“さるかに合戦”  臼蔵 と 蜂助・栗坊 の呟き

震災や原発の情報が少なくなりつつあることを感じながら被災地東北から自分達が思っていることを発信していきます。

統一地方選挙圧勝でさらに勢い増した安倍首相

2015年04月14日 12時59分52秒 | 臼蔵の呟き

今回の日本における統一地方選挙結果と日本の政治動向をどう見ているかを報じるものです。隣国である韓国がどう見ているか。その報道内容です。

主要な数値は政権党である自民党、公明党の得票数は減少、横這いであることを示しています。そのどこに自民党政治、安倍、自公政権を国民が支持したーーそう示していると言えるのでしょうか。

安倍、自民党極右政権は主要な政策課題ではすべて多くの世論と反対、敵対しています。世論とこれだけねじれた政権が長期にわたって政権維持を行うことを許してはなりませんし、選挙戦を通じて退陣させることを実現しなければなりません。

<朝鮮日報の報道>統一地方選挙圧勝でさらに勢い増した安倍首相

 日本の安倍晋三首相がよりパワーアップする見通しとなった。毎日新聞など日本メディアは、今月12日に行われた統一地方選挙で、連立与党の自民党と公明党が圧勝したと報じた。

 今回の選挙は、10の道県と政令指定都市5市、41府県の議員などを選ぶものだ。中でも注目されたのはやはり、各道県の知事選と政令指定都市の市長選だった。日本メディアによると、与党の自民・公明両党はその大部分で現職の知事・市長を推薦するという形が取られたという。

 民主党など野党は、与党が推薦した候補者を推薦する「相乗り」か、候補者を立てられないケースが多かった。野党が独自の候補者を擁立したのは大分県と北海道、政令指定都市の札幌市だけだった。このうち2道県ではでは与党候補に惨敗し、札幌市長選だけで勝利した。

 北海道知事選では、与党が推薦した現職の高橋はるみ候補が、民主党推薦の佐藤のりゆき候補を破った。大分県でも与党が推薦した現職の広瀬勝貞候補が、民主党推薦の釘宮磐・前大分市長に勝利した。一方、札幌市長選では民主党が支持した秋元克広候補が、与党推薦の候補者に勝った。このほか、自民・公明両党は41道県議会の議席の57.9%を占めた。

 選挙から一夜明けた13日、与野党のトップの表情は180度違っていた。安倍首相は政府・与党連絡会議の席上「今回の結果は国民が力強く与党を応援してくれたおかげだ」と述べた。

 政府の報道官に相当する菅義偉官房長官は「アベノミクス(安倍首相の経済政策)に対する評価が表れた」と語った。また公明党の山口那津男代表は、開票が進む間、当選が決まった候補者の名前の横に当選マークを貼り、うれしそうな表情を見せた。

 野党は失望感に耐えているムードだった。民主党の枝野幸男幹事長は「札幌市長選で勝ったことは大きな成果だった」と述べるにとどまった。

 今回の選挙結果を受け、今年9月に行われる自民党総裁選で安倍首相が再選される可能性も大幅に高まった。時事通信など日本メディアは今回の選挙で、早くから与党が優勢との予測を示し、自民党内で安倍首相の(総裁選)再選を支持する声が高まっていると報じてきた。

 日本の政治専門家たちは「『安倍1強』が政界のキーワードに浮上して久しい。今の勢いが続けば、安倍首相が自民党総裁選で、無投票で再選される可能性が高い」との見方を示した。自民党総裁の任期は3年となっているため、再選が実現した場合、2020年の東京五輪まで政権を担うという話も現実のものとなる。谷垣禎一幹事長、二階俊博総務会長、稲田朋美政調会長の党三役は、今年の総裁選で安倍首相を支持する意向を表明している。

 今回の選挙は、今月行われる統一地方選の「前半戦」だ。「後半戦」は26日に行われる一般市区町村の首長などを選ぶ。後半戦でもまた、与野党の勝敗は今回とそれほど変わらないと日本メディアはみている。

東京=金秀恵(キム・スヘ)特派員    朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

ドイツのあるジャーナリストの日本論    内田教授のブログから

2015年04月14日 10時26分47秒 | 臼蔵の呟き

 昨日の平田教授の見解ともつながる重要な話です。日本国内のマスコミが報道しない、そのことで、日本の政治状況がどんどん右傾化する。そのことを日本国民が知りえなくなる。そのことこそが安倍、自民党極右政権の意図であることを告発しなければなりません。

