サイババが帰って来るよ

Count down to the Golden age

忠告と批判

2018-11-22 04:00:47 | 日記
カルマを支払い、奉仕や霊性修行を行う上で、あなたは様々な困難に出合います。
しかし、それはあなたが生きているこの世界では自然なことです。
この世界には善と悪、喜びと悲しみ、光と影といったように二面性を持っています。
それらのことにあまり重きを置かないようにしなさい。
あなたに降りかかるものを、あなたの義務として神への祈りと共に受け入れることです。
そしてその結果については神の御手にゆだねなさい。SS11/1996

ポニョ:今日の記事は、相棒がネガティヴやからと言って、以前、削除した記事やけれど、明日降誕祭やし、せっかく書いたので少し手直しして勝手に公開しますね。

ポニョ:サイババさんは、人の話を聞いても、本を読んでも、常に自分の頭で考えるようにしなさい。そのまま受け入れてはいけないと言われているやろ。だからこも前、自己分析の話をしたけれど、まだ腑に落ちない点があるんやぜよ。
フィリスクリスタルさんが、「私たちは自分の問題に取り組むべきであり、他の人を批判すべきではありません。自分以外の誰かを変えることはできないのです。変えられると思うかもしれませんが、その変化は長続きしません。
その相手は、あなたを喜ばせるために、善い振る舞いをしてみせるかもしれません。でも、変わりません。あなたがその人に変わるようにと言っても、変わりません。あなたが変えることができるのは自分だけです。」
と言われたけれど、このコメントを読んでおいらが思い出したのは、ドゥロパティがカウラヴァ兄弟に長い髪を掴まれて、サリーを剥ぎ取られそうなった時に、カウラヴァ兄弟の宮殿に仕えているドローナやビシュマなどは何もせずに指を食わえて見ていただけやったやろ。
サイババさんは、目の前で悪事を働いているのに、それを見て見ぬ振りをするのは、自分もその悪事を働いているのと同じ罪を犯している事になると言われたやろ。
だから、その時の正しい行動は、ドゥロパティを辱めているカウラヴァ兄弟を批判するのではないけれど、その行為は間違っているので止めなさいと言うべきやったんや。
だから、さっきの例に戻るけれど、自分の目の前で、アシュラムの規則を破りまくっている帰依者がいるのであれば、その人を批判するのではなく、その人に直接、「あなたはアシュラムの規則を破っていますよ。それは間違った行為です」と言う義務があるんじゃないのかな。
だって、その帰依者はただ単なる無知で、何も知らずに規則を破っている場合もあるやろ。

ヨシオ:それは俺も正しいと思う。でも何でここで変なカエルの画像が貼り付けてあるんや?俺だったら、今ポニョが言ったようにするやろな。そして、その人に注意するのがアシュラムの平安を守る為に、同じアシュラムに滞在している者の義務やと思う。
その人がどんな規則を破ったのかを、具体的にフィリスさんは述べていないけれど、例えて言えば、その人がアシュラムの中でタバコを吸ったり、酒を飲んだり、異性の帰依者にストーカーしたり、賭け事をしたり、列の横入りをしたり、キャンティーンで食べた後、自分の皿をテーブルに置いたまま去ったり、人から金を借りて返さなかったりした帰依者を、俺は今まで何人も見て来ているんや。
その間違った規則破りの行為を目の前で見る度に、俺は怖い顔をして、「おい君!何をやってるんや?それは間違った行為や。規則を破ったらいかん。」と言って注意したな。すると大抵の帰依者はすぐにその行為を改めていたな。

ポニョ:別に怖い顔をしなくても、自然体でやればええやんか。元々が怖い顔やから。

ヨシオ:うるさいっちゅうに。でもたまには俺の言った事を無視する輩がいるけれど、俺はもう自分の義務が終わったので、全然その人の間違った行為を気にしないんや。でも、その規則を破っている帰依者に対して、そういう忠告をしていると思うで。

ポニョ:そうやったらええけど。おいらはあんたみたいにドスの効いた声を出せないけれど、それでも目の前で間違った行為を見たら注意するぜよ。それが帰依者としての義務やぜよ。

ヨシオ:サイババさんも、目の前で帰依者が間違った行為をしているのを、何もせずに黙って見ているのはハッピーじゃないやろな。
ただ、その人に直接注意する勇気が無いのに、陰でこそこそと批判するのは間違っているやろな。俺は、その帰依者に注意したり、アドバイスした後は、飄々として我関せずの態度を取るけれど。でも一言苦言を呈するのは大切や。それは帰依者としてのダルマや。
サイババさんも、そういう規則という規則を破りまくって、他の人に迷惑をかける帰依者をわざとアシュラムに創りだして、一人ひとりの帰依者が、そのトラブルメーカーに対して、ダルマをするかどうかをテストされているんや。だから、俺たちはそのテストに合格しなくてはいけないんや。

