ラヂオアクティヴィティ[Ra.] 第二部・国境なき恐怖 126核兵器に恐怖し増産するおぞましき時代 ![]() 「大きくくねったコロンビア川を境に、ジャガイモ畑の緑が消え、岩と土だけの砂漠。小高い山の向こうに、千六〇〇平方キロという広大な荒野が広がり、川にそって煙突、ビル郡が続く。原子炉は合わせて九基を数える。四方は険しい山に囲まれ。「どこからも遮断された地形であること」、これがハンフォードが選ばれた理由でした」 マイクがテレビで語った。 次は勇気だ。 「ここはかつて人口千二百人の小さな村でした。そこを軍が接収し、一九四三年から極秘のうちにプルトニウム製造工場の建設が始まりました。ピーク時には五万一千人もの技術者や労働者が、原爆用プルトニウムの生産に携わったのです」 テレビの前、お茶の間で。 「おじいさん、孫の勇気でしたよ」 「立派になったものじゃなあ」 と、祖父母は感激している。 テレビ画面では、次々に子どもたちは入れ代わって説明するのだが、それにあわせて、背景に写真が映っている。 「秘密工場と呼ぶには、あまりにも壮大な規模である。西端にB原子炉がある。二本の円い塔が銀色に光り、灰色の五つの建屋が群がる。それが長崎の原爆『ファットマン』のプルトニウムを生んだ原子炉です」 「ハンフォードの任務はファットマン以後も続いた。戦後、冷戦の激化とともにプルトニウムの需要は増し、増設に次ぐ増設で米核戦略を支えた。B炉が止まったのは一九六八年である。そして必要なプルトニウムをたっぷり蓄えたハンフォードは、一九八六年のN炉を最後に全炉停止させたのです」 イワンがテレビに映っている。 「ソ連最初の核施設の建設責任者は、スターリンの忠僕であった当時の秘密警察長官ラブレンチイ・パブロビチ・ベリヤです。彼は血まみれの死刑執行人としてロシアでつねに語り草になる人物です。スターリンが七十歳の誕生日を迎える年。ベリヤはスターリンの誕生プレゼントに、原爆を贈ろうとしました。そのため、ベリヤは学者たちの尻を叩き、スターリンの誕生日に間に合わせたのです」 「アメリカの原爆製造は軍事機密でした。秘密資料に一行だけあった「一九四九年にグリーン・ラン実施……」という暗号のような記述の解明をしようとした人がいました」 ミス・ホームズはブルーの美しい目をきらっと光られた。 「しかし何か重大な実験らしい、としか分かりませんでした。「国防」を盾に資料公開を拒否されました。行き詰まったスチール記者は、情報公開法に基づいて「公表」を求める裁判を起こしました」 ミス・ホームズにかわり、弁護士が登場し原稿を読む。 「一年半の審理の結果「勝訴」の判決を得て、やっと手に入れた「極秘」の印がある百二十六ページの資料は、彼女の想像を超える内容でした。「原子炉から取り出した燃料棒から、故意に放射能を放出……」これが「グリーン・ラン」と呼ばれる極秘実験の正体だったのです。一九八九年五月四日、スチール記者のスクープが再び朝刊を飾りました。執念の追跡は連邦議会を動かし、核工場周辺住民の健康調査がその秋から始まりました。放射能を故意に放出した「グリーン・ラン」実験とは何だったのでしょう?公表された極秘資料から、一九四九年の「グリーン・ラン」をたどってみると……」 ミス・ホームズに替わる。 「十二月二日夕、通常の冷却期間の五分の一、十六日間しか冷やしていないウラン燃料棒を冷却槽から取り出す。二日深夜、放射能の放出実験開始。三日午前五時頃、実験終了。工場周辺から「警戒基準以上の放射能検出」の情報相次ぐ。核工場の南、パスコに住むゴードン・ロジャーズさんは、実験にかかわった科学者の一人です。彼が明かした「グリーン・ラン」の目的、それは「ソ連の原爆情報をつかむため」という衝撃的なものでした。ソ連が初の原爆実験に成功したのが、一九四九年八月で、この時点で米国の核独占は終わりを告げました。「わが国はソ連の開発状況を常に把握しておかねばならない。そのため、ソ連と同じやり方を試しておく必要があった」とロジャーズさんは発言しました」 弁護士「米国のウラン燃料棒の冷却期間は、当時平均九十日でした。ヨウ素131(半減期八日)の放出を少なくするためには、それくらい冷やしてプルトニウム製造工場に移した方がよいと考えていました。ところがソ連はわずか十六日しか冷却しなかった。「開発を急ぐあまり、期間を大幅に縮めたらしい」。十分に冷えていない「青い燃料」という意味から、この追試実験は「グリーン・ラン」と呼ばれた」
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