最終回文庫◇◇雑然と積み上げた本の山の中から面白そうなものが出てきた時に、それにまつわる話を書いていきます◇◇

※2011年9月以前の旧サイトで掲載した記事では、画像が表示されないものがあります。ご容赦ください。

なんかヘンだよ

2021年01月23日 | 古書

ネットオークションで本を探すことが多いのですが、出品本の不可解な説明文に、「ん??」となることが多い、このごろです。

例えば――

 

◆「〇〇ページ付近に落丁があります。ページの欠損はありませんが、予めご了承ください」

そもそも「〇〇ページ付近」って、いったい何? 

落丁があるのに、ページの欠損がないとは、どういうこと?

出品写真を見ると、〇〇ページを含む1折の綴じが外れていました。

「落丁」というのは、8ページもしくは16ページ分が製本段階で抜け落ちている状態ですから、こんな時は、「〇ページ~◇ページの1折が綴じから外れています」とでもすればいいのでしょう。ちなみに、折の順番が前後している場合を「乱丁」といいます。

 

◆「単行本」としてある出品本。その写真を見ると、〇〇文庫とある「文庫本」

説明文を書き間違えたのか、写真を貼り間違えたのかと思うと、そうではなく、その出品者は「単行本」という語の使い方を間違えていることが分かりました。

 

◇本の説明に「ジャンク品」??

パソコンやカメラ、オートバイや車の部品、家電製品など、可動かどうかは保証の限りでなく、故障していても部品取りなどに利用できる(かもしれない)ものの出品に「ジャンク品」と表示されますが、本に「ジャンク品」はおかしいでしょ。

 


受賞本をコレクションする面白さ

2013年04月30日 | 古書





文学賞として芥川龍之介賞、直木三十五賞というふたつの賞が有名で大きな賞と言えますが、ほかにも菊地寛賞、大宅壮一ノンフィクション賞、松本清張賞、金沢市の泉鏡花賞(昭和48年~現在)、笠岡市の木山捷平文学賞(平成8年~16年度まで)など地方自治体がおこなう、地元が輩出した文学者の功績をたたえた賞、それに加えて詩歌、俳句、短歌や児童文学の分野まで含めると多彩な賞があります。最近では本の売り上げが減少傾向にあるために、何とかしなくてはということなのでしょう、書店員が選ぶ「本屋大賞」が話題になっています。それらをひっくるめると、賞と名がつくものが200ほどもあるそうです。

昔からコレクションの対象となってきた芥川賞、直木賞について、受賞した初版本を蒐集する面白さについて、思いつくままに書いてみます。そうは言っても、完蒐(文字通り、コンプリートのコレクションを完成させること)からはほど遠いところで挫折しているので大きなことは言えませんが、蒐集の面白さが伝わるかどうか……。初版本ブームに踊らされていた頃のことです。

芥川賞、直木賞は本の売り上げが落ち込む2月と8月、いわゆるニッパチに発表されます。選考委員会が開かれる10日ほど前にノミネートされた作品名が夕刊の文芸欄の片隅に小さく載ると、まず、既に刊行された作品があるかどうかをチェックします。芥川賞候補になっても、その作品が既に本になっている人はめったにいませんでした。文芸雑誌の○月号に掲載されているというのが当たり前でした。ところが、直木賞候補作品には、作品の雑誌掲載号が表示されている人に混じって、すでにどこかの出版社から本になっている人がひとり、ふたりいることがありました。それが大手出版社から出ていて刊行直後であれば、大きな書店を何軒かハシゴすれば見つけられるのですが、刊行から3か月ほど過ぎてしまうと、すでに返品されて書店店頭には並んでいないということになりますし、地方の小出版社から出版されたとなると、発行部数自体がごくわずかで、店頭に置く書店もほとんど無いということになります。(第69回直木賞受賞作品 『津軽世去れ節』長部日出雄著 津軽書房刊1972年 がそうでした)。出版されていれば受賞本としてコレクションの対象になるわけですから、候補作品としてノミネートされた作品が収録された本の初版(ノミネートされた段階で重版になっている作品もありましたが、それはよほど前評判の高かった作品です)が、どこの本屋に何冊あるかをチェックします。受賞作品の中に既に出版されたものがない時は、探す楽しみが無くなります。