ポニョ:フィリスさんの本を読んで気付いたのは、この前、あんたは西洋人は他人の事に無関心な代わりに、他人に嫉妬心を抱くことも少ないという話をしたやろ。サイババさんも、そのように講話でおっしゃっているし。
そのような、西洋人独特の個人主義的な価値観が、おいらには受け入れられないぜよ。

ヨシオ:フィリスさんは、人は自分の問題に取り組むべきであり、他の人を批判すべきではないという事を言いたかっただけやから。

ポニョ:人を批判する事と、アドバイスする事は違うぜよ。おいらが言いたい事は、自分以外の問題は全然関与せず、見て見ぬ振りをする西洋人的な考え方は良くないと言っているんやぜよ。
特にフィリスさんのように、世界中のサイの組織を飛び回って講演されていた人が、そういう誤解を生むような事を言われると黙っていられなくなるんや。サイの帰依者の間に与える影響が大きいぜよ。
フィリスさんは、「自分以外の誰かを変えることはできないのです。変えられると思うかもしれませんが、その変化は長続きしません。
その相手は、あなたを喜ばせるために、善い振る舞いをしてみせるかもしれません。でも、変わりません。あなたがその人に変わるようにと言っても、変わりません。あなたが変えることができるのは自分だけです。」と言われているけれど、だからどうすればええんや?というところまで言及されていないやろ。
敢えてその続きを言えば、こういう話になるんやぜよ。「あなたが変えようとしても、人は変わりません。あなたがその人に変わるようにと言っても、変わりません。あなたが変えることができるのは自分だけです。だから、他の人がどんな事をしてもあなたには、その人に対して何も出来ないし、しても無駄なのです。だからあなたが何を見ても、聞いても、それを見て見ぬ振りをしなさい。あなたには関係無い事だし、あなたが何を言っても、その人に一切影響を与えられないのです。」という言葉が後に続くんやろ。それを言わないところが受け入れられないし、ずるいぜよ。だいたいそんな事を一言もサイババさんは言われていないぜよ。
サイババさんの教えって、人の間違った行為をただ見て何もしないと、あなたもその罪を負うことになるよ。だから、目の前で人が誤った行為や言葉を発すれば、それを正すのがあなたの義務ですよ。それによって、その人がその忠告を聞き、自らを正して行くかどうかは、その人と神の問題ですよ。でもあなたは、その人に忠告する義務がありますよやろ。

ヨシオ:人の忠告によって、その人が間違いに気づき、それを正そうとするけれど、また少ししたら過ちを犯し始めるとか、忠告を聞いて良い子ぶっているだけとか、一時的に良くなっても、すぐの元の木阿弥になるとかは、忠告した人にとっては、どっちでもええ事なんや。
その人がダルマに基づいた行為をするかどうかだけが問題なんや。
クリシュナがクルクシェートラの戦いの前に、カウラヴァーズ兄弟たちに、この戦いはやめたほうが良いと進言しに言ったやろ。
でも彼らは自分たちの勢力が大きくパンダヴァーズを上回っているので、簡単に勝てると信じてクリシュナの言う事を聞かずに大戦争に突入したんや。
結果はクリシュナが付いているパンダヴァーズの大勝利やったんや。このように、カウラヴァーズに進言してもそれを断られると分かっていても、クリシュナは神として最後の最後まで和解に持ち込もうとする義務があったので、進言しに行ったんや。
進言して相手が言う事を聞かなかったら、それは相手の問題やから。でもダルマをする必要はあるんや。

ポニョ:なのに、最終的に人は他の人に変化を期待出来ないので、他の人の事には一切関与しないで放っておきましょう、というフィリスさんの言葉は、西洋人独特の個人主義が出ている言葉やぜよ。さっきから何度も言うけれど、おいらにはちょっと受け入れられないぜよ。
だっておいらのバックボーンは宮沢賢治の「世界全体が幸せにならない限り、個人の幸せはあり得ない」なんやから。

