武蔵酪農設立の経緯
1 背景並びに設立の経過
比企郡の酪農については、昭和12年(1937)頃より17年(1942)頃にかけて菅谷村(現・嵐山町)、宮前村、福田村(現・滑川町)、竹沢村、小川町、八和田村(現・小川町)、玉川村(現・ときがわ町)、亀井村(現・鳩山町)、唐子村、野本村、松山町(現・東松山市)、吉見村(現・吉見町)、小見野村、八ツ保村(現・川島町)等の各町村の有志が相前後して酪農をとり入れ、埼玉酪農組合の各支部が結成されていた。
それ以前は古くは明治の頃より乳牛を飼育し牛舎(牛乳屋)へ貸付けていたのが酪農の前身でもある。
戦前戦後の埼玉の酪農の原乳は森永の寄居工場に出荷されており、その頃の寄居工場は乳製品工場で乳価についても加工乳価格で取引されていた。
戦時下牛乳も他の物資と同じく統制下におかれ乳業会社も統制会社として終戦後も業務が続けられ昭和23年(1948)に会社の再編が行なわれた。
昭和24年(1949)埼玉酪農組合内部に於て、役員間で組合運営取引先等の問題で意見の対立が発生したかに聞き及んでいる。又菅谷村駅前に事務所のあった比企酪農組合に於ても同様の問題が起こっていた。
そこで新たな目標をかかげた比企郡に於ける武蔵酪農組合発足にかかわる酪農指導者達である武井孝次郎氏(宮前村)、田中盈氏(松山町)、松本完氏(八和田村)、吉田龍次郎氏(竹沢村)、山田眞平氏(菅谷村)、福島敬三氏(八ツ保村)、中島信治氏(菅谷村)、山下米吉氏(西吉見村)、武井與平氏(菅谷村)、高坂清一氏(宮前村)、山下武二氏(菅谷村)、荒井照雄氏(唐子村)、高橋増三氏(菅谷村)、松本博氏(川本村)、市川仙之助氏(野本村)、新井甚次氏(野本村)等その他数多くの有志達は、埼玉県の酪農家の原乳が加工乳価格で取引きされている現状をうれい、今後は埼玉の酪農を市乳地帯の基盤固めにすべく、乳価についても市乳価格で取引きしなければならないという大きな理想をかかげ時代を先取りするためにも、単なる組合の分裂行動でなくして、埼玉県の酪農基盤を市乳圏に入れることにより酪農家の経済基盤の安定向上を図る錦の御旗を掲げ、各地区に於て会合を設け、幾多の困難をのりこえ乍ら数多くの同志の賛同により結束を固めたのである。
代表者により時の東京都の市乳の主流をなしていた東京乳業株式会社と交渉に入り、国生専務取締役(後の明治乳業KK)と交渉が妥結し、内部に於ては集送乳について着々態勢を整え、集乳については長谷部正氏(宮前村)、木村氏(大岡村)、志村氏(小見野村)、送乳については横塚元吉氏(後の旭運輸KK社長)等の絶大なる協力を得て、昭和24年(1949)10月16日「3石4斗」の原乳をもって東京乳業株式会社板橋工場への出荷が開始された。
そして武蔵北部酪農農業協同組合設立事務所を菅谷村中島信治氏宅に設けた。昭和24年(1949)10月31日新進気鋭の獣医師伊東勝太郎氏24才(後の明治乳業株式会社専務取締役)が臨床を担当しながら責任者として派遣され着任した。(菅谷村小島屋旅館に単身寄宿、後に宮前村長谷部宅の離れに下宿)、11月1日より直ちに昼夜の別なく勢力的に活動を開始し乳牛の診療並びに地域の会合へと自転車で奔走努力した。
伊東勝太郎氏は豪快(柔道4段)で人情味豊で明朗な性格と併せて、獣医師として乳牛の妊娠50日~60日の直腸検査による妊娠鑑定では100発100中の抜群の優れた技術を備え、又高度の診療技術を有していたことが生産者により一層の信頼を得ることになり多くの酪農家の同意者を集める要因となった。(組合発足後の獣医陣の礎をなし急患に備え誰か必ず地域内に残り、緊急の場合でも24時間体制で組合員に迷惑をかけないという思想は今でも継承されている。)
この頃相前後して秩父郡、大里郡に於ても同様の問題が発生して居り、伊東氏は秩父郡の関係(現全秩酪農組合)も兼務した。
強力な指導者を得た同志の面々は着々組合設立準備の体制に入り組合設立発起人を選考した。
※組合の名称については武蔵酪農農業協同組合で設立準備をすすめていたが県の指導により武蔵では大きすぎるので北部をつける様指示され、武蔵北部酪農農業協同組合の名称で設立準備をした。
16名の設立発起人は全員出席の基に昭和24年10月23日以来前後3回の協議会を経て目論見書を作成した。
武蔵酪農農業協同組合編集・発行『武蔵酪農創立四十周年の歩み』(田村孝一執筆 1990年1月)3頁~4頁