朝日新聞への攻撃、読売などの部数獲得時に朝日などをたたくーーーこのような異常な安倍、右翼的勢力の攻撃を見て見ぬふりをすることが結果的にファシズムの台頭を許す。ナチスドイツの台頭に対して多くの国民がほとんどなんも抵抗しない中で、ファシズムの台頭を許してしまったのか?そのことを日本で、再現させてはなりません。そのような政治状況であっても、ドイツ共産党、反戦平和を唱える民主的な政治勢力は存在していました。だからこそ、ナチスは謀略を用いて反対勢力、異議を唱える知識人、政治家、マスコミを弾圧し、統制と戦争への道を進みました。反対者、反対意見を封じ込める政権運営をやめさせなければなりません。少しの勇気が必要ですが。その勇気こそが安倍、自民党極右政権の一番恐れるものではないかと思います。

<内田樹教授のブログから>ドイツのあるジャーナリストの日本論

ドイツのある新聞の東京特派員が過去5年間の日本の政府と海外メディアの「対立」について記事を書いている。
安倍政権の国際的評価がどのようなものかを知る上では貴重な情報である。
でも、日本国民のほとんどは海外メディアが日本をどう見ているのかを知らない。
日本のメディアがそれを報道しないからである。
しかたがないので、私のような門外漢がドイツの新聞記者の書いたものをボランティアで日本語に訳して読まなければならない。
このままでは「日本で何が起きているのかを知りたければ、海外のメディアの日本関連記事を読む」という傾向は止まらない。
そんなことまで言われても日本のジャーナリストは平気なのか。

