ニュース雑記帳

日々のニュースからテーマを拾い雑考してます

竹島問題

2006-04-20 16:51:48 | Weblog
やっぱり、今日はこれが一番のニュースかなぁ。でも、領土問題は・・・う~ん、難しいなぁ。大きな問題だとは思うんだけど、自分の態度が決まってないので、書き込みし難いのですよ、正直なところ。

まっ、みなさん、この問題については、よくご存知とは思いますが、一応、まとめたものを付けておきます。よかったら、見てみてください。で、違うところがあったら、違うよって教えてくださいね。わたしも、ちゃんと理解してるわけじゃないから。それに、できるだけ公正にと思ったけれど、それが出来ているかどうかも分からないし。

とにかく、この問題は、竹島と鬱陵島を一体と考えるか、別物と考えるかってことに尽きるかもしれません。韓国は一体だと考えているから、鬱陵島同様竹島(独島)も韓国領だと言っているのだろうし、日本は別物だと考えるから「漁に使ってきた実績があるから我が国のもの」と主張して憚らないわけでしょ。ああ、なんか微妙。

となると、わたしは、国際司法裁判所(ICJ)にジャッジしてもらえばいいと思うんだけど、どうして韓国は応じないのかな。公正な判断がされないと思う、何かがあるのかなぁ。

とにかく、死者まで出ている問題だし、きっと、これからまた凄く揉めるし、絶対に当事者同士じゃ無理だと思うんだけど・・・韓国は、どういう見通しをつけているのかな。このままだと、日韓の関係は悪化するだけだし、日本の猟師さんたちが襲われたりするの黙っていられないし、韓国の抗議活動はエキセントリックだから韓国人の人にも死者や怪我人が出ないとも限らないし・・・もう、第三者に判断してもらうしかないと思うのだけどなあ。

【竹島基本情報】
日本国の認識では、竹島は島根県隠岐郡隠岐の島町の島の一つです。隠岐島から北西約157Km、韓国の鬱陵島(うつりょうとう)からは約92Kmの位置(北緯37度9分30秒、東経131度55分)にあります。島は2つの小島(西島、東島と呼ばれる)と、これを取り囲む数十の岩礁で構成されています。面積は全てを合わせても約0.2平方kmで、日比谷公園ほどの大きさしかないそうです。

