“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

日本はアメリカ属国なのか

2015年10月01日 09時55分49秒 | 臼蔵の呟き

「そもそも相手の要請を考慮するのは社会の常識である。これで「歴史的」とはまさに噴飯物だ。過去から教訓をくまず、機能しない合意を繰り返すのは、救い難い外交無策と言うほかない。」

「他国ではあり得ない「排他的管理権」を日米地位協定で定めているからだ。地位協定の本体を改定しない限り、日本は主権国家ですらない。」

<琉球新報社説>環境補足協定 外交の「欠落」は救い難い

 通常、外交交渉をすれば何らかの成果があるものだ。だが今回は実質的な進展が全く存在しない。日本外交の拙さが指摘されて久しいが、成果が無いのだから、もはや外交は拙劣という水準ではなく、欠落していると言っていい。
 日米両政府は在日米軍基地の現地調査に関する環境補足協定を締結した。日米地位協定締結から55年たって初めて結べた補足協定で、「歴史的意義を有する」(菅義偉官房長官)と日本政府は胸を張る。しかし胸を張るような内容か。

 自治体の立ち入り調査をめぐっては、2000年の日米合同委で既に今回とほぼ同じ合意を交わしている。だが米側は日本側の立ち入り調査の要請に対し「妥当な考慮を払う」だけで、いくらでも拒否できる仕組みになっている。
 だから、米側が立ち入りを拒否した例は10回以上ある。今回の辺野古新基地建設で、サンゴ破壊をめぐる県の立ち入りをずっと拒み続けたのも記憶に新しい。

 米側に裁量権を与えず、立ち入りを自動的に認める仕組みにしない限り、問題は解決しないのだ。「要請があれば、米国は速やかに認めるものとする」などと書くべきだった。米側に拒否権を認めた合意など絵に描いた餅にすぎないのは、過去の経験が示している。
 だが今回の協定も米側は「考慮を払う」だけだ。立ち入りを認める義務はない。そもそも相手の要請を考慮するのは社会の常識である。これで「歴史的」とはまさに噴飯物だ。過去から教訓をくまず、機能しない合意を繰り返すのは、救い難い外交無策と言うほかない。
 現状の理不尽ぶりは他国と比べれば分かる。ドイツの米軍基地をめぐり米独はボン補足協定を戦後3回改定した。だからドイツの自治体は予告なしで立ち入りできる。日本では米軍基地内は治外法権だが、ドイツでは米軍にドイツ国内法順守の義務がある。環境汚染も日本では日本政府が浄化を肩代わりするのに対し、ドイツでは米軍が浄化義務を負う。韓国も、汚染があれば自治体が米軍と共同調査を実施できる。
 日本が他国並みですら実現できないのは理由がある。基地内は米国が全権を持ち、日本側が一切口出しできないという、他国ではあり得ない「排他的管理権」を日米地位協定で定めているからだ。地位協定の本体を改定しない限り、日本は主権国家ですらない。


フォルクスワーゲンの詐欺劇

2015年10月01日 06時47分19秒 | 臼蔵の呟き

巨大多国籍企業の利益優先、利益至上主義が何をもたらすかの典型的な事例です。フォルクスワーゲンは、ナチスドイツ時代の国策企業であったことも考えなければなりません。ドイツの威信をかけた企業活動が、このような不正劇を生んだ可能性もあります。いずれにしても、多くの消費者をだまし、詐欺を働き商品を販売した責任を果たさなければなりません。また、環境汚染の負荷を企業責任で、応分に果たさなければなりません。

ドイツが原子力発電での廃止を決め、政治が、国際的に果たした先進的な役割は当然、高く評価しなければなりません。また、シリア難民を受け入れ、多くの難民救済の負担を背負っていることもきちんと評価しなければなりません。今回のフォルクスワーゲンの捜査と不正は、区分して評価しなければならない問題です。

消費者の信頼を裏切った責任は、第一義的にフォルクスワーゲンと不正を働いた企業側にあることは明確です。そのうえで、環境汚染を防ぎ、便利さとは何かを人間としても考えなければならないときに来ているように感じます。

