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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

古里の今昔14 古里八坂神社祭り囃子保存会規約

2009-06-17 00:20:00 | 古里

  無形文化財古里八坂神社祭り囃子保存会規約
第一条 本会は古里八坂神社祭り囃子保存会と称する
第二条 本会は古里八坂神社氏子中を以て組織し、事務所を尾根公民館内に置く
第三条 本会は無形文化財祭り囃子を永久に保存し、年々の祭事を円滑かつ和やかに行うと共に、八坂神社の御神徳を仰ぎ、氏子の敬神思想を高め、当地区の繁栄を期することを目的とする
第四条 本会は第三条の目的を達成するため左の事業を行なう
   一、祭り囃子技能の練磨
   二、先進地の視察研修
   三、その他
第五条 本会に左の役員を置く
   会長一、副会長二、理事若干名、幹事二、顧問若干名
第六条 役員の選任及び任務は左のとおりとする
  一、会長副会長は理事会の推薦による会長は本会を代表し会務を主宰する。副会長は会長を補佐し会長事故あるときはこれを代行する。
  二、理事は総会において選任する。理事は理事会を組織し、本会の目的を遂行するために必要な諸般の事項を議決、執行する。
  三、幹事は会長之を委嘱し会計事務に当る。
  四、顧問は理事会に諮って会長が委嘱し、重要事項について会長の諮問に応ずる。
第七条 役員の任期は二ヶ年とし再選を妨げない
第八条 本会は毎年八坂神社例祭のとき総会を開き会計会務の報告等を行う。役員会は必要に応じ開催する
第九条 本会の経費は八坂神社氏子一同の醵金寄付金補助金等を以て之に当てる
第十条 本会の会計年度は毎年例祭の翌日から翌年例祭の日までとする
第十一条 本規約は総会の議決を経なければ、之を変更することはできない
   附則
第十二条 この規約は昭和四十八年七月二十日より施行する

     安藤専一『郷土の今昔』 1979年(昭和54)1月


古里の今昔13 八坂神社祭り囃子略譜

2009-06-17 00:17:00 | 古里

   祭り囃子略譜
一、若ばやし
  トンコトンコ トントコトントン トンコトンコ トントコトントン~
  笛に合わせて 繰り返えす

二、はやし(くもうでん)
  テレンテン テレンテン テレンテン
    どん テン どん テン どん
  テンテン テレンコ テンテレン
  テケテン テンテン テンテン テンテン
  テケテン テンテン テンテレン
  テケテン テケテン テレボコ テンテン
  スケテン テレボコ テレボコ テンテン
  スケテン テレボコ テレボコ テンテン
  スケテン テレンコ テンテケ テンテン
  スケテン テレンコ テンテケ テンテン

  笛トヒーヤ
    テレボコ テンテン スケテン テンテン テンテレン
    テレボコ テンテン テレボコテン

  1.テケテン テケテン テレボコ テンテン
  2.同じ
  3.同じ
  4.テケテン テレンコ テンテレン
   (1)テンテケ テン テン テン テン テン、テンテン テレンコ テンテレン
   (2)同じ   笛 トヒー
    テテンガ テン、 テテンガ テン
    テン どん テン どん テン どん テンドン
    テン テン テレンコ テン テレン

三、新ばやし
  笛 トヒーヤ
    テケテンテン、 テントン テケトン
    テントコ トンテケ
   笛に合わせてこれを繰りかえす

     安藤専一『郷土の今昔』 1979年(昭和54)1月


古里の今昔12 八坂神社祭り囃子

2009-06-16 21:45:16 | 古里

  八、八坂神社祭り囃子
 八坂神社・愛宕神社は当嵐山町古里六五の一番地兵執神社(元は■取)の末社である。
比企神社誌によれば、「八坂神社愛宕神社外六社を明治末期(明治四十一年頃)兵執社に合祀す」と記されている。
 八坂神社・愛宕神社は元、尾根愛宕山に鎮座し、尾根及び内出向井組の総氏神として、古くから崇拝され又天王様として親しまれた社である。
 八坂神社は元、天王社と呼ばれ素盞鳴命を、愛宕神社は火産靈命を祭神とし、いずれも数百年来郷土人に崇拝されて来た神徳あらたかな社である。
 八坂神社の例祭は、古くから旧六月十四、十五の両日行なわれ、夏祭りとして御輿の渡御が盛大にとり行われて来た。最近は社殿より元社殿跡愛宕山のお假舎に奉遷して、その当夜、東西大字境まで渡御して祭事を終る程度に変った。御輿の渡御と並行して山車を繰り出すことになったのは大正十四年(1925)頃で、天王祭りをより盛大に行ない、之を近郷に喧伝して氏子衆の気概をあおり、併せて五穀豊穣と疫難払拭を祈願する氏子一同の切実な叫びを具現したに外ならない。即ち氏子若連を結集して祭り囃子の猛稽古にかかり、山車上に華やかな囃子の響き始めた大正末期より今日まで約五十年の歳月を重ねるに至った。
 祭事は現在七月十九、二十日行われているが、養蚕の関係で数日前後する年もある。一時氏子中の総意により祭りを中止したこともあったが、今は再現してやや盛況を取り戻し始めた。
 御輿渡御の掛声や祭囃子の太鼓・笛の音は農民の声である。若連の打つ囃子の音は近隣に響き渡り、氏子中はもとより遠近から参集する人々の心を楽しませてくれる。
 無形文化財祭り囃子を永続されるよう切望して止まない。
 次に祭り囃子の構成等について記す。
一、祭り囃子保存会規約(別紙)により運営する。
二、保存会の構成 八坂社氏子全員を以て構成する。
三、演技責任者 氏子代表及び演技代表
四、演技執行場所 愛宕山及び尾根を主体とする地域とする。
五、演技執行の時期 八坂神社例祭当日、その他
六、使用する楽器 横笛 大太鼓 小太鼓 鐘 その他
七、演技者の構成 笛吹 一人 大太鼓 一人 小太鼓 三人 鐘叩き 一人 ひょっとこ踊り 一人
八、演技者の服装 揃いばんてん 八巻 その他
九、演技の種類
   1.若ばやし 2.はやし(こくもでん又はくもうでん) 3.新ばやし
十、祭り囃子の曲譜  (別紙)
十一、開始当初の若連と指導者
   1.若連 飯島益三 大塚寿良 大塚延一 大塚茂一 大塚悦蔵 関根末吉 飯島貞治 安藤源蔵 田畑正義
   2.指導者(江南村板井の人たち) 富岡寿朗 吉野金作 笠原富治 関口義治 関口宗吉 吉野和三

