goo blog サービス終了のお知らせ 

最終回文庫 ◇◇雑然と積み上げた本の山の中から面白そうなものが出てきた時に、それにまつわる話を書いていきます◇◇

※2011年9月以前の旧サイトで掲載した記事では、画像が表示されない不具合があります。ご容赦ください。

私のコレクション "The Old Man with the Wen" ― Japanese Fairy Tales(3)

2025年05月10日 | 日本お伽噺叢書
 "Japanese Fairy Tales" 特別版として北星堂から昭和13(1938)年に出版された12冊の叢書の中から、所蔵する3冊を巻末の叢書リスト順に紹介します。所蔵しているのは、リストの後半の3冊です。

"The Old Man with the Wen"  原作者:巌谷小波 昭和13(1938)8月12日発行  丁数:13+折込のカラー挿絵 本文:英文 邦題:「瘤取り

表紙

表題紙


折込みカラー挿絵

最終ページは、左に叢書のリスト、右に同じ奥付表示があるのは前書と同じです。

この英訳日本昔噺叢書は全12編が昭和13(1938)年に刊行されました。昭和17(1942)年に、そのうちの6編を収録した合本が「普及版」として刊行されたため、最初に発行された12冊は「特別版」と称されるようになりました。

【告知】
gooブログが終了ということで、本ブログの更新は5月28日掲載の記事までとします。

私のコレクション  "The Tea-Kettle of Good Luck" ― Japanese Fairy Tales (2)

2025年05月08日 | 日本お伽噺叢書
 "Japanese Fairy Tales" 特別版として北星堂から昭和13(1938)年に出版された12冊の叢書の中から、所蔵する3冊を巻末の叢書リスト順に紹介します。所蔵しているのは、リストの後半の3冊です。

"The Tea-Kettle of Good Luck"  原作者:巌谷小波 昭和13(1938)8月12日発行  丁数:13+折込のカラー挿絵 本文:英文 邦題:「ぶんぶく茶釜

表紙


表題紙


折込みのカラー挿絵


最終ページは、左に叢書のリスト、右に同じ奥付表示があるのは前書と同じです。

この英訳日本昔噺叢書は全12編が昭和13(1938)年に刊行されました。昭和17(1942)年に、そのうちの6編を収録した合本が「普及版」として刊行されたため、最初に発行された12冊は「特別版」と称されるようになりました。

【告知】
gooブログが終了ということで、本ブログの更新は5月28日掲載の記事までとします。

私のコレクション  "Do Nothing Taro" ― Japanese Fairy Tales (1)

2025年05月06日 | 日本お伽噺叢書
 "Japanese Fairy Tales" 特別版として北星堂から昭和13(1938)年に出版された12冊の叢書の中から、所蔵する3冊を巻末に載っている叢書リスト順に紹介します。所蔵しているのは、リストの後半の3冊です。

"Do Nothing Taro"  原作者:巌谷小波 昭和13(1938)8月12日発行 
丁数:15+折込のカラー挿絵 本文:英文 邦題:「ものぐさ太郎」

表紙


表題紙

折込みのカラー挿絵

奥付 左ページに叢書のリスト


この英訳日本昔噺叢書は全12編が昭和13(1938)年に刊行されました。昭和17(1942)年に、そのうちの6編を収録した合本が「普及版」として刊行されたため、最初に発行された12冊は「特別版」と称されるようになりました。

私のコレクション 濱田徳太郎『和紙つれづれ』

2025年05月04日 | 壽岳文章
濱田徳太郎『和紙つれづれ』 昭和23(1948)年2月10日 靖文社/発行

和紙つながりで。

表紙

本書も芹沢銈介の装幀なので、著者は違いますが似ています。

せっかくなので、ジャケットを見開きで。


表紙

表題紙

奥付


これだけ装幀を芹沢銈介に依存しているのに、前に紹介した壽岳文章『日本の和紙』で、芹沢銈介の名前を別紙片で後から貼ったというミスを犯していたのに、本書でも、あってしかるべき場所には記載がなく、「あとがき」で、ようやく触れているという失態を繰り返しています。
装幀者の名前を表題紙ウラなどに明記するように定着したのは、いつ頃からだったのでしょうね。


私のコレクション 壽岳文章『日本の紙』

2025年05月02日 | 壽岳文章
壽岳文章『日本の紙』昭和19(1934)年3月10日 靖文社/発行

装幀/芹沢銈介

冒頭に紙漉きの原料から漉き作業の様子を写した写真が8ページあり、その後に「和紙のしなじな」として、実物和紙8葉を貼った10ページがあります。
本文中に装幀者の名前を記載するのを忘れたために、名前だけ印刷した別紙紙片を表題紙の前ページに貼り付けてあります。


