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里やまのくらしを記録する会

埼玉県比企郡嵐山町のくらしアーカイブ

「報道」より見た1956年(昭和31)

2009-04-04 09:36:00 | 嵐山地域

 埼玉銀行菅谷支店は昭和二十三年(1948)に開店したが三十年(1955)十二月三十一日で閉店した。
 第一回の成人式が菅小で行はれ一九四名の成人者中一二四名が出席した。
 三月の村会で助役定数条例が改正になり助役は一名となった。このため、青木、小林の両助役は三月三十一日で辞任した。その後三ヶ月間の空白の後、小林博治氏が助役に同意された。
 四月三十日に晩霜により桑園二百三十町歩が被害をうけた。このため村では四十万円の対策費を支出した。
 合併後の人件費を節約するため特別退職条例ができ八名の退職申出があった。
 小川信用金庫は埼銀のあとに出張所を設け六月十五日から営業を開始した。
 高崎村長は八月二日午前零時自宅への帰途、東昌寺坂下の蜻蛉橋下に転落、脳震とうを起して急逝した。五十九才であった。村では小林助役を葬儀委員長にして四日志賀宝城寺で村葬を執行した。
 村長死去にともなう村長選挙は九月九日行はれたが、前助役の青木義夫氏が議長の栗原侃一氏、議員の大野幸次郎氏を破って当選した。青木村長は青少年の教化育成と婦人団体の向上発展、次三男の職業補導に重点をおく、滞納整理は二百万やりたいと述べた。
 滞納額は村税四百五十八万、国保関係三百七十九万で、合計八百三十七万であった。
 村では滞納白書を発表して滞納整理に決意をみせたが成果は挙がらなかった。
 九月の定例会で議長に山下欽治氏が選ばれた。また、十月一日から新教育委員会法が施行されることになり、このため教育委員の同意を求める議案が提出されたが無記名投票の結果、賛成八、反対十で否決された。
 村長提出の議案が否決されたのは初めてである。教育委員は十月二十七日の臨時村議会で漸く決った。委員長は根岸忠与氏、教育長は助役の兼任となった。
 合併後初の両地区合同の村民体育大会が菅小で開かれ菅谷チームが優勝した。
 第一回の比企郡中部一周駅伝競走が十二月九日に行はれ十九チームが参加した。走行は四十六キロである。
 菅谷の側溝工事は十二月末に完成した。延八百五十米で、工費八十万。
     「菅谷村報道」159号 1965年5月10日


桜の花を訪ねて1 花は愛惜に散る 報道委員会会長・関根昭二 1981年

2009-03-24 19:33:00 | 嵐山地域

 春はさくらの季節である。花を求めて町内を歩いてみた。
 すでに昭和四十年(1965)と四十一年(1966)の二年にわたり、嵐山町のさくらを訪ねて歩き「花だより」として本紙に掲載した。十五年後の今日、再び訪ねてみるとうたた時勢の転変を感ぜざるを得ない。歴史とはかくの如きものか。また人の世とかくも移ろいやすきものか。花は愛惜に散るものを。

  さくらの花散りぢりにしも
     別れゆく 遠きひとりと
        君もなりなむ    釈迢空 

     『嵐山町報道』298号 1981年(昭和56)6月1日


臼ひき 小林博治 1958年

2009-03-19 08:21:00 | 嵐山地域

 「から臼をひくと目がつぶれる」といって、親達は子供が臼ひきに手出しをするのを戒めた。子供達は自分の目がつぶれるのだと考へて石臼に神秘的な力を感じた。農家の生活は、一年中石臼と共にコロコロ廻っていた。六月に麦をとるとコーセンにひく。盆や彼岸には、牡丹餅の黄粉をひく。新米の宵米をひいてあんこ餅を食う。正月の餅をひく。四季を通じて、石臼は農家の食生活をひき出した。祝儀、不祝儀にも、祭やお日待にも人が集まれば必ず石臼はゴロゴロ音を立てた。
 大豆をのせてグルグル回っている臼、一廻り毎にくばる一本の手、臼の間からはき出る黄色い粉。ゴロゴロと響く単調な音。これを中心にひき手は世間話に耽ける。臼ひきは女房や娘たちにはたのしいお喋りの場であった。
 石臼はこんなに農家の生活に密着していた。それで子供と同じように親達も石臼に精霊のようなものを感じて、本当に目がつぶれると考えていたものかもしれない。子供が成長して、つぶれるのは臼の目だと分かった頃、石臼は農村がら脱落して、納屋の隅に片付けられた。農村の生活は機械化され、簡易化され、スピード化されて合理的になったが、その代償に石臼に神秘性を感じるロマンチックな心情を喪失した。  (小林記)
     『菅谷村報道』90号 1958年(昭和33)6月30日