     安藤専一『郷土の今昔』 1979年(昭和54)1月


古里の今昔11 兵執神社獅子舞細記

2009-06-15 21:42:00 | 古里

   附 元村社兵執神社特殊神事獅子舞細記
 昭和二十五年(1950)十月、七郷村教育委員会教育長就任の折、県文化財保護委員会宛報告した資料で、内容は左記のとおりである。
一、類別・名称 無形文化財 獅子舞(ササラ)
二、所在地 比企郡七郷村大字古里字中内出
   元村社兵執神社特殊神事として行う
三、管理者 兵執神社氏子総代 五名
   現在の代表者 大塚禎助
   前代表者 安藤寸介
四、後援団体と責任者
   後援団体 兵執神社崇神会
   演技責任者 大塚正市
五、行われる場所 兵執神社社頭
   尚隔年十月廿六日、小川町大字奈良梨八和田神社(元諏訪神社)秋例祭に行う。
六、行われる機会 兵執神社秋例祭 十月十八日 十月十九日
   八和田神社秋例祭 十月廿六日
七、時期 十月十八日 足揃い、十九日 本場所
   午後三時開始 仝五時終了
   十月二十六日 八和田神社は隔年午後
八、芸能の演目
 1.堂浄古根固 2.場均らし 3.穏平掛り 4.花掛り 5.女獅子隠し 6.かけ出し   7.神楽
九、芸能の次第
 1.街道下り 2.通し神楽 3.棒使い 4.堂浄古根固 5.場均らし 6.穏平掛り 7.花掛り 8.女獅子隠し 9.駈け出し 10.神楽
十、歌詞、唱え詞等
 1.堂浄古根固 舞妓の初まる当初の歌詞、これから始まることを知らせ、その場所を浄めかつ固めるものである。
  ○子供達ささらが見たくば、いたこうなあよ
    いたこの上には天狗びょうしよなあよ。
 2.場均らし 獅子舞の中程にて唱となる。
  ○この宮は飛騨の工匠が建てたのか 楔一つで四方固むる
 3.穏平掛り 舞技の中程で唱となる。
  ○廻れ車水車、遅く廻ると関の戸で迷ふよ。
 4.花掛り 舞技の始めA 中程にB 終りにC
  A.天神様の梅の花、莟み盛りに曲を遊ばす。
  B.天竺天王まる三ヶ月の頭を揃ひて気を細やかに
  C.十七八の髪結ひ姿、見るに見られぬ、今のきれをはぎりを違いた。
 5.女獅子隠し
  ○思ひもよらぬ朝霧が立つ、そこで女獅子がかくされたよな。
   女獅子花笠に隠れた時に唱う。
  ○風が霞を吹き晴らし、そこで女獅子が肩並べた。
   女獅子を出した時に唱う。
  ○松山の松にからまる蔦の葉も、縁が尽きれば、ほろりほとほぐれる。
   方元と男獅子と和睦する場合の歌
 6.駈け出し
  ○山雀があへとて里へ出て、ここのお庭に羽根を休ませる。
   獅子舞の中程で唱となる。
 7.神楽
  ○雨が降りそで、黒雲が立つ、お暇申して、いざ帰うらんせ。
   最後の歌で、舞の最終に唱う。
十一、装飾用具等の概要
   竜頭獅 方元獅子 女獅子 男獅子
   中立用お面(道化) 一
   太鼓 三
   万燈 一
   笛 五
   樫長棒 四
   金棒 二
   花竺 四
   ササラ 四
   その他 襷、タッツケ外
十二、使用する楽器の概要
   主楽器 横笛、太鼓
   外 拍子木 ササラ ほら貝等
十三、芸能を行う人の構成
   拍子木兼歌うたい 一人
   棒使い 四人
   花竺 四人
   中立ち 一人
   獅子舞 三人
   笛吹 五人
   貝吹き 一人
   万燈掛り
   外に神官、氏子総代五人
十四、芸能を行う人の服装、持ち物
   拍子木兼歌うたい…袴着用、拍子木
   棒使い…袴襷八巻、六尺樫棒
   花笠っ子…袴 花笠 ササラ
   中立ち…立附袴 小花笠 面 わらじ 御幣
   獅子舞役…立附袴 わらじ 小太鼓 獅子頭 バチ
   笛吹き…袴 羽織 横笛
   貝吹き…袴 ほら貝
   露払い…立附袴 金棒
十五、芸能を行う人の資格
   主役 ササラッ子は、農家の長男の中より選び、十二、三才から満二十才まで七、八年継続し、順次新人に引次ぐ。
   棒使い 同じく農家の長男中から選び、十五六才から二十才まで継続する。
   中立ち 女獅子役をした先輩中から選ぶ。
   笛吹き 永年継続となり逐次新人も入れて交代する。
   他は随時適任者に依頼して交代する。
十六、芸能開始前の行事
   秋季例祭の奉納演技であるので、神官を中心とする例祭行事の終了を待って始める。したがって開始前は用具の状況を点検し、御神酒で身体を浄め、演技係の諸注意を受けて、社務所に待機している。例年午後三時ごろより開始する。
十七、芸能開始より終了後の行事
   社務所前の演技一場所を終り、社前に向って街道下りの獅子舞に移り、社前では初庭二庭と二場所行って終了する。
   終了後は拝殿において年番氏子総代に着用具を渡し、社務所に全員引上げる。そして晩さん会に入る例となっている。
   拝殿では用具を整理し、総代立会いの元に上番から下番に引継ぎをする。
十八、芸能の由来
   その起源は不詳であるが、一説には元禄の頃より始められたと古老から伝いられている。又新篇武蔵風土記稿に「宝永七年(1710)の棟札には兵執明神と書せり」とあることから考えれば、当年同社の大普請を完了したことが確定され、その改築祝いとして、当時各所で流行したササラ獅子舞に習って、大稽古を企画し収得して奉納したことが、同社獅子舞の始まりのようにも考えられる。宝永は徳川家宣将軍の頃で、元禄より約二十年後代である。
十九、他の芸能との関係
   同村【七郷村】越畑八宮神社の獅子舞も最近復活し、毎年七月二十五日夏祭行事として執行されている。
   なお吉田・鎌形・将軍沢等の獅子舞は、役者難のため先年より中絶するに至った。  昭和五十四年一月再記

