8月3日(土) 35/24℃
昨日は、5:45・・・
小学校のグランドでは子どもたちが野球の練習です
広場の御仮屋には、天王下ろしされた神輿が鎮座
祭神は素佐之男命(牛頭天王)です
「疫病来るな!!」
人々の願いが聞こえてくるようです
あらためて参拝します
8月・・・
母の祥月でもあります
それは、長野冬季オリンピックが開催された1998年
今年は27回忌です
あっという間に月日は流れていました
父、母との窓口は、もっぱら女房殿・・・
母もお気に入りの「嫁」だったのです
で
共働きの親に代わって3人の孫たちの面倒を見てくれました
が
みんな学校へいくようになった頃から病みがちに・・・
そして
病で病院からの旅立ちでした
働きずくめの母の一生です
20数年後・・・
その母のことで ☟ こんな一文を応募しています
某大手銀行が募集したテーマは『わたし遺産』
jiiji の遺産とは、「母の言葉」です
入選はなりませんでしたが、親孝行ともいえない息子の “母への讃歌” でもありました
「わたし遺産」
色白で、まあまあの女っぷりだったと思っている。マチバ育ちて農家の嫁になった。舅姑に仕え、3人の子を産み、メシメ仕事で田畑をこなすと賃仕事にも出た。誠に働き者の母だった。が、尋常小学校卒でいわば無学。「オラ尋常小しか出てねぇから」が常のセリフで、教育を語ったことなどない。東京の妹たちに手紙を書くにも、布団の中で辞書と首っ引き。父も尋常小だったから、わが家に「学問」の気風は皆無。「仕事手伝え」とは言っても、「勉強しろ」とは言わなかった。
そのことを愚痴りたいわけではない。社会で働くには高卒でも十分事足りた。父がレールを敷いたとおり、嫡男はサラリーマンとなり、共働きの妻を貰って、3人の子に恵まれて、家も建て替えた。その孫たちは、祖父母のおかげも手伝って大学までいくことができた。
母が唯一残したものは、人生体験からえた「人はいいとこ半分 悪りぃとこ半分」・・・。処世の妙だ。7人の曾孫たちにもバトンリレーしたいと思っている。
散歩は、今まで見えていたものを新鮮に描いてくれます
廃線敷きを利用した遊歩道・自動車道・・・
毎年少しずつ、北に向かって伸びていきます
憩いの道として根付いてきましたが、ところどころに腰を下ろして休むベンチがほしいと思っています
若い人たちは感じないでしょうが、高齢者も歩くコースです
見かけた、立派な鯱が乗る民家・・・
どんないきさつがあるんでしょう?
☟ 広場の東屋に架かる、粋な文字盤の時計
今はなくなった電鉄駅に掲げられていたものです
☟ 集落の中ほどにある、お堂に下げられている半鐘
この地区には、集落ごとにあります
そのお堂には、戸がありません
いつもオープンです
これには「子どもが大好きな観音さま」の民話があります
村に、疫病が流行った時の話です
「こりゃあ、観音さまがお守りしてくださったんだ。あの観音さまは子どもが大好きにちげぇねぇ。」
「そうだな。お堂の戸を外して、いつも子どもたちを見守っていてもらわねぇといけねぇな」と村人たちは、お堂に立てられていた四枚の表戸をすぐにはずしあした。」 (『若穂の民話』第三集より)
これだけ医学が発達しても、ウイルスによる疫病は大脅威
ましてや昔・・・
神仏に頼るしかなかったわけです
戸は今もありませんが、そこで遊ぶ子供たちの姿はもう見られないとか・・・