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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

菅谷村畜産と自給飼料 吉場雅美 1958年

2009-04-14 17:58:00 | 古里

   研究 菅谷村畜産と自給飼料
 家畜の冬期における飼料需要期をひかえて購入飼料の手当買いは増しているようだ。我が第二(馬内)二十七世帯中畜産農家は十六戸、この中十三戸は多少にかかわらず飼料を購入しているのだ。この十三世帯の三十二年度の飼料購入額は大体次の様だ。
 麦糠(むぎぬか)に換算すると二百六十俵余りとなる。
 三十二年度の金額にすると一九五八五八円となる。家畜の少ない馬内内ですら右の様な統計が生ずるのであるからこれを菅谷村全村に見ると驚くべき巨額に達するであろう。
 経済的変動などによって最近の乳価安と一方飼料高の現象がつづき、酪農ブームも漸次下り坂の傾向を示してきた。従って飼料自給を中心とした合理化を図り生産コストの引下げをする以外には方法がない。私は五年間の酪農設計書の実績を取りまとめて過去の体験をも総合的に考えてみると次のような基礎的な対策が必要であることがわかった。

 一、購入飼料を与えることを合理的にへらす。
 一、自給飼料作物を計画的に作付けて給与の研究とする。
 一、協同購入によるような飼料購入方法の研究が必要である。
 一、飼料作物の反収を増大するような栽培技術の研究をする。

五年間の年平均飼料価額(昭和28年以降)
 大豆粕で10貫、麬8貫、糠麦8貫
 年(大豆粕、麬、糠麦)
28年(1405、697、620)
29年(1700、757.50、560.40)
30年(1706、784、639)
31年(1638、745.80、640.40)
32年(1755、830、753.30)
平均価(1640.80、762.86、642.62)

 二十八、九年の月別飼料価額の変動は実に烈しきものがあった。

昭和三十二年度月別飼料価額の変動
 月(大豆粕、麬、麦糠)
1月(1750、810、690)
2月(1750、830、730)
3月(1760、860、730)
4月(1830、845、725)
6月(1830、845、725)【ママ】
5月(1830、850、755)【ママ】
6月(1730、830、730)【ママ】
7月(1740、820、755)
8月(1740、860、780)
9月(1750、820、785)
10月(1740、820、775)
11月(1740、840、780)
12月(1700、840、780)

 麦は地方の価額を大体取りまとめたものですが、村民各位が多少なりとも参考にして購入飼料を少しづつでもへらしたら、菅谷村の発展の一露ともなるであろう。(古里 吉場雅美)
     『菅谷村報道』86号 1958年(昭和33)1月25日


里やまのくらし 11 馬内

2008-12-26 23:54:15 | 古里

 2005年12月初め、嵐山町の北端、古里の馬内(もうち)で庭先のムシロの上で作業をしている人に声をかけました。箕(み)作りに挑戦中の1926年(大正15)生まれの吉場幸次さんです。農家の庭は稲・麦・豆などを脱穀・調整する作業場であり、収穫したものをムシロに広げて干す乾燥場としても大事な場所だったと語ってくれました。
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左から田島菊、大木久作、吉場ツル、田島定治さん。吉場幸次さんは故人となられました。

  ノッペのタッペ
 馬内の土壌は粘土(ねばつち)まじりのノッペです。冬になり地表が冷えて零度以下になるとよく霜柱がはりました。霜柱をタッペといいます。ノッペは粒の細かい火山灰土でタッペが10㎝も立つことがありました。馬内ではひと冬の間、束をほぐした稲ワラを庭中に散らして、タッペを防ぎました。この敷きワラは、春になるとサツマ床に使いました。古里地内の内出や尾根では土質が違うので、ワラを敷くことはしていません。