     安藤専一『郷土の今昔』 1979年(昭和54)1月


古里の今昔10 ささら獅子舞 2

2009-06-14 19:04:00 | 古里

   ささら獅子舞(二)
 入間比企方面から北足立の一部にかけて行われる獅子舞の特徴の一つは、曲目が二つから構成されているといわれる。
 越畑八宮神社奉納の獅子舞もその例にもれず初庭と二庭の二曲からなり立っている。
○参り来てこれのお庭を眺むれば、黄金小草が足にからまる。
 初庭はこの歌詞が主題となって演技される。四本の花笠は百花咲き乱れる春の野を表現するもので、その中に獅子三頭三つ巴になって笛鼓の音にのり楽しく舞い遊ぶ場である。
○この宮は飛騨の匠(たくみ)の建てたげな、楔一つで四方かためる。
 二庭の中心歌詞である。初庭の明るい舞から、雄獅子雌獅子をめぐって織りなす葛藤へと発展する、雌獅子争いの物語であるが、いつしか和解できて千秋楽となる。
 獅子舞の外に四人の棒使いがおり、演技の始めに棒術を行なう。これはいずれの獅子舞においても行なわれるもので、演舞場を祓い清めるためのものと思われる。
 最後に中立ち(道化役)であるが、これは演技の指導者で、経験者の元老格でなければ中々務まらない。
 この外万燈持ち、ホラ貝、先払(露払)、頭笛、笛吹衆、等の諸役があり、この人たちが結集して演技が成立するのである。
 毎年七月二十五日(旧六月二十五日)の祭礼には、豊作・疫病除け、雨乞い等の祈願のためこの獅子舞が奉納され、氏子一同を喜ばしている。