今は夜遅くまで開店している書店は多いですが、当時、夜は6時、7時で店仕舞いする所ばかりでした。受賞のニュースが流れるのは早くても9時のニュースの終わりごろ、今のように番組のニュースの冒頭に、その日のニュースのメニューが一覧できるようなスタイルではありませんでした。もっともそうであっても、書店が閉まっているのですから、いち早く情報を入手しても、翌日の朝刊で見るのと変わりませんでした。
既に出版されている本が受賞した翌朝は、勤め先には午前半休と連絡して、書店開店の朝10時にチェックしておいた書店を効率よく回るルートを決めます。前日まで作家別の棚に並んでいても、気を利かせた店員さんがレジ脇の目立つ場所に並べ変えたりしますから、油断できません。特に書店が集まっている神保町などにはコレクターが集まるので、1秒を争うことになります。首尾よく手に入れられればいいのですが、どうにも間が悪くて、行く先々で先を越されてしまうこともあります。そういう時は潔く諦めて、午後からの仕事に精を出すのですが、終業時間が近づくと落ち着かなくなり、帰り道の駅ビルや駅近くに書店が数件集まっているようなところで途中下車して探すことになります。近郊の駅は意外と穴場で、都心で入手できなかった本を入手できたことも多々ありました。候補作品の発表後、受賞してからだと入手しにくいだろうと予想して、買ったこともありますが、当たったことは一度もありませんでした。候補作を含めてコレクションするというやり方もありますが、作品を読んで予想するという本道からすると、まるではずれた、まったくのゲーム感覚だったと言えます。

受賞が決まると受賞作品として売れることが約束されているようなものですから、出版社にしてみれば「直木賞受賞!」と目立つ、新しい帯を付けます。売れ残ったものが返品されて出版社の倉庫にあると、大至急印刷した新しい帯に付け替えられて出荷されることになります。コレクターにとっては、「受賞」の文字が入っていない元々つけられていた帯(元帯)が欲しいのですが、帯を付け替えられてしまうと、奥付は初版でも後帯(受賞後の帯)になってしまいます。ところがこうした場合でも、必ず帯が付け替えられるかというとそうではありません。元帯を外して新しい受賞帯を付けるという2段階の作業を、元帯は外さずにその上から受賞帯をかける場合もあるのです。これは作業手順を指示した人によって違うのか、作業した人の判断によるのかもしれません。
先に別の文学賞を受賞した作品が元帯の上に文学賞の受賞帯をかけられ、その後に直木賞を受賞したものだから、さらにその上に受賞帯がかけられたという第27回文藝賞受賞、第105回直木賞受賞作品『青春デンデケデケデケ』(芦原すなお著 河出書房新社1991年)の初版を持っていたことがありました。まあもっとも、私が推測したような経緯で帯が三重に巻かれたわけではなく、帯コレクターの仕業なのかもしれませんが。

1961年以降、選考委員会を開く場所は築地の料亭・新喜楽と決まっているようですが、新喜楽の前に出向いて、待ち構える報道陣に混じって、いち早く受賞作を知り、ちょっと遅くまで開いている書店で受賞作品を他人に先駆けて手に入れるということを思い付いた人がいました。定職を持たない、せどり屋といってもおかしくない人でした。受賞がすんなり決まる時は6時ごろには早々とわかるらしいのですが、そのやり方を真似したいとは思わなかったので、実際にうまくいったのか、尋ねてみたことはなかったです。今にして思えば、ブームに踊らされていたのですが、受賞決定翌日に走り回る狂想曲とも言えるような騒ぎを楽しみにしていたところがあったのでしょうね。