 [ 中央日報] 【時視各角】フォルクスワーゲンの詐欺劇を見て=韓国

  「私たちは、知らずにだまされたのか」。

  フォルクスワーゲン(VW)の排気ガス実験操作の詐欺劇の内幕が明らかになりながら最初に浮かんだ思いがこれだった。フォルクスワーゲンをはじめとするドイツ系自動車企業が「クリーンディーゼル」技術の広報に熱を上げていた場面を思い出す。2000年代の中盤だった。欧州乗用車メーカーらはディーゼル乗用車を国内に導入して積極的にマーケティングを展開した。

  当時、ディーゼル車のイメージは悪かった。韓国でディーゼル車は真っ黒な媒煙ガスをもくもくと漂わせた媒煙バスとして記憶されていた。ところがクリーンディーゼルとは。ディーゼルは、ガソリンに比べ燃費と力が良くて二酸化炭素の排出は少ないが、世界保健機構(WHO)も一級発ガン物質に指定した酸化窒素と微細粉じんを排出するというのは常識だ。ところが「このようなディーゼルがどうして清浄なのか」と疑問を提起すれば、これらの自動車業界の関係者は「知らないお言葉」としながらディーゼルエンジンの清浄性を証明する各種実験資料を引っ張り出しながら話した。「世界最高水準のドイツの自動車技術で燃料を完全燃焼させて媒煙をキャッチする技術を実現した。環境を最も優先に考える欧州が今ディーゼル車を中心に向かっていることが、清浄ディーゼル技術の信頼性を示すものだ」。

  実際に1990年代中盤から欧州連合(EU)加盟国はディーゼルエンジンの使用を促進する各種政策を打ち出した。当時、原油高に対応する政策的側面が強かった。これに対し90年代初期までは10%未満の割合を占めていたディーゼル車が、現在のEUでは35%に達する。もしかしたら私たちはドイツ自動車技術と親環境欧州の名声という虚構に期待物性は変わらないという常識を出してしまったのかもしれない。

  一部では現代(ヒョンデ)自動車の反射利益があるだのないだのと言っている。1つ、株式市場の冷淡な反応だけではなくても今回の事態がディーゼル陣営の危機に集まっていく状況で、積極的にディーゼルを導入した国産車が何の反射利益を得るのだろうか。かえってディーゼル陣営がこのまま座り込むならば損失を受ける恐れもある。信頼の高いフォルクスワーゲンのディーゼル車が「実験室では清浄、実際の走行では汚染源を排出」という事実がばれて各国の調査が全ディーゼル車に広がりながら一部ではすでに「電気自動車」代案論が出ている。大気汚染物質をほとんど排出しない真の清浄車ということだ。ところが電気生産過程の大気汚染を考えれば、大気の質を改善する効果がないという研究結果もある。また電気自動車は大容量のバッテリーを装着しなければならないがバッテリーは一定の充電周期になれば性能が落ちて交換しなければならない。このようなバッテリーはリチウムを含んだ各種鉱物質でつくられる。電気自動車が大衆化すれば、その廃棄物による環境汚染はどのようにするのか。

結局、清浄差はない。米国のある自動車雑誌は「合理的価格のクリーンディーゼルは、話にもならない目標だった」という元フォルクスワーゲン役員の告白を掲載した。燃料を燃やして動く車が環境の得になる方法は初めからないが、技術で克服できるよう偽装して環境に対する罪悪感を減らしてみようという下心が、消費者と企業の間で合致して清浄差の神話をまき散らしているだけだ。もしかしたら私たちも清浄ディーゼルが虚構であることを理性的に分かっていたのに、力があり燃費も良くて人望の高いドイツ車に乗りながら環境も大切にしているという大義名分まで立てたかった消費者の利己心が発動し、分からないように目を閉じたのかもしれない。フォルクスワーゲンの誠実さを叱責する一方では、消費者として自分の誠実さも振り返ってみるべきではないだろうか。

  今回の事態を見ながら、消費者の重い義務について考える。フォルクスワーゲンの詐欺劇を明らかにしたのは米国の非営利団体である国際クリーン交通委員会(ICCT)だった。彼らは2012年から2年余りの間の検証を経て昨年からフォルクスワーゲンに事実を認めるよう促し、今回の降参を手にした。企業の誠実さは、消費者が目覚めている時に引き出せるものだ。とても高いブランドの名声に寄り添った消費は虚しい。また消費しながら惜しむ方法はない。環境を惜しみたいなら、企業だけでなく消費者も共に誠実な熟考を始めなければならない。

  ヤン・ソンヒ論説委員