  カシグネ
 町内を歩くと母屋を隠すほどの高さの生け垣(クネ)を屋敷の北側にめぐらした農家がみられます。シラカシを主とするカシグネは冬の強い北風を避ける防風と類焼を防ぐ防火のために作られました。カシグネは新芽の出る前の3月~4月に手入をします。切り落とした枝は燃料に使われました。
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  ワラニュウとワラボッチ
 一年中、ワラは利用されます。脱穀後のワラを冬季、戸外で保管するため、ワラニュウ、ワラボッチを作った家が町内にあります。
 ワラの乾燥と防風を兼ねて12月頃、屋敷の北側にワラニュウが作られました。敷地内の立木を利用して桟(さん)を渡します。そこにワラ束をぎっしりとすき間なく掛けます。五段ぐらい積み上げると3メートル位の高さのワラニュウができました。天気のよい日にはワラニュウの前はうんと暖かくなり、ムシロを敷いてぬくとばっこ(日向ぼっこ)の場所にもなりました。暖かくなると外して、堆肥や、サツマ床、牛や馬の敷きワラに使いました。ワラニュウは火事になった時に危ないと、段々作られなくなっていきました。
 また、立木を利用して庭の隅にワラボッチも作られました。余り太くない木の根元から一束のワラの先を二つにわり、木を挟んで結んでかけます。下から積み上げてゆき、高くなったら梯子をかけて積みました。ワラは段々に取りはずし、押し切りで3㎝位に切り、フスマと混ぜて牛馬の餌としました。ワラボッチを何本も立てる家では風よけにもなりました。

  様々なワラ利用
 屋外に保存したワラは燃料、肥料、飼料、敷きワラなどに利用しました。母屋や納屋など屋内に収納していたワラはよいので、わらぞうり・俵・ムシロ・カマス・縄などに加工されました。糯(もち)米のワラは柔らかくて丈が長かったので注連飾(しめかざ)りを作りました。

     参考:根岸富雄『故きを温ねて 「ワラ」』


里やまのくらし 4 古里

2008-06-03 21:02:16 | 古里

 そうか坂のむじな
 古里の大塚正市さんが七郷小学校の高等科に通っていた1932~33年(昭和7~8)頃の話です。ある晩、近所のいとこが病気になって、2里(約8㎞)ほどある小川町の清水医院に往診を頼みに行くことになりました。どうして大人がいかないのだろうと思いながら砂利のでこぼこ道を自転車を走らせました。古里から小川町にむかう県道は小川町の西古里(当時は男衾村)に入ると大きく右に曲がって切り通しの峠道になります。そのあたりをそうか坂といい、昔おいはぎが出たとか、夜な夜なあかりがついて何かが動いているといううわさのある場所でした。
 ハンドルを右に切った時、砂利に自転車のタイヤをとられて倒れてしまいました。顔や手足をすりむき、自転車につけた懐中電灯もどこかにふっとんでしまいました。その時、向こうの方に赤い灯がいくつも見えます。「もしかしてこれが話に聞いていたむじなか」と思い、とっても怖くなりました。必死になって懐中電灯を探し出し、そぉーっと近づいてみると、それは峠で一服している大人たちでした。本当においしそうにキセルで煙草を吸っているのでした。荷馬車や自転車で熊谷方面に出かけ、用事を済ませて家路を急ぐ人たちだったのでしょう。

 さびしいそうか坂
 そうか坂を通る熊谷小川県道は大正時代からバスが運行された幹線道路でしたが、古里尾根(おね)の集落の中を通り抜けると人家はまばらになりました。
 まんじゅう屋とよばれた岡島屋は現在の場所にはなく、坂近くに西古里の桶屋さん他数軒があるだけでした。現在通行禁止になっている切り通しの旧県道の入口に、飯野栄さんは昭和30年代に家を建てましたが、道を利用する人達から「灯りがあって助かる」と感謝されたほどさびしい所でした。
 峠を越えた越畑の強瀬保治さん宅(幡巻(はたまき)の豆腐屋)は1㎞はなれた隣家でした。周りが山だった強瀬さん宅は1910年(明治43)に建ち、隣の家は市野川を渡って約700m離れた奈良梨十字路のたばこ屋と酒屋さんでした。

 古里のささら獅子舞
 大塚さんの古い日記を一緒に読んでいます。兵執(へとり)神社のささら(獅子舞)は、昔は毎年10月19日の秋の大祭に奉納されました。稽古は数週間前から始まります。1951年(昭和26)には、10月25日に「足揃い」(予行)をして、翌26日、奈良梨の八和田神社(お諏訪様)に獅子舞を奉納しています。大塚さんは「仲立ち・道化」を長く務め、現在もささらの指導にあたっています。