     安藤専一『郷土の今昔』 1979年(昭和54)1月


古里の今昔9 ささら獅子舞 1

2009-06-13 19:02:00 | 古里

  七、五穀豊穣を祝い、天災疫神を払う
   ささら獅子舞(一)
 大字古里兵執神社奉納のささら獅子舞は、毎年十月十八、十九日の同社秋季例大祭に行われる。
 演目として堂浄古根古、場ならし、穏平掛り、花掛り、女獅子かくし、駈け出し、神楽の六場面に分れているが、始めから花掛りまでが初庭、女獅子を中心とする後部が二庭に大別できる。初庭の始めに四人による棒術が行われ、演舞場を祓い清める。初庭では
  子どもたち、ささらが見たくば、いたこうなあよ。いたこの上には天狗廟所なあよ
の歌詞からはじまり、六つの歌詞が演技中に織りこまれている。
 二庭の女獅子かくしの歌として、次の五つが挙げられている。
○思いもよらぬ朝霧が立つ、そこで女獅子がかくされたよな。
三頭仲良く遊び戯れているうち不意に花笠が四方から寄り集まって、女獅子をかくすときの歌である。狼狽した男獅子二頭は、花笠の四周を狂気して探し廻る。その内若い男獅子が女獅子を発見して、花の間に入って互いに睦み合う。大頭獅子はこれを知って嫉妬し、男獅子二頭の争いとなる。
 花笠が四方に散って女獅子が外に出ると、
○風がかすみを吹き散らし、そこで女獅子が肩並べた。
○松山の松にからまるつたの葉も、縁が切れればほろりほとほぐれる。
両獅子は争いを止め、お互に怒りの心をほぐして、以前のなごやかさに戻る。
○山がらが山があいとて里に出て、ここのお庭に羽根やすませる。
そして最後の神楽移り
○雨が降りそで黒雲が立つ、おいとま申していざこうらんせ。
の歌詞で演技を終るのである。
 以上歌詞の多いことが、この獅子舞の一特徴であるが、その演技内容はいづれの場合もほぼ同一のものと考える。
 なお、この獅子舞は隣接八和田神社へ隔年奉納することとなっていた。

     安藤専一『郷土の今昔』 1979年(昭和54)1月


古里の今昔8 正月行事の今昔

2009-06-12 18:58:00 | 古里

  六、正月行事の今昔
 歳末の山里では、家の軒下や庭先に高く年木を積み上げて春を待ち、歯朶刈・注連作りが行われ、町には年の市、羽子板市が立ち、年も暮近くなると門松の飾りつけがされ、各家の要所は注連が飾られる。煤払い、畳替えも済んで餅搗が終ると、いよいよ大晦日となる。昔は年男を中心に念入りの正月準備がなされたが、昨今は大分様相も変って正月準備もえらく簡素化された。テレビの紅白歌合戦に興じ、晦日蕎麦をすすって年の夜を惜しむ風景は、町も農山村も同じようで、これが近頃の除夜風景といってよい。百八の煩悩を一つづつ救うという除夜の鐘は、行く年来る年を荘厳にしてくれ、清浄な中に新春を迎えるわけである。
 松の内。松飾のある間が松の内である。関東では元日から七日まで、関西では十五日までを松の内とするようである。昔はこの辺でも七日間を松の内として正月気分にひたったようであるが、今は五日または三が日で注連飾や門松を取り払う家が多くなった。
 一月一日は年の元日、昔の四方拝の祝日である。現在も国家の祝祭日とされ、年の第一日として各所各様の行事が行われる。歳旦祭は神官を招じて各鎮守ごとに執行され、氏子一同の幸運を祈願し神酒を酌み合うて身心の清浄と多祥を念ずる郷土行事である。
 初雞、初明り、初日、初空、初詣、若水、初暦、初かまど、初富士、初笑、初泣等々は新年初めての諸行事で、新鮮さ豊かなもの。
 一月二日は単に二日と呼ぶ。商家では初売りの荷をにぎわしく飾り立てて、昔は馬、今はトラックなどで送り出す。これが初荷であるが、昨今は昔のような華やかさは消えてしまった。この日も今は乱雑となり種々変化している。
 初夢は二日の夜から三日の暁にかけて見る夢である。
  長き夜のとおの眠りのみなめざめ 波乗り船の 音のよきかな
 この歌を認め、紙で折った宝舟に入れ、枕の下に敷寝して吉夢を得ようとし、もし悪夢のときは之を水に流すのである。この行事は今はごく小数の風流人のする所作となってしまったが、正月らしいイメージの一つである。
 また二日は書初をする。古くは元日に公武両家の人達で試筆を揮ったものであるが、今は書をよくする人達が詩句作句等を揮うもので、多く二日を期して行われる。学校の児童生徒の書初もまた二日に書くものが多い。
 一月三日は元の元始祭の日である。新年に始めて仕事につき事務をとることを事務始めまたは仕事始めという。農家の仕事始めに山始、鍬始等があって、山の神、田畑の神々にお参米して今年の豊作を祈願する行事は二日又は三日に行われたが、昨今は殆ど絶無となった。諸官庁の事務始は三日まで公休のため四日に変っている。年末の御用納め、新年の御用始は昔ながらの用語が使われ、今なお御役所として公僕の立場を重視しているようである。
 七日は七種粥をつくる。春の七種は
  せりなづな、御形(ごぎょう)はこべら仏の座、すずなすずしろこれや七種
の歌のとおりで、古くから万病を払う攘い邪気を除くといわれ、若い乙女子の手に摘まれ、煮られるのが本義とされている。若菜は七種の総称とされている。冬枯の野に出て、七種を摘み、これを粥にして食するということは、新年の一日にふさわしい清々しい行事である。
  一月十日 初恵美須、十日戎
  小正月  一月十四、十五日 餅花繭玉
  小豆粥  一月十五日 十五日粥ともいう
  一月十六日 薮入り 養父入り 里下り
  一月二十日 二十日戎