【竹島をめぐる歴史と日韓の認識の違い】
問題となっている竹島のすぐ側に位置する鬱陵島は西暦512年以来、韓国の支配下にあったそうです。が、1438年に、李氏朝鮮が渡航禁止命令を出し、この命令は1881年まで続いたそうです。なぜ、李氏朝鮮政府が無人島政策を実施したかは、税金逃れのため島に渡る人が後を断たなかったから、それを防止するためと、倭寇の襲撃が激しかったので、島民を守らんがためという二つの理由があったようです。
そして、鬱陵島が無人になっていた17世紀初頭、伯耆国(ほうきこく、今の鳥取県)米子の海運業者だった大谷甚吉が、航海中に暴風に遭い鬱陵島に漂着したそうです。彼は、鬱陵島を新島だと思い、一度帰国してから、1616年に江戸幕府から正式な渡航許可を受けて、村川市兵衛という人と一緒に、再度鬱陵島に渡りました。そして、この島を「竹島(鬱陵島)」と呼び、その後78年間にわたって毎年交替で島に渡り、アシカ猟やアワビの採取や木材の伐採などを行いました。
松島(竹島)は、竹島(鬱陵島)へ渡るコースの途中にある本当に小さな島でした。大谷&村川両家は、松島(竹島)を竹島(鬱陵島)へ行くための寄港地として、またアシカ猟の基地としても使用しました。
が、1692年に、大谷&村川両家が、竹島(鬱陵島)で朝鮮人に遭遇します。人数的に相手の方が多かったため、不利を感じた両家は、すぐに引き揚げて鳥取藩に報告したのですが、鳥取藩は定住しているわけじゃないようだし問題ないと判断したようです。が、翌年、両家が竹島(鬱陵島)に行くと、また朝鮮人がいたので、そのうち二名を米子に同行してきました。鳥取藩は幕府に、朝鮮人が竹島(鬱陵島)に来ないようにと朝鮮国に申し入れしてくれと頼みます。で、幕府は、対馬藩の宗氏をつうじて朝鮮人の竹島(鬱陵島)への出漁禁止を朝鮮に申し入れました。日本の申し入れに対して、朝鮮は当初、日本との友好を重んじ穏便に解決をはかる方針で交渉に臨んでいたのですが、交渉が長引く間に方針が強硬路線に変わってきました。そして1695年に、竹島(鬱陵島)は朝鮮領に属すると対馬藩へ文書を送ってきたのです。それを見た幕府は、検討の末に竹島(鬱陵島)を放棄することにします。以降、この竹島(鬱陵島)に関しては、日本政府も韓国政府も、ともに韓国領だという認識を変えていません。が、その側の松島だった竹島に関して、今、揉めに揉めているわけですね。
再び、鬱陵島および竹島(松島だった今の竹島)が取り上げられるのは、明治になってからです。が、この頃には、外国で作られた地図がどんどん流入してきて、極東アジアの海図は混乱していました。島の名前の認識なども、ぐちゃぐちゃだったようです。明治政府は、このころ盛んに提出された「松島開拓願」を受けて、「松島」という島の所在を確かめようとしたようですが、明治13年の実地調査で、江戸時代に問題になった竹島(鬱陵島)のことだと理解してたようです。それだと韓国のものだと判断されました。
が、日露戦争の頃に、日本政府の松島(竹島)への認識が変わります。日露戦争の時局柄、日本にとって松島(竹島)は軍事的に必要なものとなったのだという主張もありますが、公式には、あくまでも一漁師の松島(竹島)の「貸下願」に答えたものとなっています。明治維新以後、外に向かって活動をはじめた日本人たちは、当時もまだ無人だった竹島(鬱陵島)にも、どんどんと渡航するようになりました。それに対し、朝鮮政府が、1881年に日本人の渡航禁止を日本政府に申し入れ、1883年には日本政府も島内の日本人を強制帰国させるのですが、日本人の無断渡航は途絶えることはなく、ついに竹島(鬱陵島)には日本人警官が常駐するまでになりました。それと同時に、竹島(鬱陵島)への途中航路に当たるリアンクール島(松島)がアシカ漁の基地港として注目されるようになりました。そのような状況の下で、漁師の中井養三郎が同島におけるアシカ猟の独占を狙って、1904年9月二25日に「りゃんこ島(リアンクール島=松島)領土編入並ニ貸下願」を内務・外務・農商務の三省に提出します。その結果、リアンクール島の領土編入が閣議によって了承され、島名も竹島と決定され、1905年には島根県に編入されました。
が、このときの日本政府の思惑というのが、今の竹島問題をさらに混乱させています。というのも、このときの日本政府の決定は、表向きは中井という猟師の願いを聞き入れてということになっていますが、実際は日露戦を睨んだ軍事上の要求に沿ったものだったという解釈があるからです。
竹島問題の一番のすれ違いは「竹島(各国では独島)は日本も韓国の領土と認めている鬱陵島と一体だ」と考える韓国と、「鬱陵島は鬱陵島、竹島は竹島。韓国は竹島を運用してこなかったけど、日本は昔から竹島をアシカ漁の拠点にしてきた実績があるじゃないか」というものだけれど、それとは別に韓国にはカイロ条約を守れという主張があるのです。
第二次世界大戦後、GHQによって、竹島も沖縄や小笠原諸島と同様に、日本の行政権から外されたわけですが、サンフランシスコ講和条約によって日本に返されたと理解する日本と、カイロ条約(武力で無理やり奪った領地は元の持ち主へ戻す)を守るなら我々に戻されるはずだと主張する韓国とが、真っ向から対立しているのです。自国の猟師の要請を受け、無主地であった竹島を管理し自国領としたという日本にとっては、講和条約による竹島返還は当たり前のことですが、軍事目的で韓国領であったものを無理やり占領したと主張する韓国にとってはカイロ条約にしたがって韓国に返還されるべきものだということになるわけです。
と、これが大まかな、竹島問題の経緯であります。