受賞発表の翌朝の新聞を見てビックリ! ということもありました。ノミネート作品が発表された時には雑誌の○月号掲載だったはずなのに、受賞の喜びに笑みを浮かべた作家の手には受賞本が!  (ダラダラと つづく)

















再録 私が好きな作家 庄野潤三

2013年04月17日 | 古書





順番が逆の方が良かったのでしょうが、2007年1月に別ブログに載せたものを、一部手直しして再録します。

好きな作家といえば、一番最初に挙げたいのが庄野潤三さん。

名前をご存知の方は、そう多くないと思うので、ちょっと簡単に紹介しておきましょう。
庄野潤三さんは「第三の新人」と呼ばれる作家のひとりです。第三の新人と呼ばれる作家には、吉行淳之介さん、安岡章太郎さん、三浦朱門さん、曽野綾子さん、阿川弘之(阿川佐和子さんの父君です)さんたちがいます。
教育者で帝塚山学院の創立者を父に持ち、お兄さんは児童文学者の(故)庄野英二さんです。『星の牧場』が代表作です。

私の宝物から……庄野潤三さんの最初の作品、『愛撫』。もちろん初版です。



しかも、この本は献呈署名本なんです。誰に献呈したかというと、なんと私が好きな作家なんです。
その作家は既に故人になっていますが、多少の差し障りがありますから、名前は出せませんが……。

次に紹介するのは、1955年に芥川賞を受賞した作品。


『プールサイド小景』。
この本も献呈署名本。上の『愛撫』と同じ作家に宛てた署名が入っています。

表紙を開いて、署名があるところを紹介します。ただし、宛名は見えないように、写真を加工してあります。























私と庄野潤三作品との出合い

2013年02月27日 | 古書





別のブログに2009年10月に掲載した記事を再編集したものです。

2009年9月21日に敬愛する作家、庄野潤三さんが亡くなりました。この話は、私と庄野潤三作品との出合いから始まります。

大学入試で浪人していたとき、区立図書館(その頃は東京に住んでいました)に「受験勉強」と称して毎日通ったのですが、実際にはあまり勉強はしないで本を読んでいることが多かったのです。そのときに出会った作家に庄野潤三さんがいました。
その図書館に架蔵されている庄野作品はそう多くなく、数日で読み尽くしてしまったので、行き先を別の図書館に変え、そこで読み尽くすと、図書館で読めない昔の作品をもっと読みたくて、古本屋を覗くようになりました。今のように、蔵書目録の検索が自宅でできるような時代ではなかったのです。

ある日、思い立って、古本屋が軒を連ねているという神田・神保町に行ってみることにしました。
そうしたら、庄野さんの初期の作品を、ずら~っと棚に並べている古本屋を見つけました。店頭のガラスケースにも数冊並んでいました。棚の本を手に取って裏表紙を開くと……どれも定価に関係なく、数千円から数万円の値段シールが貼ってありました。
学生の身分で、そんな値段の本が買えるわけはなく、すごすごと帰ったのですが、中央線沿線の他の古本屋を回り、いろいろ調べていくうちに、「初版本」と呼ばれるカテゴリがあって、そのコレクターと呼ばれる人たちが存在していることを知りました。
新刊の本とは違って、古本屋は店独自の値付けをするので、神保町の有名古書店で高値のものが、別の店ではそれほど高くもなく売っていたのを見つけたり、店頭の数百円の均一本の箱で見つけたりで、古本屋を回って探す面白さに嵌まっていったのです。

