詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

千住博展

2019-05-03 20:33:02 | その他(音楽、小説etc)
千住博展(北九州市立美術館別館、2019年05月01日)

 千住博の作品を初めて見たのは、瀬戸内海の直島。「石橋家」の庭と、襖絵。蔵に描かれた瀧の絵。
 襖絵の山は、裏側の廊下(?)にもつづいていて、山の裏側が見える。さらに進んで行くと蔵の中に瀧がある。山の中に踏み込んで、瀧にであった感じになる。明かり取りの窓からの光で表情を変える。私が行ったときは雨が降っていた。午後から少し晴れ間が出たので、雨の光の中と、午後の光の中と、二回見た。漆をぬった床に滝が逆さにうつり、まるで瀧壺の中にいるような感じがした。



 今回の展覧会は、高野山金剛峯寺の襖絵完成を記念して開かれたもの。奉納される前に展示された。会場は、そっくりそのまま高野山金剛峯寺をかたどっているわけではないだろうが、まず「断崖図」が広がる。それからその崖(山)を回り込むようにして進むと「瀧図」があらわれる。会場に高野山金剛峯寺の模型があって、展示(?)の仕方も紹介されているが、それに準じている。高野山金剛峯寺を体験できるようになっている。
 「断崖図」の崖(岩肌)の表情に引きつけられた。岩に亀裂が入り、その傷跡がむき出しになっている。亀裂の複雑な表情に圧倒された。傷跡と書いたが、それはほんとうに傷跡なのか。つまり、山が崩れ、山の内部がむき出しになったものなのか。逆に、山が表面を突き破って内部をさらけだしたものなのか。結果は同じだが、運動のあり方は逆だ。私は、山が内部からせりだしてきて、山肌を破ったのだと感じた。人間の顔の皺のように、「内部」が存在しなければ形になり得ない深さと強さがある。それはもしかすると、これから先も内部をさらけだすように表情を変えてしまうものかもしれない。展覧会で見た絵は、高野山金剛峯寺の中におさまったとき、もう一度脱皮(?)して、さらに深い表情を見せるかもしれない。機会があるなら、高野山金剛峯寺でもう一度見てみたい、と思った。
 なぜ、こんなに強い「顔」になるのか。千住博が「制作ビデオ」の中で語っている。岩肌の亀裂は和紙の皺に絵の具を流してつくったものである。和紙の中から出てきた「顔」なのである。もちろん、いくつもの表情があるから、千住は単に顔が生まれてくるのを待っているだけではなく、生まれてくる瞬間をとらえて、それを定着させている。それは、定着させるというよりも、一緒に生まれるという感じかもしれない。千住が絵を描くことを通して、崖になって生まれる。もう一度「断崖図」を見直す。それはやっぱり動いている。内部の強い力が表に出てこようとして動いている。そういうエネルギーを感じた。
 崖と一緒に生きている木。その濃淡。湿気を含んだ空気の変化も美しいが、その木々、さらにはこまかな雨、空間の広がりを、崖の「顔」がつくりだしている。
 静かなのに、とても強い声が聞こえてくる。一つの声ではなく、複数の声が崖の響き、引き込まれるような感じすらする。





 「瀧図」はまったく逆だ。いくつもの滝が落ちている。落ちる途中で水が砕け、激しい音がするはずなのに、まるで音が聞こえない。音と音がぶつかり、その激しさの中で音が沈黙してしまったかのような感じ。時間が止まる、という表現があるが、時間が止まるのではなく、時間が時間として生まれる前のような「絶対的瞬間」のようなもの。
 そのせいだと思うが、この瀧の背後というものが、瀧と同じ力であらわれてくる。瀧の背後は、単純に考えれば断崖である。しかし、岩とか山とか、そういう存在を感じない。瀧の背後には何もない。したがって、水は山の上から落ちてくるのではない。天から垂直に落ちてくる。無から落ちてくる。瀧の背後は無である。無といっても何もないのではない。逆に、そこにはすべてがある。あらゆるものなりうるエネルギー。それがたまたまここでは瀧として姿をあらわしている。だから、こう言いなおした方がいいかもしれない。瀧(水)は天から落ちてくるのでもない。ただそこに落下というの運動そのものとして存在している。目を凝らすとわかる。普通、水は落ちたら砕け、水面を乱す。だが千住の絵では、滝壺はまっ平らである。どこにも乱れはない。深い滝壺がすべての衝撃を受け入れているとも考えられるが、水は落下という運動の中で同時に上昇している、天へと立ち上がっているのだ。二つの運動は拮抗している。ぶつかりあって静止している。動いているけれど、絶対的不動でもある。
 「断崖図」と同じように、ここでもとてつもない「緊張」が「解放」となって、場をつくっている。この「瀧図」も高野山金剛峯寺に住むときは、また表情を変え、まったく違ったものを見せてくれるかもしれない。
 この「滝」も千住が描いたものであると同時に、素材が生み出したものである。ブルーグレイをぬった和紙の上に水を流す。その水の上に白い絵の具を流す。その流れをそのまま生かしている。素材の力に寄り添って、いっしょに生きている。





 展覧会では、初期の作品や「龍神」も展示されている。「龍神」は写真撮影が許可されていた。「断崖図」と「瀧図」は絵はがきを写真に撮ってみたが、うまく撮れない。まあ、どんな美術(芸術)でも写真ではなく、本物を肉眼で見ないと何もわからないものだとは思うから、きちんとした(?)写真ではない方がいいかもしれない。
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池澤夏樹のカヴァフィス(135)

2019-05-03 10:22:11 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
135 詩に巧みな二十四歳の若者

頭脳よ、いまこそ働きを見せてくれ。
片思いの情熱に身を滅ぼしそうなのだ。
この事態に気も狂わんばかりなのだ。
毎日、彼は熱愛する顔に口づけし、
彼の手はあの美しい肢体を愛撫する。
これほど深く愛したことはかつてなかった。

 「彼」とは誰なのか。「私(カヴァフィス)」が愛した相手なのか。「彼は」「口づけする」「愛撫する」。「これほど深く愛したことはかつてなかった。」の主語も「彼」だろうか。
 そうは思えない。
 書き出しの「頭脳よ」が問題だ。「彼の」頭脳ではないだろう。他人の頭脳に向かって呼びかけることはない。
 「頭脳よ」という呼びかけには、「頭脳」を自分から切り離し、客観化する視点がある。その「自己客観化」を引き継いで、自分のことを「彼」と呼んでいるのだろう。
 「片思いに」「身を滅ぼしそう」「気も狂わんばかり」というのも自分自身の客観的な描写だ。主観だが、主体を突き放してみている。「身が滅びそう」「気が狂いそう」ではない。
 池澤は、タイトルに註釈をつけている。

「詩に巧みな」という部分、直訳すれば「言葉の職人」となる。

 この註釈を参考にすれば、「頭脳よ」と呼びかけられているのは「ことば」と言いなおせる。「ことばよ、今こそ働きを見せてくれ。」詩の力で恋人を虜にしたいのだ。そう読み直すと、「彼」がカヴァフィスの「自画像」であることが、さらにはっきりする。唇は恋人の唇に触れた。手も恋人の肢体に触れた。でも、「こころ(愛)」には触れてはいない。「こころ」は一体になっていない。

あこがれの唇に口づけをし、
すばらしい肉体に心をときめかす。だがわかっている、
自分はただ黙認されているに過ぎない、と。

 この三行には、詩の力で恋人と一体になりたいというカヴァフィスの「焦り」(欲望)が動いている。




カヴァフィス全詩
クリエーター情報なし
書肆山田


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