スヌスムムリクの生々流転日記

過ぎ行く日々の風景(2012.5.4~)ご訪問ありがとうございます。

素盞雄神社「南千住富士」

2013-09-23 22:00:00 | 富士塚

富士塚No.47

連休最終日、前回、石浜神社からここまで足を延ばす予定だったのですが暑さと疲れで断念したので気になっていた素盞雄神社に行ってきました。

所在地:東京都荒川区南千住6-60-1

由緒

小塚原・三ノ輪・下谷通新町・三河島・町 屋など、区内で最も広い地域を氏子圏とす る鎮守で、「てんのうさま 」とも呼ばれ る。 石を神として尊崇する信仰は全国各地にみ られるもので、当社も石神信仰に基づく縁 起を有する。延暦14年(795)、荊石が微妙 な光を放ち、その光のうちに翁の姿をした ニ神(素戔雄命、事代主命)が現れて神託 を告げたという。そのためその石は「瑞光石」と呼ばれ、出現したニ神を祭神として 祀る。 宝暦年間頃(1751-64)まで行われていたと いう千住大橋綱曳は、その年の吉凶を占う 当社の神事で、「東都歳時記」にその雄壮 な様が描かれている。(境内掲示より)

日光街道側鳥居

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正面鳥居

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神楽殿横に出る鳥居

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拝殿

しかし、立派な神社です。狛犬も立派ですね。「素盞雄神社」の文字も立派で好きです。

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神楽殿

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左から福徳稲荷神社、菅原神社、稲荷神社

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地蔵堂と庚申塔

文政12年(1829)年編纂「江戸名所図会」には境内に「ちそう(地蔵)」として、この地蔵堂の様子が描かれています。
 これは地蔵を中心とした江戸時代の庚申塔三基・宝篋印塔一基などからなる石塔群です。  庚申とは一年に6回巡ってくる干支の「庚申(かのえさる)」のことで、この日には人の体内にいる<三尸の虫>が眠っている間にその人の罪を天帝に告げてしまうために、徹夜して夜を過ごす庚申待の習俗が行われ、人々は講を形成して寄り合い、三年間で計18回の庚申待を行うと諸願成就するといわれ、その記念に建立されたのが庚申塔です。
 当社の延宝6年(1678)庚申塔には、人の罪を<見ざる・言わざる・聞かざる>として三匹の猿と、早く朝が来るようにと二羽の鶏が刻まれています。(境内掲示)

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境内

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飛鳥の杜

<あすかのもり>と読みます。
 母乳の出ない婦人がその皮を煎じて飲み、周囲に米の研ぎ汁を撒いて幼児の無事成長を祈願した「子育ての銀杏」をはじめ樹齢五・六百年という大イチョウ。 4月8日「御創建疫神祭」桃の御守に因む一重八重、紅や白の桃の木々。このように瑞光石を中心に樹木が生い繁り、四季折々の変化をみせるこの境内を「飛鳥の杜」と言います。
 現在では「お天王さま」と親しまれている当社ですが、風雅を好む江戸の文人たちには「飛鳥さま」の名が好まれ、当時の名所案内はこの境内を「飛鳥の杜」と紹介しています。(境内掲示)

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鯉が泳いでいる池ですけど千住おおはしの文字が。

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ちょうど龍のお口から出ている水の落下地点にいかだを漕ぐ船頭さんの人形があります。

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松尾芭蕉の碑

松尾芭蕉「奥の細道」矢立初めとなった有名な一節です。
文政3年(1820)10月12日の芭蕉忌に際し、俳聖「芭蕉」を偲び、江戸随一の儒学者で書家としても高名な亀田鵬斎が銘文を、文人画壇の重鎮である谷文晁の弟子で大川(現:隅田川)の対岸関屋在住の建部巣兆が座像を手がけるなど、千住宿に集う文人達により建てられました。
 建碑以来百七十有余年、永年の風雨により剥落損傷が激しく判読できぬ為に、平成7年当社御鎮座1200年祭に際し復刻し、これを契機に「奥の細道矢立て始めの俳句大会」が毎年春に開催されています。(境内掲示)

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浅間神社と瑞光石

御祭神すさのお大神・あすか大神が光を放ち降臨した小塚の中の奇岩を「瑞光石」と言います。
  文政12年(1829)編纂の「江戸近郊道しるべ」には、千住大橋架橋の際、この瑞光石の根が大川(現隅田川)まで延びていた為に橋脚が打ち込めなかったという伝承が紹介されています。
 この小塚から「小塚原」の地名が起こり、「江戸名所図会」には「飛鳥社小塚原天王宮」と紹介され、弁天様を祀る御手洗池・茶屋など当時の情景をも窺うことができます。
 尚、現在の周辺小学校の名称に冠された「瑞光」もこの瑞光石に因むものです。
 元治元年(1864)には富士塚を築き浅間神社を祀り、門前の茶店では疫病除けの麦藁の蛇が土産に売られるなど、富士参りの参詣者で賑わいました。(境内掲示)

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残念ながら富士塚には登れないように竹で入口を封鎖してあります。

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反時計回りに周りから眺めてみました。荒川区の説明書きと富士塚の碑が立っています。

東側から。かなり草木が生い茂っています。

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裏手から。富士塚独特の石碑がたくさんあります。

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実は何年か前に訪れた際は富士塚というものの存在を知らなかったのでただ撮影しただけでした。

山頂の祠。

 


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