「ある海外特派員の告白 5年間東京にいた記者からドイツの読者へ」
Carsten Germis

さて、荷造りも終わった。ドイツの日刊紙Frankfurter Allgemeine Zeitungの特派員として東京で5年以上を過ごしたあと、私はもうすぐ東京から故国へ旅立つ。
私が今離れてゆこうとしている国は、2010年1月に私が到着したときに見た国とはもう別の国になってしまった。表面的には同じように見える。けれども社会の空気は緩慢に、だがあらわに変化しつつある。その変化は過去1年間の私の書いた記事にしだいに色濃く反映するようになった。
日本の指導層が考えていることと海外メディアが伝えることの間のギャップは日々深まっている。それによって日本で働く海外ジャーナリストたちの仕事が困難になっていることを私は憂慮している。
もちろん、日本は報道の自由が保障された民主国家であり、日本語スキルが貧しい特派員でも情報収集は可能である。それでもギャップは存在する。それは安倍晋三首相のリーダーシップの下で起きている歴史修正の動きによってもたらされた。
この問題で日本の新しいエリートたちは対立する意見や批判をきびしく排除してきた。この点で、日本政府と海外メディアの対立は今後も続くだろう。
日本経済新聞は最近ドイツ首相アンゲラ・メルケルの2月の訪日についてベルリンの同社特派員のエッセイを掲載した。特派員はこう書いた。
「メルケルの訪日は日本との友情を深めるよりも日本との友情を傷つけるものになった。日本の専門家たちを相手に彼女はドイツの原発廃止政策について議論し、朝日新聞を訪問したときも安倍と会談したときも彼女は戦争をめぐる歴史認識について語った。野党第一党民主党の岡田克也代表とも対談した。彼女が友情を促進したのはドイツ企業が経営している工場を訪れて、ロボット・アシモと握手したときだけであった。」
これはドイツ人にとってはかなり気になる発言である。百歩譲ってこの言い分に耳を傾けるとして、彼の言う「友情」とは何のことなのか? 友情とはただ相手の言い分を鵜呑みにすることなのか? 友人が間違った道に踏み込みそうなときに自分の信念を告げるのは真の友情ではないというのか? それにメルケル訪日にはいくつかの目的があり、単に日本を批判するために訪日したわけではない。
私自身の立場を明らかにしておきたい。五年を過ごした日本に対する私の愛着と好意は依然として揺るぎないものである。出会った多くのすばらしい人々のおかげで、私の日本に対する思いはかつてより強いものになった。ドイツ在住の日本人の友人たち、日本人の読者たちは、私の書いた記事に、とりわけ2011年3月11日の出来事からあとの記事のうちに、私の日本に対する愛を感じると言ってくれた。
しかし、残念ながら、東京の外務省はそういう見方をしていないし、日本メディアの中にも彼らと同じように私をみなしている人たちがいる。
彼らにとって私は、他のドイツメディアの同僚たち同様、日本に対して嫌がらせ的な記事を書くことしかできない厄介者らしい。日経のベルリン特派員の言葉を借りて言えば、日独両国の関係が「フレンドリーなものでなくなった」責任は私たちの側にあるようだ。
本紙は政治的には保守派であり、経済的にはリベラルで市場志向的なメディアである。しかしそれでも本紙は安倍の歴史修正主義はすでに危険なレベルに達しているとする立場に与する。これがドイツであれば、自由民主主義者が侵略戦争に対する責任を拒否するというようなことはありえない。もしドイツ国内にいる日本人が不快な思いをしているとしたら、それはメディアが煽っているからではなく、ドイツが歴史修正主義につよい抵抗を覚えているからである。
私の日本での仕事が始まった頃、事情は今とはまったく違っていた。2010年、私の赴任時点で政権党は民主党だった。私は鳩山、菅、野田の三代の内閣をカバーし、彼らの政策を海外メディアに伝えようした。私たちはしばしば政治家たちがこう言うのを聴いた。「まだまだなすべきことは多く、もっとうまく国政運営ができるようにならなければならない。」
例えば、海外ジャーナリストは頻繁に意見交換のために岡田克也副総理に招待された。首相官邸では毎週ミーティングが開かれ、当局者は程度の差はあれ直面する問題について私たちと議論することを歓迎していた。問題によっては私たちは政府の立場をきびしく批判することをためらわなかった。しかし、当局者たちは彼らの立場をなんとか理解させようと努力を続けた。
反動は2012年12月の選挙直後から始まった。新しい首相(安倍)はフェイスブックのような新しいメディアにはご執心だったが、行政府はいかなるかたちでも公開性に対する好尚を示さなかった。財務大臣麻生太郎は海外ジャーナリストとはついに一度も話し合おうとしなかったし、巨大な財政赤字についての質問にも答えようとしなかった。
海外特派員たちが官僚から聴きたいと思っていた論点はいくつもあった。エネルギー政策、アベノミクスのリスク、改憲、若者への機会提供、地方の過疎化などなど。しかし、これらの問いについて海外メディアの取材を快く受けてくれた政府代表者はほとんど一人もいなかった。そして誰であれ首相の提唱する新しい構想を批判するものは「反日」(Japan basher)と呼ばれた。
五年前には想像もできなかったことは、外務省からの攻撃だった。それは私自身への直接的な攻撃だけでなく、ドイツの編集部にまで及んだ。
安倍政権の歴史修正主義について私が書いた批判的な記事が掲載された直後に、本紙の海外政策のシニア・エディターのもとをフランクフルトの総領事が訪れ、「東京」からの抗議を手渡した。彼は中国がこの記事を反日プロパガンダに利用していると苦情を申し立てたのである。