自分以外の人を変えられないのであれば、どうしてグルや聖者が必要なんや?どうしてフィリスさんは、ハイヤーセルフに導かれた生活をしましょうとその著書で訴えておられるんや?
一人ひとりの帰依者が、他の全ての帰依者だけではなく、全ての生きとし生けるもの達のことを、自分の身内のように愛して、神の方に一緒に歩んで行くというのがヴェーダの教えじゃないのか?
もちろん、霊的な法則では、全ての生きとし生けるものは繋がっているという事なので、自分自身が変われば他人も変わるけれど、最初から他人に対する働きかけは意味がない、と言って切って捨てるような考え方は受け入れられないぜよ。
あんたは、以前オーストラリア人は嫉妬心や妬みの心が少ないって褒めていたけれど、もちろん嫉妬心や妬みの心は悪いのは百も承知やぜよ。
でもその嫉妬心や妬みが、人の心の中に浮かんで来るちょっと前の心の状態は、自分もあんな風になりたいな、自分もあんなものが欲しいなという向上心を育む心の裏返しなんやぜよ。
だから、それが勢い余って、自分が得られないものを所有している人を批判したり、攻撃し始めるのが嫉妬心や妬みやけれど、そのちょっと手前の嫉妬心や妬みの心が湧いて来る心の動きは、その人が、「それを僕も手に入れるために向上しよう、もっと努力して頑張ろうと」いう気持ちが湧いて来るという意味でとても大切なんや。

おいらは別にフィリスさんを批判したり、嫉妬心や妬みの心が良いと言っているわけじゃないんやぜよ。西洋人独特の個人主義的な考え方は、他人は他人。僕には全然関係無いし、関心も無いなという態度やろ。それでは向上心が湧いて来ないばかりではなく、自分さえ良ければそれで良い、自分がハッピーだったらそれで良いという自己中で、自分を甘やかすバシャール的な享楽主義的な考え方に繋がっていくような感じがするぜよ。だから西洋諸国にヒッピーがたくさん現れたんや。

サイババさんは、この世で幸せになりたかったら、自分がしなければいけない義務を好きになりなさいと言っておられるやろ。結婚したら浮気せず妻や子供、老いた両親の面倒を見る。そしてしっかり稼いだお金を家に入れる。ギャンブルはしない。
子供だったらしっかりと勉強やスポーツに打ち込む。そして親や祖父母を大事にし、少しでも彼らをハッピーにさす為に両親の言う事をよく聞いて、手伝いやお掃除なども手伝う。とにかく人が生きて行く上で、たくさんの義務が人生で待っているんやぜよ。享楽主義的な考えを持っていたら、絶対にそういうサイババさんの、自分がしなければいけない義務を好きになるのが幸せの秘密だという教えは受け入れられないやろな。
おいらもあんたのアクアポニックスを作るのを手伝った時に、何ヶ月かオーストラリアに滞在したけれど、若者の目にギラギラしたものは見えなかったぜよ。あれは人間羊の目やった。
全然仕事もせず、ドラッグに身を持ち崩し、毎日、ビーチに行ってビールを飲んで盛りのついた野良犬のように異性を探し求め、政府からの手当てで生活している若者がどれだけいるか?さすが女王陛下の国やぜよ。きちんと飼い慣らしてある。

ヨシオ:まあ、そう言われればそうかもしれないけれど、そういう若者が大多数を占めているわけではないで。今日はポニョの愚痴を聞いていて思ったけれど、ポニョは還暦を過ぎて少し愚痴っぽくなって来たな。
俺がポニョに期待したお爺ちゃん像は、何事も受け入れてニコニコし、仙人のように好々爺としているポニョやったけれどな。

ポニョ:これから世界が人類が今までの歴史で経験していないような、大艱難が起こるというのに、好々爺としていられるわけがないぜよ。あんたは、オーストラリアの地の果てで、一人で好々爺として果てなさい。でもそのコワモテじゃ好々爺は無理やぜよ。

ヨシオ:じゃかーしい。

自分の義務を果たし、その結果は神に委ねなさい。
神に、これをしてください、あれをしてください、と祈るのは、弱さの表れです。
もし、あなたに神への完全な信仰があるなら、あなたの心は必ず変容します。
ババの役割はあなたの心を変えることではなく、あなたをあなたの行為の結果から救い出すことです。
誰も皆、この真理を認識し、それに従って行動しなさい。
手始めに、自分の欠点をなくし、帰依心を強めて、固く、揺るぎのないものにしなさい。
それは、万人がなすべき努力です。
そうすれば、あなたは神の恩寵を得るでしょう。
霊的叡智の道を横切るこの真理の小道に入って、あなたを神に融合させなさい。6/10/92