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挑戦と夢、そこには人への思いやりがあった

2018-06-14 12:22:32 | 歴史から学ぶ

@数学者として夢を持ち太平洋横断を成し遂げた幕末の武士「小野友五郎」。憧れの剣術を諦め算術を学び日本人最初の航海長としてサンフランシスコに渡った友五郎は、日本で最初に微分積分を学んだ数学者でもある。測量技術者から航海士、夢であった蒸気軍艦を操作して渡米、米国大統領謁見まで実現した若き武士。剣術の夢は絶ち消え、藩の命令で一見夢のない算術を勉強するが絶え間ない努力が新たな夢を描き、途方も無い夢を実現させた。誰もが歩む道が不幸にも選べず、一心に数学に励み誰もが予測もできない事を成し遂げた。誰もが経験する挫折、苦痛、苦悩を必死に乗り越える事が出来たのは、しっかりとした信念があり、人への思いやりを人一倍持っていた人だからこそ信頼され達成出来たと思う。 他人に対しての思いやり、気遣いが薄れ始めていている世だからこそ、とても大切だと思う。

『咸臨丸にかけた夢』鳴海 風

  • 幕末の数学者・航海技術士小野友五郎の挑戦
  • 幕末、小野友五郎は日本人が太平洋横断初航海を咸臨丸にて測量方(航海長)として乗組む、日本人総勢九十九人と米国人十一人で晴れ間はごく僅かの難航で37日間かかった。 艦長は勝海舟、万次郎、福沢諭吉、提督は木村善毅、監察役小栗忠順。(勝も木村も船酔いでほとんど役割を果たせず、暴風雨時には同船した米国船員ブルック大尉が舵を握った。
  • サンフランシスコでは市長始め市民から大歓迎を受け、咸臨丸の修理(37日間)の費用はすべてアメリカ政府が負担した。が、木村は予定していた費用を全額カルフォーニアの慈善事業に寄付した。
  • 北太平洋周りの咸臨丸(浦賀出航:1月19日)とほぼ同時に南太平洋周りのポウハタン号(遣米使節団)が横浜から1月22日出航、咸臨丸は2月26日着、ポウハタン号が3月9日到着した。
  • 生い立ち:友五郎は剣術を修行したかったが藩の命令で算術を言い渡され勉強。土木工事に必要な測量技術解説書「量地図説」を出版
  • 老中首座阿部伊勢守正弘より暦作・測量御用手伝いの命を受ける
  • 蕃書調所にてオランダ語の航海術を翻訳する
  • その後長崎海軍伝習所派遣され勝麟太郎(33歳、友五郎とは6歳年上)と会い、オランダ人から造船学、砲術、測量、数学、蒸気機関学を学ぶ。友五郎は微分積分を学んだ最初の日本人となる
  • 初めての試験航海は測量方として観光丸で 江戸まで航海する
  • 当時日本には蒸気軍艦は最初の観光丸、咸臨丸と朝陽丸、蟠竜丸のみ
  • 米国からの帰国は5月5日、桜田門の変と重なる、後日将軍家茂に謁見、幕府は軍艦操練所頭取を命じ、十五人扶持となる。
  • 測量調査は小笠原諸島、造船所最適地横須賀も調査を行い、咸臨丸艦長となる。
  • 2回目の渡米は軍艦購入を目的として1867年、将軍慶喜の委任状を持って福沢諭吉らを伴った。初回病気で帰国できなかった12名のうち3名は死亡しておりローレルヒルの墓参り。その後大統領に謁見することになり、ジョンソン大統領から「アメリカ合衆国は民主主義の国です。色々な主義主張があっても良い。しかし、その主義主張を通すために同じ国民同士が殺しあうことは良く無い。ミスター小野、ぜひ日本のためにそうならないようにしてください」と言われた。また、大統領は「日本が軍艦を購入するのは、国を守るためですか」の問いに対して、小野友五郎は「戦争には反対です。購入する軍艦は、技術が遅れている日本が近代化するための勉強道具としたい。それが私の本心です」といった。
  • 友五郎は帰国後新政府に一旦投獄され、その後海軍への勧誘があったが、辞退し明治3年から鉄道事業に専念、数学道場で師範代に当たる斎長になる。義務教育に数学の必要性を訴えた。
  • 友五郎は「武士は責任感と忍耐力、人の思いやる心が必要だ」と言った

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