以前の記事「私のコレクション "HAND-MADE PAPER OF JAPAN"」で紹介した外国人観光客に向けたものを「昭和十八年の夏、筋のはこびを、ほぼ観光人文庫のに頼りながらも、すつかり骨を入れかへて書き改め、和紙のすきな南方氏の乞ふにまかせ、ここにおほやけにする。」と、改稿しています。

表題紙


奥付


本書には、壽岳文章氏の署名を雁皮紙にいただき、挟み込んであります。




昭和22(1947)年6月30日に発行された、本書の三刷本。


表題紙


装幀と口絵、実物見本貼付部分が変わっています。


「あとがき」で次のように述べています。
舊版のやうに、紙の見本をそへることはできなくなつた。心のこりであるが、いたしかたがない。寫眞も原版を燒いたので、その代りに芹澤銈介兄がずつと前に作つた型染紙漉屏風―武州小川を描いたもの―の絵づらを写真にとり、口絵とする。風情はかへつて加はつたことと思ふ。
添付の実物和紙は3葉(雁皮、楮、三椏)にとどまっています。

奥付


私のコレクション 雑誌「貸本文化」

2025年04月30日 | 貸本
雑誌「貸本文化」

私が学生時代を送った昭和40年代までは、地元に貸本屋というものがあった記憶があります。なぜこの雑誌が手元にあるのか分かりませんが、おそらく「創刊号」というものに魅力があったのだろうと思います。創刊号から4号まで、3、4号が合併号なので3冊。
雑誌を出すということは、熱意をいくら込めて創刊しても、3号まで出すとどうしても息切れしてしまい、「3号雑誌」と言われるぐらいで頓挫してしまうことが多かったからだと思います。

で、この雑誌も3号どまりなのかと、調べてみると、その後の号もバラで古書店の目録に出ていました。「貸本屋」というもの自体が先細りの業種でしたから、この雑誌も同じ運命なのかと思いましたが、興味が湧いたので、国会図書館の所蔵を調べてみました。すると、終刊は2004年6月の第20号だったことが分かりました。創刊が1977年1月ですから、27年間も続いた雑誌でした。
創刊号

残念ながら、お名前に心当たりのある方がひとりもいませんでした。
裏表紙に表示してある書誌情報

2号

3・4号合併号「石子順造追悼号」
第3号になって、お名前だけは知っている石子順造、長友千代治の名が初めて出てきます。

3冊の表紙をスキャンした時点では、所蔵はこの3冊だけでしたが、冒頭に書いたように、何号まで出ていたのかを調べるうちに、古書店検索で、「創刊号、5号から18号までの揃い」という在庫があるお店を見つけて、ついポチっとしてしまいました。
20号が終刊だというのが分かったのはその後でした。ですから、あと19号と20号の2冊を調達出来れば、創刊から終刊まで揃うことになります。
手元に届いた「創刊号、5号から18号までの揃い」は状態がとても良かったです。




発行年順に並べていくと、増刊号(特集・貸本屋大惣)が1冊だけありました。

ここで、増刊号で特集された「貸本屋大惣」は、100円ショップで名を成したダイソーと関係があるのでは? と、ふと思って知らべてみましたが、「大惣」は、江戸時代後期から明治時代に名古屋にあった野屋 (おおのや そうはち)の貸本屋で、ダイソーは「大創」からきている名称で、まったく無関係でした"(-""-)" 

















私のコレクション 内田魯庵『讀書放浪』

2025年04月28日 | 内田魯庵
内田魯庵『讀書放浪』斎藤昌三・柳田泉/編纂 昭和8(1932)年4月3日 書物展望社/発行

最初は、昭和7年6月に「限定版」として1000部を刊行。それが僅かの間に売り切れたので、改訂増補を兼ねて、「普及版」として1000部を刊行したとあります。
限定版は天小口が藍染で、布袋に入っていたようですが、手元の「普及版」は函もジャケットも無い「裸本」です。
古書店の販売目録に載っている普及版は、ほとんどが「裸本」です。その訳は、普及版の本体は「輸送函」に入っていたために、函は捨てられてしまい、結果、裸本が多くなったと推測できます。