     安藤専一『郷土の今昔』 1979年(昭和54)1月


古里の今昔6 重輪寺の大榧

2009-06-10 01:31:00 | 古里

  四、重輪寺の大榧

   重輪寺の大榧

 この榧(かや)は寺院の東南過路の辺りを占め、現在大小二本が万朶を拡げ亭々として寺前にそびえている。
 榧はイチイ科の常緑喬木で、
    樹高    約十八メートル
    目通り周囲 約四メートル
    推定樹令  約三〇〇年
 昭和四十三年(1968)九月二日 天然記念物として町指定となる。

     安藤専一『郷土の今昔』 1979年(昭和54)1月


古里の今昔5 一夜堤・行灯堀の由来

2009-06-09 01:28:00 | 古里

  三、一夜堤・行燈堀の由来
 農民層の没落は幕藩領主の年貢増徴策による重税、商業資本の農村浸透による窮乏などが根本原因であると云われているが、また度々の天災地変と飢饉も大きな原因になったものと思う。
 古里北田耕地耕作者の総意により本題の行燈堀掘削普請が決行された頃は、数次にわたる大飢饉に見舞われた左記近世の三大飢饉の直後と推定される。数次の干天続きによる水不足が、農民の気持を極度に興奮させてこの普請に踏み切ったものと思う。

   記
 享保の大飢饉 享保三年(1732)で関西以西が特に著しかった。
 天明の大飢饉 天明三年~七年(1783-1787)
 天保の大飢饉 天保四年~八年(1833-1837)
 大飢饉の影響による農民の窮乏と分解は甚だしく、この頃全国各地に飢民蜂起・農民一揆が頗発した。安藤長左衛門は天保年間の古里村代表名主で、この行燈堀普請の陣頭に立った人物である。この由来については、かつて『菅谷村報道』に登載したのでこれを次に掲載することとする。

   「一夜堤行燈堀の由来」(いちやどてあんどんぼりのゆらい)

     安藤専一『郷土の今昔』 1979年(昭和54)1月


古里の今昔4 明治のほほえましい人たち

2009-06-08 01:24:00 | 古里

  二、明治のほほえましい人たち
 明治三十八年(1905)日露戦役終結後から大正の初期は私の少年時代で、自動車は勿論なく自転車すら稀に見る頃で、汽車に乗るにも熊谷駅まで十二キロの道を徒歩で行く始末であった。
 村内の人家は殆ど全部百姓で、この頃の農家は老人から子供まで一家総動員で実によく農作業に忙んだものである。
 祖父や父や子供の私たちは暗いランプの下で、縄ない、わらじ・足中(あしなか)作り、秋のよなべは俵編みも父の指導でやれるようになった。祖母や母はその側で綿操りや木綿つむぎなどし、時にぼろとじをしたことを思い出す。
 この頃古里の奇抜な人々として次の人たちが世間の話題に昇っていたことを、そして彼等自身もそれを自負して淡々として生き抜いたのではないかと、追慕の念にかられるのである。

(1)井上重太郎氏
 イ.尾根に住む。晩年内出に移転する。
 ロ.ニックネーム  わしもそうもう(思う)重太さん
  滑川村和泉の出身で字尾根に居を構え、駄菓子・雑貨等の小売を営んでいた。小造りの男で商売の暇はよく新聞を読んでいた。中々の話好きでしかも田舎物としては博学者、その上節約者で預貯金も人一倍貯えていた。
  人と対談するとき、応答のまず筆頭に「わしもそうもう」を口癖としたので、知らず知らず世間からこのニックネームが附せられたものである。【以下略】

(2)飯島辰三氏
イ.尾根の住人
ロ.ニックネーム  目パチパチの辰三(よしみ)さん
 昔は名主をした旧家の主人公であるが、中年事業に失配して大家をたたみ東京王子方面へ転居してしまった。私の父親と同年輩でしかもべっこんの間柄であったため、拙宅とよく往き来した。
 人と対談するときその他誰でも目ばたきはするものであるが、辰三氏は特にその頗度が高かったので、このニックネームがつけられるようになったのであらう。
 晩年郷里に戻って若い奥さんと共に店子を経営したが、老後も相変わらずの目ぱちぱちの辰見さんの愛唱で通ったなつかしい一人であった。

(3)飯島牛次郎
イ.尾根の住人
ロ.ニックネーム  あつはあはあの牛しゃん
 尾根の小農家の主人公であるが、本人は桶職をして「桶屋の牛っさん、あっはあはあの牛しゃん」で地元民から親しまれていた。」
 桶作りの時も道中で行き合った時も、満面笑顔の中から所かまはず陽気なあっはっはあを連発して、人々を喜ばせるのが彼の常道であった。大人でも子どもでも誰彼なくこの愛敬を振りまいて、他人を喜ばせ自身もまた心から楽しんで一生を生き抜いた誠に奇抜な持主の一人であった。

(4)木村しげ女
 イ.尾根に住む
 ロ.ニックネーム  これはしたりのおしげさん
 旧男衾村今市(おぶすまむらいまいち)から木村家に嫁した婦人である。当時尾根随一の美人女房として評判の高かった婦人であるが、木村家に嫁した直後、夕食後の食器洗いをしている最中、ふとしたことから飯茶碗を台所に落し運悪く割ってしまった。その時彼女の口から突如発したことが「これはしたり」の言で、その後誰云うとなくその言葉が云いはやされて、遂に彼女の代名詞として残ったものである。

