小学校のときは海にははいったことがない。禁じられていた。学校の申し送りがうまくいかなかったのか、中学には「禁止」がつたわっていなくて、中学になってはじめて海にはいった。それでも、私には、その海が「おもいがけない」ものではなかった。
 何かに触れて、そのことから「おもいがけない」と感じることが、たぶん「少女」なのだ。
 そして、そのあとがもっと「少女」っぽい、私は感じる。はっきりいえば、びっくりしてしまった。

おもいがけない海の豊かさにからだがなじむ

 「からだがなじむ」。ああ、そうなのか、「少女」とは「おもいがけない」ものに「からだがなじむ」のか。
 「少年」は違うのである。
 からだ「が」なじむのではない。からだ「に」なじませるのだ。
 新しいものに興奮して、ありふれたことばでいえば、それを征服する。自分のからだの支配下におく。海を例にとれば、海をなじませる。自分の思うようにする。「泳ぐ」とはからだ「が」海に(水に)なじむことではなく、からだ「に」水をなじませる、からだのいう通りに水を動かすことなのだ。水の中を進むのではなく、水を自分の方に引き寄せるのが泳ぐということなのだ。
 海を自分のつこゔにあわせて動かす--もちろん、そんなことはできないのだが、自分の思うようにできると錯覚する。それがたぶん「少年」の感覚である。たとえば、島へむかって泳ぐというのは、自分が島へ向かうというよりも、海に浮かんでいる島を自分の方へ引き寄せる。綱を引っぱるように、ぐいぐいと、水そのものを引っぱるという感じなのだ。水まるごと、島を引っぱる。それが「少年」の感覚だ。あるいは、私の、というべきなのかもしれないけれど、私はそう感じる。

 ことろが、山口はそんなふうには感じていない。海を征服するのではなく、いっしょになってしまう。その親和力が「少女」なのだ。

おそるおそる顔を海水につけてみる
すこしからだを沈めてみる
沈めたまま腕をまえにだし
泳ぎの真似事をしてみる

魚になれるかもしれない

 腕を前にだすことは、「少女」山口にとっては、魚になることなのだ。水になること、魚になること--その区別がない。「なじむ」というのは、そういうことなのだ。






詩集 海市
山口 賀代子
砂子屋書房

このアイテムの詳細を見る

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 柴田実「平田診療所」 | トップ | 誰も書かなかった西脇順三郎... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

詩(雑誌・同人誌)」カテゴリの最新記事