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彩彩日記 作詞家/シンガーソングライター 大塚利恵のブログ

※こちらは旧ブログです。
新ブログ https://ameblo.jp/rieotsuka-officialblog/

10年目の3.11に。

2021-03-12 00:06:28 | 地震
北茨城の実家に、こんなに長く帰省しなかったのは初めてだと思います。
昨年3月1日、地元で10年担当させていただいたFMひたちの番組が終了しました。その頃もうコロナが広まり始めていましたが、まだ呑気に打ち上げもできたりして。数ヶ月経てばまた地元の温泉に入り、両親といわき(すぐそばが県境で、福島です。)にご飯を食べにも行けるかな、なんて思っていました。
でもそれ以降、帰省は控えています。

震災から10年目の今日は、午前中作詞レッスンの仕事があり、帰宅してメールの返信や家事、母とLINEで話し、そして黙祷しました。

改めて、震災で大事な存在を失ったたくさんの方々に、心から祈りを捧げます。
そして犠牲になった方々のご冥福をお祈りします。


「10年経つと、周りにいる人が変わる」というようなことを、昔聞いたことがあります。
確かに、この10年間で沢山の出会いがあり、別れもありました。
新しい友人知人の中には、私の地元が被災地だということを、知らない人も結構多いと思います。
当時とても親しかったのに疎遠になった人もいるし、ずっと変わらずそばにいてくれている人、互いを思い合える関係の人もいます。
良い悪いではなく、10年経つってそういうことなんだろうと思います。
そして震災があったからこそ繋がった人、絆が深くなった人もいます。
もちろん、被害の大きさを考えれば、震災がなかったら良かったのにと思うけれど。


震災直後、余震や原発事故の影響が懸念された北茨城の実家から、東京を経由し、神奈川在住の作曲家、鎌田雅人さん宅に避難させてもらった猫の「ぴあの」は、話し合いの末そのまま鎌田家の猫となり、他の猫さんたちを含むご家族に愛しに愛してもらって、なんとこの4月で21歳。人間の歳だと100歳になります。
元飼い主として、鎌田家の皆さんには、改めて深く感謝を申し上げます。
ぴあのは世界一幸せな猫です。そして、私は世界一恵まれた元飼い主です。


ここからは、震災の話から離れます。
個人的に、今書かずにいられなくて。長くなるけどすみません。

3月3日に、デビューの頃からずっと私の歌の師匠であり、人生の師匠でもあった、安ますみ先生がお亡くなりになりました。
翌日、生徒仲間から連絡をもらい、昨日10日、告別式で最後のお別れをしてきました。
先生はメディア嫌い(というか、メディアの嘘が嫌い)だったし、ほとんどテレビに出たりはしなかったけれど、間違いなく日本を代表するボイストレーナーでジャズシンガー、そして超一流の文化人でした。
入退院を繰り返しても不死鳥のように蘇り、フルパワーで活動する先生だったから、いまだに信じられないような、信じたくないような気持ちです。

98年7月だったと思います。音楽スタジオの「池袋フォルテ」に、当時の事務所のスタッフさんに連れて行ってもらい、初めて安先生にお会いしました。
初レッスンは確か、デビュー曲の「いいよ。」でした。
「いいよ。」は死がテーマの歌ですが、未熟で不器用な私の歌声からも、この楽曲に込めたものをガシッと受け止めてくださいました。
少し、目を潤ませながらこの歌をじっと聞いて、そして本気の指導をスタートしてくださいました。ズバッと核心しかつかない先生。
深く理解してくださったのがわかり、それがとても嬉しかったです。

真実があやふやにされがちな世界で、安先生は真実の光そのもののような存在でした。だから私もみんなと同様に先生が大好きだし、尊敬していました。

歌を強化するために、弾き語りではないライブを経験させてくださったり、素晴らしいミュージシャンと共演させていただいたりもしました。

その後色々なことがあり、私は先生のレッスンに行かなくなりました。
20代半ば。体も心もボロボロだったので、歌う以前に別な勉強をして自分を立て直す必要を感じたからです。
でも、うまく声が出なくても、ちょっとずつ、先生に教わったことを噛み砕きながら、練習を続けました。

数えきれないほどの生徒さんを持ち、音楽業界では知らない人のいない安先生ですが、そんな私のことまでいつも気にかけてくださいました。
毎年行われていた教会でのチャリティーコンサートに、ピアニストとして誘っていただき、長年参加させてもらいました。
震災をきっかけに他のことに力を注ぎたくなり、辞退させてもらいましたが、毎年本当に濃密な学びの場でした。

また、カルチャースクールのボイストレーニングクラスのピアノ伴奏を、ずっと担当させてもらいました。15年以上かな。
そのグループレッスンに誘ってくださったのは、伴奏のお仕事というのは建前で、安先生が、私の歌の勉強になるように計らってくださったのだという気が、実はしていました。