話が庄野潤三さんから離れますが、「初版本」といわれる、コレクションの対象になるものについて簡単に説明しておきましょう。
初版本のコレクターというのは、コレクションの対象が切手であれば、裏の糊やミシン線を気にするのと同じように、微細なこだわりがあります。読むときに帯やジャケットが邪魔だから捨ててしまう方もいます。帯は店頭で外れたり、破けてしまうこともあります。箱入りの本の本体にはグラシンと呼ばれるパラフィン紙や、透明なセロファン紙がかかっているものもあり、立ち読みした人の扱い方によっては、シワが寄ったり、破けているのは普通のことだと思っていました。しかし、コレクターの心理としては、より綺麗なもの、より完全なものを求めるのです。
かけてある帯の幅が狭くて、はずれやすい場合や、出版された直後に賞をもらって、受賞したことをアピールする帯に付け替えられたりすると、元々の帯が付いたままの本の数は少なくなります。そうなると、元々の帯が付いているか、いないかというだけで、本の古書価よりも高い値段の差が生じることがあります。極端な例だと、こんなこともあります。
書店の店頭に並んでいるときは、ページの間に挟んであり、代金を払うときにレジで抜かれてしまう売上スリップというものがあります。書店はそれで売り上げ管理や棚補充をするためのものです。本が出来上がったときに、著者が知り合いやお世話になった人たちに贈呈することがありますが、そのほとんどの場合、売上スリップが入ったまま贈られます。
仮に、まったく同じ状態の「初版本」があったとして、一方にだけ売上スリップや挟み込みの読者カードが残っていたとすると、どうなるでしょう。そうなんです。帯や売上スリップ、読者カードの有無で、価値が変わるということになるのです。

古書店が発行する古書目録や、古書展のときに発行される出品目録というものがあります。そこで使われている用語には特別なものもあって、まったく興味のない方がご覧になると、意味不明という用語もありますので、少し説明をしておきましょう。

「カバ」とあれば、カバー(ジャケット)が付いているということ。
「函欠」とあれば、本来はある函が無いこと。
「元帯」とあれば、発行時に付いていた帯があるということ。
「受賞帯」とあれば、受賞が決まってからの帯があるということ。(元の帯ではないということ)
「帯欠」とあれば、付いていた帯が無いこと。
「元パラ」とあれば、発行時にかぶせてあったパラフィン紙があるということ。
「ムレ」とあれば、濡れたり湿気を帯びてしまったということ。「水クイ」という表現もあります。
「スレ」とあれば、擦れた傷があるということ。
『○○○○(書名)』 献署カバ帯 ××××(著者名) とあれば、
著者が誰かに署名を入れて献呈した本で、カバーと帯がついてますよ~ということになります。

宛名が入っているのを嫌う傾向がありますが、宛先が作家や評論家、有名人だと付加価値がつく場合もあります。そのために、贈呈された人が本を処分する場合は、宛名を墨で塗りつぶしたり、宛先だけを切り取ったり、署名のあるページをむしりとったりということがあります。サインペンによる署名よりは、筆によるものが珍重されます。献辞などがある場合がありますが、何が書いてあるかによって価値が左右されます。

本の状態を表すのには、綺麗な順に「極美」「美」「並上」「並」「並下」「汚」と現わされますが、主観の相違が生じやすい部分ですから、控えめに表示されることが多いようです。特にネットオークションでは、クレームを付けられることが致命的と考える出品者が多いため、汚れや傷を明示して、それでも良い人は入札してくださいという説明が目立ちます。
ネットオークション、ネット販売が普及したことによって、場末の古本屋を回っても、掘り出し物に出合うことが少なくなりました。しかし、BOOKOFFの全国展開で、経験の浅い店員でも買い取りが出来るようにシステム化された評価基準は、逆に掘り出し物を生み出している傾向があります。

