乗った後の景色

電車・気動車・バスに乗ることが好きな乗りマニアによる旅行雑ネタブログです。

副瀬の義愛公

2010-05-07 | 台湾
 今回は嘉義県の朴子からバスに15分ほど乗って副瀬という集落に行ったときの話です。ここには植民地時代に赴任した日本人森川巡査が義愛公として祀られている「富安宮」があるというので寄ってみました。
(バスに乗った時の話はこちらをご覧下さい。)

 バスで着いた副瀬の集落は軒下で牡蠣を剥く人がよく目に付き、あとは海鮮食堂がちらほらあるという感じで静かなところです。

 集落を抜けると養魚池が目立ちます。


 副瀬のバス停から道々行き合った人をつかまえて聞きつつ北に歩くと5分とかからずに富安宮に着きました。

 富安宮には多くの神様が祀られています。

 後列左端から2番目と前列の左端2体、計3体の神像が件の義愛公です。


 ここではお土産に写真の入った小冊子『義愛公伝』(著者:王振栄氏)の日本語版を頂きました。以下ちょっと長くなりますが話の行きがかり上本文の直接引用には『』をつけつつ内容をざっと紹介しておきます。

 貧しい副瀬に赴任した森川清治郎巡査は自腹を切って教育や衛生環境、農業の改善に尽くす『一般に植民地の人々に好感を持たれぬ異民族の下級官吏』にもかかわらず慕われる人物だったのだそうです。冊子に森川巡査と他の巡査が制服着て集まっている写真がついていましたが、みんな靴履いている中一人だけ脚絆に台湾の草鞋を履いているのでかなり目立ちます。よほどの変わり者というか、少なくとも「上から目線」ではない人だったのが何となく伺える感じです。
 そんな中新たに住民に重い漁業税が課されことになります。貧しい住民たちから上層への税減免の嘆願を求められた森川巡査は上役に現地の窮状を上申したところ住民の納税抗拒を煽動していると疑われ戒告処分を受けてしまいました。結局森川巡査は『貧困に喘ぐ善良な村民と植民地で権威を笠に着る上司の板挟みに』なって1902年に自殺します。
 だいぶ下って1923年、隣の集落で脳炎が流行り副瀬にも拡大するかと恐れられていた頃に森川巡査が住民の夢枕に立ち、衛生に注意するべしとのお告げがあったのだそうです。お告げを守った住民は伝染から免れ、それを機に森川巡査を義愛公という守護神として祀るようになった、という流れでした。
 ちなみに自殺の直後住民は遺体を見ても『後で、官憲に「お前達が殺したのだろう」と、嫌疑をかけられるのを恐れ』遺体に近寄らず、『日本官憲の追及を避ける為家に掛け戻って家財をまとめ逃亡の準備を始め村内は大騒動になった』そうです。『このような本能にも近い強迫観念は、過去に幾多の政権の苛政を嘗めてきた植民地の人民としての無理からぬ悲哀である。』とまとめてありますが、この辺りに住民のホンネとか置かれていた気の毒な状況がうかがえます。そんな中でおっかなくてイヤ~な植民地支配そのものである日本人巡査が日本に抗って自殺したのですから住民が神と祀ったのも無理のないことなのでしょう。

 という具合に富安宮に行った後はバスの乗り継ぎの都合で特産の牡蠣を食べる時間がありませんでした。剥いているところを見たせいか心残りになり次の機会があったらぜひ食べたいものですが、なかなかどこかのついでに寄るような場所でもないのでさていつになるやらという感じです。

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