(5)大塚作造氏
イ.尾根の住人
ロ.ニックネーム  滅想 作さん
 熊谷・小川街道添に住んだ一農家の主人である。ごく沈着冷静な性格で、終日鍬鋤を振って農事に勃頭した男。農作業の往復の途次朝夕の区別なく会う人毎に「滅想もない……云々」と言う口癖のため、この愛唱が生れたものと思う。「滅想もない」は「とんでもない」の意味を持つものであるから、人から暑いのに、寒いのによくやりますねと云われたとき「滅想もない、毎日の仕事だからね」なら常識であるが、所かまわわずこれを連発するところに、この人のよさが伺われるのである。

(6)飯島善太郎氏
 イ.尾根に住む
ロ.ニックネーム  尾根の善さん 襟をつまんでかしこまる
 善太郎氏は時の区長や区長や諸役にも就かれた、尾根有数の人物である。こく礼儀作法にかない道徳心の強い人で、男女を問わずてい重に他人の応接に当ることで評判が高かった。他家を訪問して座につくと、必ず襟元を合わせ着物の裾口をよく合わせてかしこまる。それから丁寧なあいさつを済ませ、理に叶った用件を話して対人の意見を伺ういう順序に運んだという。
 現代の人たちも飯島さんに少し見ならうべきではないか。

(7)安藤金蔵氏
イ.内出(向井)の住人で筆者の祖父
ロ.ニックネーム  何あにさあの金蔵さん
 安藤専一家の祖父である。「働きを冥土の旅の置き土産(畑良起が原文)」の辞世の句を遺して一生涯を終ったが、生前は七郷村議会議員を始め諸役にも就任して社会人として貢献し、家庭においては勤労に努め篤農家として財を積み、古沼再興工事には委員長として専念し、晩年には住宅の新築を中興の祖となった人物である。
 熟慮断行型の人で、他人から種々の意見を述べても「何あにさあ、こうこうしかじかでおれはやる」と自説を主張して、決して自意を曲げない性格であった。そのためこの人物評があったものと考える。
 尚、野守亭、後に俵雪庵古洲と号して俳句をたしなみ、明治廿五、六年(1892、1893)には兵執神社奉額句集を主催し、また庭木にも親しんだ多趣味の人であった。

(8)安藤照武(織三郎は前名)氏
イ.内出の住人(筆者の外祖父)
ロ.ニックネーム  店の織さん、キセルを上げて
 安藤貞良氏の実弟で安藤仙蔵家の先々代である(祖父)。兄貞良氏が七郷村二代村長の時助役を努め、各種役員にも歴任した古里一流の人物であった。安藤宗家長左衛門に子供が無かったため、兄貞良氏が夫婦子供を挙げて宗家入りしたのでその後を受けて実家を継ぐこととなった。
 家に在ってはよく農事に勤め、そのかたわら店子も営み、菓子団子などを商った。たばこを好み、どうらんからきせるを抜き出すと、必ずその右手を頭上高くさし上げてから、おもむろにたばこをはさみ点火して吸い出すのが、常時の癖となった。吸いきるときせるさしに当てて吸いがらを叩き、又きせるを頭上にさし上げてからきざみをつめこむと云う仕ぐさである。これを見ていた人たちから、誰云うとなくこのネームが言い出され、字中の評判となったものである。

(9)千野英一氏
イ.内出の人
ロ.ニックネーム  あんだいの英一つあん
千野家は代々精農家で英一氏も若年の時からよく働いた。大変きさくな性格で、誰彼となく話かけ「あんだい、百姓はあきず働かなきゃあだめだいねえ」「それであんだい、天気にゃあ天気の仕事があり、雨の日にゃあ雨の仕事がいくらでもあるもんだ」などとよく語った。蔭日向なく一生を働き通した男で、晩年は大家作を仕上げ、また神社や寺院の総代となり社寺事業にも誠を尽し、看護兵の経験もあってちょっとした傷手当は手豆にやってくれるので、近隣の人から好かれた人である。「あんだいが来た、あんだいが来た」と彼の代名詞は人々の評判であった。
     安藤専一『郷土の今昔』 1979年(昭和54)1月