本書の装幀に使われたのは日刊新聞。

せっかくなので表紙全体を。
新聞紙そのものだと耐久性に乏しいので、工夫して、布以上の耐久性があるという加工法を発見して応用したという記述があります。

見返しは、内田魯庵の蔵書票2種で、右上は本名の「内田貢」、左下は木村荘八が描いた土俗玩具だそうです。


表題紙


目次の一部


奥付


刊行順で言うと、以前の記事で取り上げた『紙魚繁盛記』(昭和7年2月)と、前の記事、『續紙魚繁盛記』(昭和9年4月)が刊行される間に出版されました。

私のコレクション 内田魯庵『續 紙魚繁盛記』

2025年04月26日 | 内田魯庵
内田魯庵『續 紙魚繁盛記』斎藤昌三/編纂 昭和9年4月10日 書物展望社/発行



表紙

正編の天小口は「天金」でしたが、本書の天小口は銀色のような金属光沢があります。装幀に触れたところにも、天小口の装飾について書かれていません。

見返し

斎藤昌三が書いた「跋」に「『当世作者懺悔』を連載した「日本之少年」誌上に文芸滑稽欄があって、そこに挿絵とされたものがどうやら翁の好み、若しくは翁の関係あるもののやうに思惟されたので、翁の趣味の一端を生かす方便に応用して見た」とあります。

表題紙

目次の一部


奥付


何気なくページをパラパラとめくっている時に、小さな朱印があり、あれっと思いました。

印の部分を拡大します。

どっかで見たぞ。それも、ちょっと前に。そう、前の記事で紹介した内田魯庵『紙魚繁盛記』のマエ見返しを紹介した時に見たものでした。

虫食いのある本の一葉を裏打ちして使用したものですが、そこに押してあった印と同じなのでは? その部分を拡大します。

右から読むとすると、「〇静昭太〇」でしょうか。ほとんど同じですね。

『紙魚繁盛記』と、この『續紙魚繁盛記』は神保町の別々の古書店で、別々の時期に購入したものです。どちらの本も神保町に流れてくる前は、大阪の古書店に並んでいたことが、それぞれの本の後ろ見返しに、難波の「十二段家」と阿倍野区の「土田書店」のシールが残っていることからわかります。
この朱印の主がどこかにからんでいて、今は2冊とも私の手元にあるという、不思議な巡りあわせがあるんですね。
朱印の主が『紙魚繁盛記』を購入してから押したのではなく、前見返しに使われた、虫食いがある和本の元々の所蔵者だったりしたら、もっとスケールが大きな話になりますね。




私のコレクション 内田魯庵『紙魚繁盛記』 

2025年04月24日 | 内田魯庵
内田魯庵『紙魚繁盛記』斎藤昌三・柳田泉/編纂 昭和7(1932)年2月10日 書物展望社/発行

内田魯庵(1868年5月26日~1929年6月29日)の没後に刊行されたもので、編纂者の斎藤昌三の造本のこだわりが、至る所にちりばめられています。

函貼りは砂糖袋の紙を使い、「粋と甘いを利かしてみた」そうです。

表紙(セロファン紙が貼り付けてあるので、そのままスキャンしています) 

かぶせたセロファン紙が糊付けしてあるので、表紙に使われている布の感触を直接触れたことがなく、色合いからビロードだと何となく思い込んでいました。
ところが、斎藤昌三の「あとがき」を見てビックリ。表紙に使われている素材は「酒嚢」。「酒嚢」とは何かを調べると、「伝統ある造り酒屋で、日本酒の製造工程で、もろみを入れてお酒を絞るときに使われた綿の袋」なのだそうです。その袋には強度が求められるため、手織木綿(帆布)を柿渋に漬けた布が使われます。長年使用することにより、日本酒の成分と柿の渋が絡み合い、独特の色とむらが生じるのだそうです。
それを表紙素材として選んだ斎藤昌三の見識が素晴らしいですね。

表題紙

内田魯庵の近影のページの後に、蔵書票の紹介


その次に限定部数の表示ページがあります

目次の一部

□魚 の項のページを開いてみると、「」が朱色で印刷されています。


奥付 限定部数がここには表記されていません

斎藤昌三の趣意はこれだけにとどまりません。表紙から開き直してみます。
まずは、本の天小口は「天金」です。

オモテ見返し (右ページの半分はセロファン紙がかかっています)


ウラ見返し(左側半分にはセロファン紙がかかっています)


オモテ見返しとウラ見返しに銀色の、和紙を食い荒らす「紙魚」が印刷してあります。それだけではなく、見返し紙には虫食いがある和紙を印刷したのではなく、実際に虫食いがある和紙を使っているのです。触ると、虫食い跡が分かります。見返し紙をこのようにするために、虫食い本を集めたのだそうです。――ということは、一冊ずつ見返しが異なるということになります。いやはや、恐れ入ります。

そんな手の込んだ本を「買って満足」と、ただ積んでおいたのでは、バチが当たりますね。


ホシチャコール錠 宣伝パンフレット

2025年04月22日 | 星製薬
星製薬が販売していた「ホシチャコール錠」の6つ折りになった宣伝パンフレット。


表紙になっているのは、現在も破られていない大相撲記録 69連勝を樹立した、国民的大横綱の双葉山です。(Wikipediaによると、初土俵1927年3月、入幕1932年2月、引退1945年11月)