@小説「東京プリズン」で気づかされてことは、国民にとっての天皇の存在「天皇が日本の象徴」とは?と聞かれても何と答えれば正解かのか知らないこと、真の意味を理解していないことだ。 さて議題は、果たして「東京裁判」は公平に裁断されたのか疑問が残る。当時欧米諸国の「植民地」化は多くの現地住民を虐殺、特に香港・上海等のアヘン戦争は住民に阿片を売りつけその果てに弱肉強食的戦闘であり強国の歴史しか残ってはいない。日本の中国・東南アジア侵略は正にそのような残酷な歴史を作ってしまい、その結果が「東京裁判」となった。が、欧米諸国は「正義の味方」としての存在を現在でも残したままだ。 話は戻り、諸説では「東京裁判」は元陸軍が中心に裁かれたがなぜ元海軍はだれ一人重罪にならなかったのか疑問も残る。
- 日本の学校になじめずアメリカの高校に留学、文化の違いに悩まされ落ちこぼれる。進級をかけたディベートが課せられる。それは日本人を代表して「天皇の戦争責任」について弁明すること。16歳の少女が一人で挑んだ現代の「東京裁判」を描き戦後の日本に迫った。
- 空想と現実を表現した内容で「妄想化した母と私」(母=昔の私)過去の「16歳の私」と「現代の私」時空を超えて表現している。
- 「東京裁判」を題材にし、「天皇の位置付け」について、戦時戦後の日本人が思っていること(学んだこと)とアメリカ人(軍人)が思っていたをこの東京裁判で見直す試みの小説だ。
- 戦犯ABC等は種類の違いであって「罪」の重さではない。「平和に対する罪」をカテゴリー別に分類しているだけ
- A級戦犯=平和に対する罪
- B級戦犯=通例の戦争犯罪
- C級戦犯=人道に対する罪
- 「国民」と「People」とは違う。リンカーンの「人民の、人民のための、人民による政治」は日本人の「国民」とは違う
- 「天皇の戦争責任」はあるのか、これに対する理解と正確な証拠を日本人は持っていない、また曖昧な答えだけだ。だが何故マッカーサーは最初から天皇は戦犯・犯罪者ではないと外したのか。
- それはアメリカと連合国の正しさを世界にアピールするための政治の場であり、通常法廷より融通が効く軍事法廷であり、マッカーサーの法廷だった。それはまた、真珠湾のリベンジと東条英機の断罪ができればよしとした裁判だったからである。天皇を裁くと日本国内に暴動が起き、日本が共産主義化するのを恐れたからである。日本への恨みを晴らすべく、日本兵の残虐行為と植民地での恨みである。それにはドイツ・ニューレンバーク裁判を真似た軍事裁判にする必要があった
- 神話の起源とした天皇は歴史的に見て「サムライ」に利用された。天皇(権威をもたせたお飾り=全権)の名の下に勅命許可を利用、行政・律法・司法も元老・軍が戦略(勅命)として利用した
- 天皇は子孫を絶えさず「万世一系」となるのが役割、国民は「天皇が日本の象徴である」の真の意味を実感していない事実。天皇を統治機構の一機関とみるシステム論と天皇が統治権の主体であるという説がある。
- 神の存在、肉体を持った人(天皇)の存在
- 「たとえ困難でも泣きたくとも逃げ出したくても肉体を持ってある位置に生まれついた以上全うすべきことがある」
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