前回「せどり」について書いたことに関連して、商売として成立する可能性について、ちょっと書いておきます。
「せどり」を生業にしている人は、安く売っている本を見つけて、専門の古本屋に高く買ってもらうというのが基本でしたが、安く手に入れたものを自分でネットオークションに出品して利ざやをかせぐ人たちが出現してきました。BOOKOFFがその仕入れ場所のひとつになっているようです。中古衣料やオマケ、非売品など、身の回りの品、あらゆるものがオークションで売買されていますから、本に限ったことではありません。
私が先日中古で手に入れたカメラも、それを出品した人は中古を扱う店で買ったものを出品したものでした。私の落札価格は、出品者が買った値段より5000円ほど高かったことが、送られてきたカメラに入っていたレシートからわかりました。オークションで、どれほどの需要があるのかが判断できれば、落札予想価格を下回る値段で売っている店から買って、それを出品して利ざやをかせぐことが出来るのは、同じ経済原則です。
新品をネットオークションで売買している人もいるようです。量販店では購入の都度ポイントが付くので、量販店を上手に利用すれば、たまったポイントを商品と交換することで利ざやを稼ぐ程度なら、理論的には「商売」も可能です。自分で在庫を持たずに「商売」できるわけですから、賢いやり方とも言えます。
ネットオークションは、競る相手がいれば値段が上がっていくので、だいたいどのくらいの値段で売買されているものかを把握せずに参加すると、つい熱くなって、「相場」以上で落札してしまうこともありますから、心構えと市場の価格調査が欠かせません。

話題が庄野潤三さんから逸れてしまいましたが、もともとまとまりのある話を書こうとしているわけではないので……。
次に私のタカラモノ、庄野潤三作品を紹介します。



















私のコレクション 梶山季之『せどり男爵数奇譚』

2013年02月25日 | 古書





2009年3月に別ブログに書いたものを再編集して載せます。

『せどり男爵数奇譚』というタイトルの本があります。今は亡き作家、梶山季之の作品です。

1974年桃源社刊

先日放送された「ビブリア古書堂の事件簿」にも、この本の元版が登場していました。
元版が絶版になったあと、河出文庫、夏目書房、ちくま文庫からと版元の変遷を重ねていますが、現在も読むことが出来ます。

タイトルにもなっている「せどり」がどういう意味なのかというと、古書の世界の用語で、セリで競り取るから「競取り」という解釈もありますが、価値がわからずに安く売っているお店から買って、その本の価値を認めているお店で高く買い取ってもらい、その差額で生活している「せどり屋」と言われる人たちの行為を、本の「背」(書名)で抜き取ることから、「せどり」と言っています。

最近はスペースの問題からか、ボリュームのある全集はひところに比べると、かなり安くなりました。全集は、毎月刊ないし隔月刊という配本パターンで、完結までに時間がかかるというのが一般的でした。買い始めたのはいいけれど……と、最初の方に配本された巻は発行部数も多いのですが、次第に買い揃えるのをやめたり、忘れたりで、売れ行きが落ちてきます。それに合わせて発行部数を減らさざるを得なくなります。最終回の配本は、最初に比べると、かなり部数が落ちることがあります。
それを後になってから、全巻揃いで買わずに、1冊ずつ買い集めていくのは、古本屋巡りの楽しいところでもありますが、最終回配本の巻の数が少ないわけですから、探しても見つけにくいのは当然です。その探しにくい巻を「キキメ」と呼びます。

全集で読もうと思って全巻揃いの値段を見て、あまりに高いので、その隣に「○巻1冊欠」という、揃っている全集に比べると、かなり安いものがあったときに、「1冊ぐらいあとから探せばいいから、安いほうを買おう」と、つい思ってしまいます。
ところが、その欠けているのが「キキメ」だと、せどり屋が鵜の目鷹の目で探しているわけですから、よほどの幸運に恵まれない限り、見つけることは出来ません。
せどり屋が狙うのは全集のキキメだけではなく、有名作家が無名時代に別のペンネームで出版した本、いったんは世に出たけれども、さまざまな理由で回収あるいは発売禁止になった本、市販本とは別に何かの記念で配られた本など、世の中に出回る絶対数が少ないものがありがたがられる傾向にあります。情報に精通すればするほど、面白く、奥行きのある「仕事」ですね。