彩彩日記 作詞家/シンガーソングライター 大塚利恵のブログ

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7年目の3月11日

2018-03-11 14:15:53 | 地震
静かな日曜日、明るい青空。7年目の今日は、自宅の窓辺で黙祷しました。
震災時住んでいた部屋からは一昨年引っ越して、日差しが入りやすくなったせいもあると思うけど、それでもあの日より随分暖かい気がします。
いろいろなことを思い返しながら、祈りを込めながら黙祷していると、あっという間に時間が過ぎていてびっくりします。

昨年は映画「純愛 -JUN-AI-」との衝撃的な出会いがあり、その上映会内での黙祷でした。
人と人を繋ぐ奇跡の映画「純愛」パワーをいただき、この一年は震えるくらいの数々の素晴らしい出会いがありました。
例えば童謡100年プロジェクトの方々もそう。
つながった方々とのご縁に感謝して、これから自分の本来の役目を果たすべくまっすぐやっていこうと、視界が開けたような一年でした。

震災で大きく意識が変わったことが、この様なご縁につながっていると思います。

まだまだ問題は山積みの日本、そして世界だけど、改めて7年前と比べてみると、いろんなことが変わってきているとわかります。
7年前には想像もできなかったことが当たり前になっていたりもする。
何かが叶う時って「叶ったー!」ってパンパカパーンなイメージがあるけど、実際ほとんどのことは、着実にコツコツ、願い、粘り強く行動する人の力で静かに達成されるのだなと思います。
私はちゃんと生きれてるんだろうか、と、落ち込むことも相変わらず多いけれど、他人だけでなく自分を責めることもやめようと思ったのも震災の時でした。
それは何にもならないから。

「誰も責めないことから始まる希望がある。」
あの時降りてきた言葉は、今も毎日のように唱える瞬間があって、今や私の座右の銘となっています。


先日ブログに書きましたが、今月頭、童謡100年プロジェクト主催の、野口雨情生家などを巡る北茨城バスツアーに同乗してきました。
実家のある平潟町、平潟港の目の前でランチだったのですが、初めて北茨城を訪れた参加者の方々と話すと、やはり震災の話になりました。
この港は大丈夫だったの?ご実家は?という質問に答えながら、ずいぶん変わってしまった港の昔の様子、甚大な被害を受けたすぐ向こう側の東地区のこと、津波で亡くなった町内の方のこと、自分が思う以上に伝えたい自分がいて驚きました。


2012年発刊の「きたいばらき震災記」。
北茨城市民の手で編集された、市民一人一人のありのままの震災の記録。
うちの母も編集委員を務め、私も故郷を思う一人として寄稿させてもらいました。
編集委員の及川さんが、当時の新聞記事をSNSにアップしてくださいました。
編集の際は、なるべく手を加えないように、例えば「角の◯◯ちゃん」(角の所の家の◯◯ちゃん)みたいな地元の人にしかわからないような表現も、可能な限りそのままにしたそうです。
当時、編集のエピソードを聞きながら、そういうことってすごく大事だな、と思ったのをよく覚えています。
FMひたちの番組では毎回お一方の記録を読み続けています。

忘れもしない2010年2月28日、前日のチリ地震の影響で、津波が心配される中開局したFMひたち。
翌年の東日本震災時には、スタッフの皆さんが少ない人数で地域のために奮闘されました。
私は番組が続く限り、震災記を読み続けます。


2011年3月11日夜からの、震災関連のブログも、そのまま残していますのでよかったらご覧ください。
震災記より長くてごちゃごちゃなところもありますが、自分でも時々読み返しています。
あの時の現在進行形での出来事、行動、そして年ごとの思いや学び。
カテゴリー「地震」

☆☆こちらが「きたいばらき震災記」。もう増刷されていないので、少しだけアップします。
ラジオ朗読用なので、年季が入ってきています。
目次に◯してあるのは、この6年あまりでお読みした記録です。


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