古里の今昔3 小名のことから

2009-06-07 01:20:00 | 古里

  一、小名のことから
 小村落馬内(もうち)・内出(うちで)・尾根(おね)・西方(にしかた)等から、古里村へと村落統合が行われたのは可成古い時代と思われる。畠山重忠が当地方の支配者として威勢を振った頃は、既に男衾郡古里村の名が出ている。
 西方が古里村から分村して西古里村となったのも、いつの時代か不明であるが、新記稿【新編武蔵風土記稿】によれば「正保ノ改ニハ既ニ二村トセリ」と載っているので、少くとも正保以前である。随ってこの分村は徳川中初期の頃、或いは更にさかのぼって戦国の頃かも知れない。古里村・西方(西古里村)とも重輪寺の同一檀家であり、慶長年間当時の古里村中が大同団結して重輪寺建立に当った歴史もはっきりしているので、西方が利害関係のため(古老の言)分村したのはそれ以降ということになる。
 古里には馬内・御領台・内出(打出)・駒込等、西古里には矢﨑・吉田には馬場(ばんば)矢﨑(矢先)・陣屋等戦争に因んだ小名が多い。馬内・番場は軍馬を集結した所であり、内出は出陣の場所陣屋は軍平の宿舎のあった所である。
 また矢﨑は矢の盛んに飛び散る戦争場所であり、駒込は斃馬を埋没した所である。このことから昔戦場となったことが知れるが、いつ誰らの戦争であったか、古文書等が皆無のため更に不明である。
 次に古里には駒込古墳群・岩根沢古墳・二塚・藤塚・神山等古墳(主として円墳)が散在している。このことから思考すれば、古墳文化時代から先住民が居住していたことが知れ、特に駒込古墳からは武人埴輪・庶民埴輪・馬方埴輪(何れも不完全)曲玉管玉が出土し、岩根沢古墳からは古刀・曲玉・管玉が出土を見ている。武人埴輪は七郷小学校へ庶民埴輪は七郷中学校へ寄贈されて長く保管していたが、現在は武人埴輪は県立歴史資料館に、庶民埴輪(特殊の冠をつけたもの)は教育委員会に移管されている。
 古墳文化時代は崇神天皇(二〇〇年)の頃より大和時代・飛鳥時代中期頃まで約四百年間(この風習は約五、六百年間続いたと思われる)続いたわけで、古里にはその頃から先住民のいたことが知れる。
 古里出身の偉大な人物はまことに少ないが、慶長の頃越後高田城主徳川忠輝の家臣として大阪冬・夏の陣に参戦して武功を立てその功により信越の領主となった安藤山三郎、嘉永の頃行燈堀工事の先頭役名主安藤長左衛門、幕末より明治に渡り名主・戸長・七郷村長となり治績を挙げた安藤貞良、七郷村長・武芸に長じた中村清介、陸軍歩兵大尉としてシベリヤ事変に参戦した安藤益介、また一兵卒から騎兵大尉に昇進した安藤巳代吉等は出世頭の筆頭として賞讃に値する人々である。
 以上小名(こな)(小字)のことから関連する事柄を記したが、とにかくわが古里は單に古い村ばかりではなく、愛すべくなつかしい郷土であると思う。故に本篇の第一に登載した次第である。
     安藤専一『郷土の今昔』 1979年(昭和54)1月


古里の今昔2 自序

2009-06-06 01:18:00 | 古里

 昭和二二年(1947)四月一日、七郷村立七郷中学校長を拝命して同校創始期を九か年。同三十一年(1956)四月一日菅谷村立菅谷中学校長に転補となり六か年。更に三十七年(1962)四月より七郷中学校に三か年計十八年間の中学校長を終って四十年(1965)四月一日付で学校長を退任した。
 数度に渡る関根茂章村長の懇請に打ち勝てず、停年より一ヶ月早く学校を退いた。そして引き続き四月五日付で菅谷村助役に就任、任期四年目の四十三年(1968)の暮、急性血圧症に倒れたが幸い快復できた。この時今期限り役場を引退する決意をしたのであった。そして翌四十四年(1969)三月末予定通り役場を退いたわけである。
 七中時代『七郷村誌』を計画して、約六か年費やして未完ではあったが昭和二十七年(1952)十一月三日同誌の編集を終了した。菅中時代は学校沿革誌、外諸帳簿の大整理に追われ、役場では菅谷村沿革誌の作成や報道編集の仕事等に努力した。
 また学校時代役場時代を通じて村内文化財保護事業にも委員または関係者として、可成りの日時を重ねてきたわけである。
 今回地元古里(ふるさと)の諸記録を整理して、後世の人たちに残す事を考え「郷土の今昔」と銘して集録した。内容中には物語り・史料・民話的など雑多である。史的価値は極めて薄弱であるが、奇特者の活用を切に希うものである。
  昭和五十四年睦月廿日   安藤専一
     安藤専一『郷土の今昔』 1979年(昭和54)1月


古里の今昔1 目次 安藤専一 1979年

2009-06-05 01:17:00 | 古里

  自序
一、小名のことから
二、明治のほほえましい人たち
三、一夜堤・行燈堀の由来
四、重輪寺と大カヤ
五、信越の領主安藤山三郎のこと
六、正月行事の今昔
七、五穀豊穣を祝い天災疫神を払うササラ獅子舞
   附 兵執神社奉納獅子舞細記
八、八坂神社祭り囃子
九、中南欧研修の旅管見記
十、わが家の家系と家宝
十一、保管する近世文書など
十二、文政年間古里村検地図面に愢う
十三、兵執神社奉納句集額のこと
十四、古里の古墳を探る
    附 古墳分布図
十五、安藤貞良翁の筆塚
十六、字内の青石塔婆
十七、字茨原古沼再興工事記録を見る
十八、郷土の剣豪中村清介翁とその奉納額
     安藤専一『郷土の今昔』 1979年(昭和54)1月