冷ややかな90分にわたる会見ののちに、エディターは総領事にその記事のどの部分が間違っているのか教えて欲しいと求めた。返事はなかった。「金が絡んでいるというふうに疑わざるを得ない」と外交官は言った。これは私とエディターと本紙全体に対する侮辱である。
彼は私の書いた記事の切り抜きを取り出し、私が親中国プロパガンダ記事を書くのは、中国へのビザ申請を承認してもらうためではないかという解釈を述べた。
私が? 北京のために金で雇われたスパイ? 私は中国なんて行ったこともないし、ビザ申請をしたこともない。もしこれが日本の新しい目標を世界に理解してもらうための新政府のアプローチであるとしたら、彼らの前途はかなり多難なものだと言わざるを得ない。当然ながら、親中国として私が告発されたことをエディターは意に介さず、私は今後も引続きレポートを送り続けるようにと指示された。そしてそれ以後、どちらかといえば私のレポートは前よりも紙面で目立つように扱われるようになった。
この二年、安倍政権の偏りはますます増大してきている。
2012年、民主党がまだ政権の座にあった頃、私は韓国旅行に招待され、元慰安婦を訪ね、問題になっている竹島(韓国では独島)を訪れた。もちろん韓国政府によるPR活動である。しかし、それは議論の核心部分に触れるための得がたい機会でもあった。私は外務省に呼ばれ、食事とディスカッションを供され、その島が日本領であることを証明する10頁ほどのレポートを受け取った。
2013年、すでに安倍政権になっていたが、三人の慰安婦へのインタビュー記事が掲載されたあと、私は再び召喚された。今回もランチ付きの招待だったし、今回も首相の見解を理解するための情報を受け取った。
しかし、2014年に事態は一変した。外務省の役人たちは海外メディアによる政権批判記事を公然と攻撃し始めたのである。首相のナショナリズムが中国との貿易に及ぼす影響についての記事を書いたあとにまた私は召喚された。私は彼らにいくつかの政府統計を引用しただけだと言ったが、彼らはその数値は間違っていると反論した。
総領事と本紙エディターの歴史的会見の二週間前、私は外務省の役人たちとランチをしていた。その中で私が用いた「歴史をごまかす」(whitewash the history)という言葉と、安倍のナショナリスト的政策は東アジアだけでなく国際社会においても日本を孤立させるだろうとうアイディアに対してクレームがつけられた。口調はきわめて冷淡なもので、説明し説得するというよりは譴責するという態度だった。ドイツのメディアがなぜ歴史修正主義に対して特別にセンシティブであるのかについての私の説明には誰も耳を貸さなかった。
政府当局者から海外特派員へのランチ招待数が増えていること、第二次世界大戦についての日本の見解を広めるための予算が増額されていること、そして海外特派員のボスたちがしばしば招待されていること(もちろん飛行機はビジネスクラス)は私の耳に届いていた。たぶん彼らへの提案は慎重に行われたのだと思う。このエディターたちは最高レベルの政治的PRにさらされてきており、そういうものに慣れ切っているから、うかつなことをすると逆効果になるからである。
私が中国から資金を受け取っているという総領事のコメントについて私が公式に抗議したときに、私が告げられたのは、それは「誤解」だということであった。
以下は私の離日に際してのメッセージである。私の同僚たちの中には意見の違うものもいるけれど、私自身は日本において報道の自由が脅かされているとは思っていない。たしかに民主党政権下に比べると政府批判の声は低くなってはいるけれど、依然として報道されている。日本の政治的エリートたちの内向き姿勢と、海外メディアとオープンなディスカッションを避ける政府高官たちの無能はいまのところ報道の自由に影響を与えるほどには至っていない。それに、情報を集めるためにはそれ以外にいくらでも方法がある。それでも、民主制においては、政策を国民と国際社会に対して説明することが、どれほど重要であるのかを安倍政権がよく理解していないということはあきらかである。
海外特派員の同僚たちから自民党は広報セクションに英語を話せる職員を配置していないとか、外国人ジャーナリストには資料を提供しないとかいう話を聞いても、私はもう驚かなくなった。海外旅行が多いことを自慢している現在の首相が海外特派員協会で私たちを相手にスピーチするための短い旅についてはこれを固辞していると聞いてももう驚かなくなった。ただ、私の気持ちが沈むのは、この政府が海外メディアに対して秘密主義的であるだけでなく、自国民に対しても秘密主義的であるからである。
過去5年間、私は日本列島を東奔西走してきた。北海道から九州まで東京以外の土地では私が日本に対して敵対的な記事を書いているという非難を受けたことは一度もない。反対に、さまざまな興味深い話題を提供され、全国で気分のよい人々に出会ってきた。
日本は今もまだ世界で最も豊かで、最も開放的な国の一つである。日本に暮らし、日本についてのレポートを送ることは海外特派員にとってまことに楽しい経験である。
私の望みは外国人ジャーナリストが、そしてそれ以上に日本国民が、自分の思いを語り続けることができることである。社会的調和が抑圧や無知から由来することはないということ、そして、真に開かれた健全な民主制こそが過去5年間私が住まっていたこの国にふさわしい目標であると私は信じている。


