城下町の歴史は重い 2009-09-27 01:30:41 | 町づくりって楽しいかも! この町を作ってくれた先人たち・・・ ささやかな勉強会に参加させていただいた。予備知識として「上野市史」を叩き込んで望みましたが、知らないことが多すぎ そんなささやか且つ重要な会でしたが、 「万吉稲荷」のこと 上野の町にとっていかに木津川が大事だったか。 当然の如く、「祭」の話は出てきます。 そこで宮崎屋さんが出してくれた「吉岡新聞輔」作成のパンフレット。 「平成元年」??(よくぞ残していてくださいました・・・) あれっ!(20年前の我が家?か) また、話がそれた « とあるTVドラマの | トップ | 興味津々 昔の米相場 »
2 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 Unknown (kaeru3号) 2009-09-27 10:26:26 お疲れさまでした!あれから戻って、いろいろ話し合いましたが、店名決まりませんでした・・・ムズカシイですね。(考えすぎやろか~) 返信する Unknown (Unknown) 2009-09-27 11:30:59 伊賀から材木・お米など大阪へ届け、大阪から塩・砂糖もろもろの物資が運ばれていた、しかも木津川を利用した「水運」。その荷物が伊賀に着いて、最初に届いた商人町が「西町」。大阪に送り出すため、特に「米問屋」は多かった、とか。そして「西大手門」を通って「お城」に運ばれていた。お殿様がご馳走を召し上がる折には、西町の大店さんでは一緒にご馳走を食していた、というお話も面白かったな。(ちょっと贅沢できる日があったのね)西大手門は主に生活物資流通門だったとか・・・いろいろ教えていただいたことが生かせるといいのですが。大阪の「米相場」、実は「狼煙」を上げて、山から山へ連絡網!米の値段は伊賀が牛耳ってたかも、と思うとなかなか興味深い。「狼煙」を見るための「櫓」は、どこにあったんだろうね? 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
あれから戻って、いろいろ話し合いましたが、
店名決まりませんでした・・・
ムズカシイですね。(考えすぎやろか~)
その荷物が伊賀に着いて、最初に届いた商人町が「西町」。
大阪に送り出すため、特に「米問屋」は多かった、とか。
そして「西大手門」を通って「お城」に運ばれていた。
お殿様がご馳走を召し上がる折には、西町の大店さんでは一緒にご馳走を食していた、というお話も面白かったな。(ちょっと贅沢できる日があったのね)
西大手門は主に生活物資流通門だったとか・・・いろいろ教えていただいたことが生かせるといいのですが。
大阪の「米相場」、実は「狼煙」を上げて、山から山へ連絡網!
米の値段は伊賀が牛耳ってたかも、と思うとなかなか興味深い。「狼煙」を見るための「櫓」は、どこにあったんだろうね?