菅谷郵便局の新局舎が出来る 1950年

2009-03-08 11:20:00 | 嵐山地域

   菅谷郵便局成る
 大正十一年(1922)四月三十日、三等郵便局として開局した菅谷郵便局は、昨年十月旧小学校跡(岡松屋前)に総工費九十万円を以て着工、この四月三十日、まさに開局以来三十年ぶりに新局舎が完成し、六月三日には招待者八十名にのぼる盛大な披露宴が開かれた。敷地七十坪、延建坪四三・五坪の明るい感じのする局舎は、郡下唯一の存在である。まだ木の香も新しい新局長室で庄島局長は次の如く語った。
 皆さんの絶大なる御厚意と御協力により、新局舎が落成いたしましたことを感謝いたします。郵便局は皆さんの郵便局です。皆さんの口であり、耳としての役目を完全に果すことが、われわれにとって最大の任務であることを従業員一同充分に自覚して、皆さんの御利用を待っております。親切と正確、迅速をモットーに特に充実した新局舎に相応しい奉仕をしたいと念願し張切っております。貯蓄の面におきましては目下の所、貯金も保険も共に比企部会十八局中の第一位で、県下においても有数な成績を占めております。これは偏に村民各位の御理解ある御協力の賜でありまして、ここに深甚なる感謝と敬意を表する次第であります。
 どうか此上とも皆さん御自身の郵便局のため、何かと御支援の程を御願致します。
     『菅谷村報道』3号 1950年(昭和25)6月20日


村民税滞納整理月間 1957年

2009-02-26 20:26:00 | 嵐山地域

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          滞納整理月間
   村長以下全員出動 女子職員も
 村では、八月十日より九月十日までを滞納整理月間として、強力に納税を督促しているが、三十年度以前のものについては、主として税務係が、三十一年度分については、村長以下全職員が出動して督促に当っている。これは女子職員も加えて分担区域を定め、月間中随時滞納者を訪問して、納税の督促をすることになっている。分担表次の通り
 ▽七郷地区
   第一、二   田島、権田
   第三、四   中島、大野
   第五、六   吉場、山下
   第七、八   長島、高崎
   第九 十   村長、飯野
   第十一、十二 土橋、千野
   第十三、十四 森下、山下さ
   第十五、十六 田畑、水島
   第十七、十八 助役、浅見
   第十九、二十 安藤、中村
 ▽菅谷地区
   菅谷     権田、中島
   川島、志賀  浅見、田畑
   平、遠、千  大野、田島
   鎌形     高崎、千野
   大、根、将  助役、吉場
     『菅谷村報道』82号 1957年(昭和32)8月31日


酪農をやめた1971年頃のこと 長島崇 1976年

2009-01-24 01:46:14 | 嵐山地域

   酪農をやめた当時のこと
 五年前、私は十五年やった酪農経営をやめ、現在は兼業農家として、ポリエチレンの袋を製造している。農業を始めて二年目二十一才の時、青年団の意見発表で県代表として全国大会へ出場したことがある。その時は「豊かな農業生活を目指して」と題して発表し、主題となったのは労働日誌を付けての反省からの経営改善であった。特に酪農経営を伸ばす事が労働の平均化となり、労働が完全燃焼する事が経営発展につながると言う内容だった。今思い出しても「我が青春は乳牛と共に」と言う事が出来る。自分で言うのもおかしいが、農業青年としてまじめに働き、真剣に生きて来たと思っている。それがなぜ急に酪農をやめ、農業以外の職に付こうとしたのか? 興農青年会を結成する時(1965)も関根秀勇君と私で話が始まり、又当時青年団等青年団体がほとんど活動しておらず、又関根茂章氏が村長に就任したばかりで、農村青年の組織を強く希望していた。そうした多くの人達の協力で会が誕生した。そして、「農業をやる仲間として一緒に力を合わせて頑張ろう」とはげましあった。
 その私が【嵐山町興農青年会】三代会長【昭和44・45年度】として解任となってまもなく、酪農をやめざるを得なかったのである。その時、友達や仲間になんと言ったらいいんだろうかと思うと本当につらく、ただ皆にすまないなと思うばかりだった。
 それまで農業以外の職につくなど少しも考えた事はなく、もっと立派な農業経営にしたいと考えていた。いつしか政府は稲作の減反政策をうち出し(1970)、又乳価の割に飼料は高くなり、農業の将来に対しての不安は募るばかりだった。こうした時の夏、消防団のポンプ操法県大会出場の訓練と仕事と火災出動が重なり、過労で高熱を出し五日間寝込んでしまった。ようやく働けるようになった直後に、今度は交通事故で追突に合い、ムチウチ症になってしまった。搾乳しても首が痛くてうまく働けなく、妻に対し非常な労働過重になってしまった。成牛十八、若牛二、育成牛五の計二十五頭全部売ろう。そしてもう一度第一歩から新しい人生を始めようと決心したのはこうした苦しい気持の時だった。
 しかし、酪農をやめれば次に何をするのかも考えなくてはならないが、それよりも十五年間良い資質の牛を育てようとし、気に入った牛も何頭かそろって来た時だけに、売るとなると惜しい気持でいっぱいだった。四十五年(1970)九月一日、武蔵酪農事務所と家畜商秋田屋へ行き、乳牛売却の相談をした。全牛一括秋田屋へ売却するが、一週間猶予をおいて、武蔵酪農の人達でほしい人があればやる、という条件をつけた。それは能力も血統もいくらか自慢出来る牛が二、三頭いたので、これだけは余り遠くへやりたくなかった。出来る事なら近くの人に飼育してもらいたかったからである。
 最近聞いたのだが、当時出した牛の「イエツケ」の系統は比企地方で三十頭以上で、正にこの地方一の名牛になっている。私の所へも四年前にホルスタイン協会より「イエツケ」に対し名誉種雌牛としての称号が送られて来た事からも確かな事だろう。
 こうして酪農から離れたが、考え方はいつになっても農民的な考えから出る事は出来ず、今(1976)は現在の仕事に全力をぶつけて頑張っている次第である。
     嵐山町興農同志会『興農ニューズ』第4号 1976年(昭和51)3月31日号