「武器つくっとる。でもそれで生活が成り立っている」 長崎の70年

2015年04月14日 08時15分53秒 | 臼蔵の呟き

戦争する国を目指す安倍、自民党極右政権、自民党中枢。彼らの政権運営にのって戦争することで経営を維持し、利益を出そうとする死の商人たち。ここでいう三菱重工などが復活してきています。戦争がおこることで兵器、弾薬消費される。そのことで巨大な利益が売れる。このような政治と死の商人たちとの関係を断ち切らなければなりません。

自らの仕事に誇りを持てないような企業、職員を作り出してはなりません。泥棒と侵略戦争を同列で比較するようなだましでしか説明できない行為をやめさせなければなりません。

侵略戦争を肯定し、歴史認識の改ざんを進める政権、マスコミへの威圧を徹底して暴露し、批判しないければなりません。

 <東京新聞>

 被爆地として核兵器廃絶を訴える長崎市は、護衛艦や魚雷をつくる三菱重工長崎造船所のお膝元でもある。かつての軍都佐世保市は今も自衛隊や米軍の基地の街だ。原爆投下が決定づけた終戦から七十年。日本は「戦える国」「武器を売る国」へとかじを切りつつある。「平和」と「軍需」が絡み合う、長崎の二つの街の戦後を見つめた。初回は長崎市の一つの家族の物語から-。

 二つのきのこ雲の写真に挟まれ、白髪の日本人男性が映し出された。二〇一〇年末、英BBC放送で、広島、長崎で二度被爆した故山口彊(つとむ)(同年一月、九十三歳で死去)は「世界一、不運な男」と笑いの種にされた。

 二重被爆は単なる「運」ではなく、そこに至る理由がある。山口は、三菱重工長崎造船所の製図工だった。一九四五年八月六日、広島造船所に同僚二人とともに出張しているときに被爆。やけどを負って戻った長崎に三日後、再び原爆が投下された。

 同じような経緯で二重被爆したのは山口や同僚だけではない。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館では、二つの市の原爆の記述がある手記や書籍をリストアップしている。取材班ではこれを手がかりに、厚生労働省が集めた被爆体験記149人分を読み込んだ。

 二重被爆と推定できた造船所関係者やその家族は、山口ら以外に少なくとも16人いた(原爆投下後の入市被爆を含む)。体験記を寄せたのは一部の被爆者なので実数はさらに多いとみられる。

 広島造船所は造船能力の拡大を急ぐ軍部の求めで44年に新設され、長崎から異動や出張で社員が派遣されていた。

 二つの被爆地を結んだ造船所。「私たちにはのんきな父さん。家で仕事の話はしなかった」。山口の長女、山崎年子(67)=長崎市=は振り返る。九十歳過ぎて公の場で体験を語り始めた山口が二〇〇七年に出した著書には、終戦直後の回想がつづられていた。

 <かつては巨大な戦艦「武蔵」をつくった造船所でフライパンをつくるのもおかしなものだが、人の暮らしに役立たないものをつくっていた、これまでが異様だったのかもしれない>

 造船所は、自衛隊が発足した一九五四年に警備艦の建造を始める。武蔵が建造された場所で、豪華客船などとともにイージス艦も造られてきた。

 「他人が家に勝手に入ろうとしたときに、どうぞどうぞと入れるか、という話。ちゃんと鍵は閉めなくてはいけない。私たちはそういう気持ちで(防衛産業を)やってきた」。匿名を条件に取材に応じた男性社員(61)は言う。

 男性は、小学生だった息子に「三菱は武器をつくっている」と話した教員に、抗議に行った。「たしかに武器をつくっとる。でもそれで生活が成り立っていることを忘れてはいかん」と息子には説明した。

 戦後離島で教員をしていた山口も、生活の安定を考え、造船所に戻った。幼いころに被爆し、六十歳手前でがんで亡くなった次男捷利(かつとし)も造船所勤めだった。

 娘の山崎は「私たちは矛盾の中にいる」と苦笑する。「三菱が長崎を支えていて、そのおかげで私たちは平和活動ができている」。ときに無力感も募る。

 山口が晩年に語り部となったのは、捷利の死に背中を押されてのことだった。山崎も父が抱えていた痛みや苦しみの大きさに、死後あらためて思いを寄せる。「私たちのような家族を出さないために、使命と思って語り継いでいくしかない」 =文中敬称略(早川由紀美、飯田孝幸、福田真悟)

 <長崎と佐世保> 1857年、幕府がオランダ人技術者を招いて造った長崎鎔鉄所が長崎の造船所の始まり。明治維新後、三菱が買い取った。佐世保には明治時代に海軍の拠点となる鎮守府が置かれた。戦前軍事上の重要な役割を果たした二つの街の間を今も自衛隊の艦艇が検査や修理のため行き交う。長崎港ウオッチングをしている長崎県平和委員会のホームページによると、2014年、佐世保に配備されている護衛艦が9回、長崎造船所を訪れた。