一夜堤行灯堀の由来 安藤専一 1965年

2009-05-14 06:20:00 | 古里

  銷夏(しょうか)二篇 一夜堤行灯堀(いちやどてあんどんぼり)の由来
               文化財保護委員 安藤専一
 近代化した欧州諸国が盛んに海外に進出して、立ち後れたアジヤの国々を植民地として支配したのは江戸幕府中期以降のことである。
 1776年(安永5年)独立宣言によって起ち上った米国も西欧の例にもれず東洋への大夢を抱いてさかんにアジヤの諸地域を掠めた。直接わが日本との関係が、時の幕府諸藩を狼狽させたのは、1853年(嘉永6年)で米国の提督ペリーが大統領の国書をもち四艘の軍艦を率いて浦賀に来航したいわゆる黒船事件である。
 幕府諸藩がこの外交問題すなわち鎖国か開国かの二派に分かれて国家の大事に錯綜された時代であったが、国内的には1783年の天明の飢饉があり、1834年(天保5年)は諸国の飢饉があり、続いて1836年には再び天保の大飢饉が襲って、諸国に百姓一揆すらひん発するありさまであった。

 題名の「一夜堤行灯堀由来事件」も幕末数度にわたる大飢饉に連なるもので旧古里村(ふるさとむら)と旧板井村(いたいむら)との長期にわたる水利争いの結果が生んだ遺跡なのである。
 この一夜堤行灯堀のできた当時の文書類等何ら手がかりもないが、天保の大飢饉の直後と推定され、今より約百二十年前の事件であったことは、古老その他識者の伝言から察知される。
 当時古里村の名主は安藤長左衛門で英智に長け諸事業推敲に手腕あり、しかも気力旺盛で時の実力者として近郷にその名を謳われた人物であった。古里村の大半は旗本有賀伊予守忠太郎の知行する領地で、当の長左衛門が名主を務め名主代は大塚籐左衛門(現大塚正市家)、百姓代は藤田助左衛門(現安藤専一家)が当っていた。
 1853年の黒船事件は前述の通り鎖国勤王派の武将たちが大狼狽し、有賀家も急遽各地より御用役を召集することとなった。このとき古里村より江戸召集を下命され六十日間の勤務に当たったのは名主長左衛門百姓代助左衛門(実名粂次郎)の二名であった。
 一夜堤築工は当時の板井村農民によって成り、行灯堀は長左衛門を指揮者とする古里村農民によって作り上げたもので、場所は北田耕地(きただこうち)東端板井(いたい)と隣接する箇所である。
 古来飢饉渇水による水騒動は各地にその実例を見るが、この北田耕地はほとんどその上方に灌漑用水地を有せず、降雨期には大洪水を呼び干魃期には水不足その極に達する最悪の天水耕地のため、之に対処する百姓たちは常に血眼で引水に走り廻わるありさまであった。
 このため水争いは以前から絶えず続き、耕地の上部を占める古里村と下部を耕作する板井村田との対立は数十年にわたって眼にあまるものがあった。
 徳川末期における数度に及ぶ飢饉から遂に板井農民の怒りはその極に達し、大挙して古里農民の持つ耕地堰の大部を破壊するところとなり、古里農民もまた之に対決して再三の大騒ぎがくり返された。
 「そんなに古里の奴等水が欲しければ、おれの方は耕地境に大土手を築いて、古里を水浸しにしてやる」という板井村民の暴挙は完全に盛上がり、一夜総動員して耕地を塞ぐ大土手を築きあげて気勢を挙げた。
 この有様にあわてだした古里農民は鳩首熟議を重ね、
 「板井村一夜堤をこのまま看過すれば、北田はほとんど水浸しになって、収穫の皆無は明らかである。一夜堤を一挙に切りくずすか、新たに排水堀を作るか、このどちらかにする外対策はない。」
 「そうだ、排水工事を企ててなるべく穏便な策を講じたい。」
 「それには北田耕地南排水より南方畑地山地を堀り割って駒込沼に落水させるより方法は考えられない。この堀割を急遽りあげて板井の奴らの眼をむいてやることにしよう。」
と言う結論決議となった。
 そこで名主長左衛門がこの指揮監督に推され、さっそく一夜結集して行灯をかかげてこの排水路工事に取りかかり、たちまち竣工を見るに至った。後世この堀割を称して行灯堀と名づけている。
 一堤夜築堤を見た古里村民の驚きもさることながら、行灯堀開拓を断行した古里に対して板井農民もまた驚異の眼で見はったことと思う。
 この両村対立の一大事からすでに百二十年の星霜は流れ、いつの時代か歴史年表を明らかにしたいが、隣接両村の和解は成立してその後対立な事件は起らずすこぶる平穏な村として共に栄え、北田耕地水利問題はむしろ協力してその改良に当っている。
 現在一夜堤は大里郡江南村【現・深谷市】大字板井地内に、また行灯堀は菅谷村【現・嵐山町】大字古里北端に相対して共に昔の面影を残しているが、土地の人たちの多くはこの由来を知る由もなく、馬耳東風といったかたちで文化生活に浸りこんでいる。やがては世の進展にともない、一夜堤も行灯堀も潰滅し、この封建時代に起こった寒村の悲話もまた人の世から忘却されてしまうのであろう。
               (昭和三十八年十一月三日起稿)
     『菅谷村報道』154号 1964年8月1日

※銷夏:消夏。夏の暑さをしのぐこと。
※江戸時代の三大飢饉:享保の大飢饉(1732)。天明の大飢饉(1782-1787)、1783年8月浅間山噴火。天保の大飢饉(1833-1836-1839)。