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嫌いな奴からは何を言われても響かない。

2015年09月21日 | いろいろレビュー

鬼の上司という響きが気になって購入してみました。

結論としては『僕には合わない』でした。
というか最初の部分で著者が嫌いになったので
ここから先はどんな文章が書かれていてもそれが心に響くことは無いと判断しましたので、序盤と、所々を飛び石状に読んで終了です。

理由は二つ、
こういった本の場合『よくあるAという方法ではダメだからBという方法の方が良い、なぜならCという理由だから』というのが基本的な構成になることが多いのですが、その理由部分のエピソードとして例えば、毎日小さなミスが1年続いた場合、トータルではより大きな損失を会社に与えていると論じていますが、期間とお金の関係でいえば長期間の損失と一撃必殺の不渡り手形などとは全く異質のもので、ダメージの総量は同じでも期間による回復や状況の変化、薄く広がるダメージと狭く深いダメージの違いに言及していない点など(もちろん薄いダメージでも迅速に対処しなければならないが)、言葉のインパクトで事例を選択している当たりが薄っぺらく感じてしまいます。

また、社長力のようなエピソードとして
社長と二人の社員が歩いている時に歩道で子供がひっくり返って大声で泣いている状況に遭遇した場合の行動として、「どうしたの?」と尋ねる社員を否、冷たく見放す社長を是としていて、事例では、子供は少し遠くを見ると母親がいて、その直後に母親が小走りで近づいてきて二人の社員に頭を下げ、子供を叱っていた・・・

これもまたぶっ飛んでいて、あまり詳細な表記は避けますが、
【この子供は単なるわがままを通そうとしているだけで、母親はこの子供を教育している最中なのだから。それに構ってやるのは教育の機会を奪う行為である。】と・・・

これは、ダメですね。

まず通りすがりの歩道でひっくり返って泣いている子供が、どういう経緯でその状態になっているかなどは分かりません。
『かも』を言い出せばキリがありませんが、怪我や病気かもしれない、母親が近くにいたとしても狼狽しているかもしれない。
そもそも初めて会う子供の母親が少し離れたところにいるその女性であるなどという確証はない、もっといえば虐待の真っ最中かもしれないし、誘拐の可能性だって0ではない。
ましてや泣き喚くくらい元気な子供なら突然車道に走り出すかもしれない、そして教育しているとしてもあまり離れるのは誘拐や事故の危険を考えると望ましくないと社会が母親をこそ教育すべき状況なのは明らかです。

ということは子供へのリスクを最小限にするためにも
社会=他者との接点を構築することによって最低限の安全を確保するという社員の行為は何ら間違ったものではないということです。

著者は社長の意識の持ち方として、他人に頼らず独立不羈(ふき)の精神が大切なのだから、他人に対しても甘えを許さないことが肝要であると説きますが、経営者の視点を小さい子供にまで要求するというのは万民に同じ価値観と同じ行動を要求しているという事で、
だったらそもそも人間が仕事をする意味すらなく、経営云々というより人間としてどうかなという感じです。

ちなみに僕が訪問販売の会社にいた頃、新人研修の時に駅前で「絶対売ります!感情など出しません!売りまくります!自動販売機になります!」って絶叫させられましたが、そういう時代の経営方針なんじゃないかと思います。

少し読んだだけでも分かる的外れ且つ強引な事例や
状況判断を主観のみに委ねて、浅慮の押し付けに終始する姿勢は
結局のところ儲かったという結果によって過程を正当化しているに過ぎません。
もちろんそれは結果への評価という意味では正しいですが、ここで正当化できる過程というのは『傲慢経営で結果的に儲かった場合』に限り、それは金儲けが上手かったことの証明『だけ』です。
ただし、会社経営の目的は儲かることなんですから、これも正しいです。

そういう意味では個人経営の会社では
良書と呼べるかもしれません。

しかし僕は困っている人に手を差し伸べられる男でいたいです。
弱者のために闘えるヒーローになりたいわけです。

「金が欲しいか?」
と聞かれれば「もちろん欲しい、目一杯欲しい、有れば有るほど良い」と答えます。

ですが、「金持ちになりたいか?それともヒーローになりたいか?」と聞かれたなら「ヒーローになってその力で結果的に欲しいものを手に入れるよ」と答えるべきが真の男の子だと思うのです。

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