三、一夜堤・行燈堀の由来
農民層の没落は幕藩領主の年貢増徴策による重税、商業資本の農村浸透による窮乏などが根本原因であると云われているが、また度々の天災地変と飢饉も大きな原因になったものと思う。
古里北田耕地耕作者の総意により本題の行燈堀掘削普請が決行された頃は、数次にわたる大飢饉に見舞われた左記近世の三大飢饉の直後と推定される。数次の干天続きによる水不足が、農民の気持を極度に興奮させてこの普請に踏み切ったものと思う。
記
享保の大飢饉 享保三年(1732)で関西以西が特に著しかった。
天明の大飢饉 天明三年~七年(1783-1787)
天保の大飢饉 天保四年~八年(1833-1837)
大飢饉の影響による農民の窮乏と分解は甚だしく、この頃全国各地に飢民蜂起・農民一揆が頗発した。安藤長左衛門は天保年間の古里村代表名主で、この行燈堀普請の陣頭に立った人物である。この由来については、かつて『菅谷村報道』に登載したのでこれを次に掲載することとする。
「一夜堤行燈堀の由来」(いちやどてあんどんぼりのゆらい)
安藤専一『郷土の今昔』 1979年(昭和54)1月