磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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赤岩栄著作集 3 神を探ねて 人間・この逆説的なるもの

2008年12月19日 | 読書日記など
『赤岩栄著作集 3 神を探ねて 人間・この逆説的なるもの』
   赤岩栄・著/教文館1971年

「神を探ねて」1949年、アテネ文庫、弘文堂
「人間・この逆説的なるもの」1984年、沙羅書房



この本も、さほど、他の新教の人が書くのと異るところはないと思います。
--以前に読んだ本に似ているといえば、そうです。

こういう本には、谷町さんといおうか、信者の方もついているわけで、一般書とはかなり異ると思います。

それがいいのか、悪いのか?

たいてい、その世界で通じることだけだったりすると、無関係な私には思います。

ある神学校のことについて、こう書かれてあります。下「」引用。

「この学校での一年は、実に愚劣な浪費ということにつきている。神学生たちも、全く、屑の屑だ。何の才能もない、働くことの嫌いな怠け者が、天井にぶら下っている蝙蝠のような生活を志願して、スカラーシップを目的に、ここにやって来るのだ。牧師をつる神学校というよりは、ルンペンをつくる学校と言った方がよいのではないかと思う。事実、牧師になる率よりも、ルンペンになる率の方が、ずっと上廻っているのである。宣教師たちは、こうした学校を、彼等の生活の手段としてしか私には思われなかった。-略-
 東京の神学校は、日本人だけで経営されている日本唯一の神学校であった。ここでは、好学の精神、伝道の使命が高揚していた。-略-」

ルンペンと牧師……。
--イエスの団体はどちらかといって、どっちなんでしょうか?
聖書のなかでのイエスの弟子、偉い人たちでもなければ、会員制の団体にも属されていませんね。
--神殿に行くことがあっても、そこは日本の神道と同じで、会員制ではなかったと思う。

生活の手段、社会運動の手段……。
--どれも、大切なものでしょうし、著者もカスミを食って生きていたわけではないでしょうね……。

ソクラテスとイエスの死を比較。下「」引用。

「しかしイエスの死は人間のヒューマニティの地平を遥かに越えた死であった。奴隷の死よりも痛ましい罪人の死であった。その最愛の弟子さえこのイエスを否み、棄てなければならないような死をイエスは死んだのである。イエスはその死において人間の悲惨のどん底にまで降りていった。その死が人間の現罪を担いそれを取除く底の死であったからだ。-略-人はイエスのために喜んで死ぬことがでるき。」

痛ましいというのは、感情がはいり、同一になっているからではないでしようか?
--もちろん、それが悪いとは書いていませんが……。

原爆の被害者と、イエスの十字架、さてどちらが悲惨だったか……。
--よく書かれていることですが……。
イエスはどん底にまでいったのでしょうか?
どうして、わかるのでしょうか?

ボンヘッファーはこんなことを言っていたと思う。
イエスは私の時はまだ来ていないという……。
--奇蹟に満ちあふれときに……。
そして、十字架で彼の時がきた……。
--神の栄光とはそこにあったということ……。
それは、神の国での父なる神の姿であったという。

--これほどの至福の姿もないという人たちもいます。

さて、どちらが本当なのでしょうか?

神を忘れた神の人たちは、多くの宗教でいますね。
自らの欲望を神としてしまった人たち……。
権威主義的になってしまう人たち……。
それはどの宗教団体にもあることですね。
--それと、ボンヘッファーのこの考えとは異ると思う……。







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