
本日12月2日は、グティがプリメーラのチームで公式戦にデビューして、14周年の記念日です。
マドリー公式
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1995年12月2日、ホセ・マリア・グティエレス・”グティ”は、レアル・マドリーのトップチームとしての、最初の公式戦を戦うため、サンチアゴ・ベルナベウのピッチに飛び込んだ。マドリディスモの神話であるマノロ・サンチスが、プリメーラディビジョンでの400試合出場を記した同じ日、レアル・マドリーの下部組織で育ち形成された選手としての暦程を刻み始めたのだ。14年後、グティはあの日と同じユニフォームを着続けている。初めてそれを身に着けたのは、9歳の時だった。いま、彼はチームのカピタンの1人となっている。クラブの歴史に、象徴としてまた絶対的なものとして、その名前を刻む。
リーガで輝かしい結果を残した1994/95シーズンの翌シーズン、レアル・マドリーは厳しい状況でスタートしていた。この時チームを率いていたホルヘ・バルダーノは、数人の選手をカンテラの選手と入れ替えることを決断する。その中の1人がグティだった。そのフィジカルはフェルナンド・レドンドを思い起こさせるが、フットボールのスタイルとしては、別のチームメイトであった、ミカエル・ラウドルップに似たものがあった。この若者はレアル・マドリーBでまぶしく輝いていたが、第15節、チャンスが彼の元を訪れた。時間は63分、グティはアマビスカに代わり、セビージャとの試合に入っていった。そして4-1の勝利。夢が始まった。
背番号は、彼がトップチームの選手として初めて選択したものだった。彼は14番を選んだ。この番号は、ヨハン・クライフの神話を作り出した。14年間が過ぎ、グティは同じ番号を背中に負い続けている。それでも、彼はもう夢を見ていたカンテラーノではない。31歳(正確には33歳)になり、彼はレアル・マドリーのカピタンの1人であり、その大きな見本の1人となっている。彼だけが見ることのできるミリ単位のパスによって、試合の均衡を崩すことができる選手。驚くべきテクニックを持ち、メディアプンタ(トップ下)、メディオセントロ(中盤)、左のインテリオール(サイド寄り)、さらにはデランテーロ・セントロ(センターFW)としてすらプレイすることができる、どのポジションでもこなす選手だ。
この14年間で、グティは、レアル・マドリーのユニフォームを身にまとって552試合に出場し、77ゴールを決めた。その多くが非常に重要なものである。たとえば、2002年のインターコンチネンタル杯決勝(トヨタカップ)でのゴール、同年にフェイエノールトと対戦した欧州スーパーカップなどで得点している。しかしおそらく、彼が決めたゴールで最も心に触れるのは、2008年9月14日のヌマンシア戦でのゴールだろう。前半19分、レアル・マドリーの14番はボールをゴールネットに突き刺した。これは、レアル・マドリーというクラブが、リーグ戦で決めた5000ゴール目のメモリアルゴールだったのだ。
リーガ優勝5回、欧州制覇3回、インターコンチネンタル優勝2回、スペインスーペルコパ制覇2回、欧州スーパーカップ1回、これにより、グティはクラブの歴史において卓越した存在となっている。しかし、彼は満足しない。今シーズン、彼は他のチームメイトと同様に、リーガおよびチャンピオンズリーグのためにベストを尽くして戦うことを決めている。ここしばらくは、彼はフィジカルの問題により通常のトレーニングができていない。しかしすぐに、勤続15年目に入った彼は、ペジェグリーニの指揮下に着き、チームを助けることができるようになるだろう。
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AS
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レアル・マドリーの14番の14年。1995年12月2日、4-1で勝利したセビージャ戦、ホセ・マリア・グティエレス・“グティ”は、プリメーラ・ディビシオンにおいて初めて白のユニフォームを身にまとい、60分、アマビスカに代わって出場した。今日は、その日から5114日がたったが、トレホンのメディオセントロは、ごくわずかな者しか到達できない数字と栄誉の経歴と共に、コンチャ・エスピーナ(ベルナベウのある住所)の組織における歴史に、痕跡を残している。
ここまで、グティは522の公式戦に出場(歴代10位の記録で、9位のロベルト・カルロスまであと5試合)、77ゴールを決めている。彼のキャビネットには、3つの欧州杯、2つのインターコンチネンタル杯、欧州スーパー杯、5つのリーガ、4つのスペインスーペルコパを制覇したカップが飾られている。隙間があるのは、コパ・デル・レイのためのもの、唯一彼の手にないトロフィーなのだ……。
長い旅が始まったのは、1985年のこと。わずか9歳で、Rayito Torrejónと共に、グティは初めて以前のシウダ・デポルティーバを訪れた。彼のブロンドヘアから主スターとニックネームがつけられ、13個のボールと交換で彼を獲得したマドリディスタのコーチ陣を驚かせた。
論争
バルダーノの手によってトップチームに上がった後、彼の途方もない才能は、他の者が見つけられない穴を見つけ、不可能なパスを通し、それによって最初のギャラクティコ時代(フィーゴ、ジダン、ロナウド、ベッカム)、彼よりもはるかにフィジカルに優れたライバル(マケレレ、セードルフ)、議論の対象となるような評判、平静を失うような場面(マドリー史上、グティより多くの警告を受けてきたのはイエロのみ)の中を生き残ることができたのだ。
現在、ペジェグリーニとフィットしない状況で、グティはマドリディスタとしての終盤の反響の中を生きることもできるようだ。2011年までの契約はあるが、来夏を見越して、既に英語の勉強をしているとも言われ……。
未だトレーニングできず
グティは、未だトレーニングができないでいる。血腫がまだ残っており、脚に痛みを与えているようだ。グティはペジェグリーニの訓話を聞いた後、室内でのトレーニングに従事している。昨日、ジムに入るときに補助者に尋ねられ、グティはこう答えている。「これはもう解消したよ」(治った、という意かと)。しかし確かなことは、サブの選手として復帰する日もわからず、土曜日のアルメリア戦で戦力になることもないだろう、というものだ。この負傷(大腿四頭筋の血腫)は、10日前のラシン戦の前に負ったものだ。
2000/2001シーズン、彼の最高の時
グティのパフォーマンスが疑問の余地のない素晴らしいものであった時があるとすれば、それは2000/01シーズンのことだ。デル・ボスケはグティを第2FWとして使い、ラウルをの後ろに配置。グティは結果を残した。18ゴール(リーガ14ゴール、チャンピオンズ4ゴール)を挙げた。彼の最高の瞬間は、ハットトリックを決めた、2001年4月14日のビジャレアル戦だろう。またシュスターが監督をして優勝を手にした際には、グティはリーガで最も目覚しい働きとして、14個のパス(アシスト?)を決めたのだ。
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近影

写真のキャプションは「水曜日、バルデベバスでのトレーニングで、ペジェグリーニと話し合うグティ。アルメリア戦への出場はあきらめている。アルコルコン戦での一件以来、両者の関係は正常に戻っている」。

クラシコ2日前のトレーニング。この日はアルビオルも室内調整仲間だった。