アドバンスクラスだったこともありますが、90分中85分は歌わずに喋っていたと思います。
これは安先生あるあるで(笑)。
先生のレッスンが精神論と思われると嫌なので書きますが、お話の中で、脳から(凝り固まった考えが)変わり、最後にはちゃんと歌が上達するようになっているんです。
だって、歌は「在り方」だし、自分が楽器だから。もちろん、プラクティカルなレッスンががっつりあった上でのエピソードです。
カルチャースクールで先生に定期的にお会いできたことは、思い返せば宝物のような時間でした。

昨年、コロナ禍で、カルチャースクールは閉校となってしまいました。
でも秋に、別なスタジオでクラスをやるからと伴奏に誘っていただいたのですが、あいにくその日は先約があり、私は最後に先生にお会いするチャンスを逃してしまいました。

最後に電話でお話したのは、昨年10月。
昨年亡くなった先生の愛弟子、狂言師の善竹富太郎くんの話をしました。

2017年に、千駄ヶ谷の国立能楽堂にトミーの公演を観に行った時のこと。
今は亡きヨガ友に「行ってみたいから連れて行って。」と誘われ、一緒に行ったんですが、安先生も観に来ていて、ロビーで立ち話をしました。
何か体の不調の話をしていた先生に、アーユルヴェーダの知恵を勧めた友人。
キョトンと聞いていた安先生。
全然噛み合ってないけれど、なんだか愛のある、二人の不思議な一瞬のやりとり。そのシーンが妙に印象に残りました。
まだ若かったヨガ友とはそれが最後に。
4年後の今、彼女も、あの時舞台で輝いていたトミーも、安先生もあちらの世界に行ってしまったなんて。

当たり前のことなんて何もない。
何がいつ起こるかなんてわからない。
大事なことを後回しにしてる暇はない。
色々、思い知らされます。

安先生の思い出はたくさんあって書ききれないくらいです。
私でさえそうだから、家族のようにずっとそばにいた生徒さんたちはもう、何冊も本が書けると思う。

20年くらい前になるでしょうか。
東京では滅多にない雪の日に、高速があちこち閉鎖されていたのにも関わらず、先生の車で二人、北茨城まで行ったんです。
アンコウ鍋発祥の地である私の故郷に、アンコウ鍋を食べるために。
先生は、細い体でびっくりするくらい食べるし(それでも痩せるくらいエネルギーを使っていた。)ホンモノの美味しいものを食べるためなら、どこへでも出かけるフットワークの持ち主でした。
多忙な先生ですから、雪が降ろうと高速の入り口が閉まっていようと、行くと決めたら実行です。
なんとか、一つだけ開いていた入り口を見つけ、北茨城まで行き着きました。

実家にいた老犬のマルチーズが、小さくて細くてよぼよぼだったんですが、「カフ、カフ」とかすれ声を出すワンコを見た安先生が、「こんな鳥みたいな犬初めて見た!」と目を丸くしていたのがとってもコミカルでおかしかったです。
確か、昔先生は猿を飼っていて、その子がドレッサーで口紅を塗っていた話をしていたっけ。ハシビロコウもお気に入りだったし、ユニークな動物好きだったのかな。

震災後に、「アンコウ鍋の取り寄せはできるの?」と先生に聞かれました。
「もし地物なら、応援も込めて取り寄せたい」と。
あの雪の日の、平潟のアンコウ鍋を覚えていていただけたこと、故郷に思いを寄せてもらったことを、とても嬉しく思いました。
先生はいつだって、全方位に全力でそういう気遣いの人でした。

2013年には、無理を言って、私の結婚披露宴で歌っていただきました。
歌う前に、「昔アンコウ鍋をご両親にご馳走になっていますから。借りがありますからね。」と、私たちに気遣いをくださり、そして会場みんなが先生の歌声にうっとりと聴き入りました。

「Smile」
Smile through your heart is aching
Smile even though it’s breaking
When there are clouds in the sky,
You’ll get by、、、

震災から10年、節目なのは数字だけで、何も終わっていない。
さらにコロナという試練。
でも、Smileのこの歌詞のメッセージは、こんな時こそ大切にしたいと思います。
そしてきっと笑顔を忘れそうな時は、必ずあの時の先生の歌声と笑顔を思い出すと思います。


昔、池袋でレッスンの後、二人でご飯を食べた時のこと。
先生が磯辺焼きを注文したので、「先生、お餅好きなんですね。」って言ったら、「ううん、好きじゃない。りえちゃんが好きそうだと思って。」と。
笑ってしまいました。
そして私はお餅を1皿、5つくらい一人で食べて超満腹になりました。
そんななんでもないようなエピソードも、愛おしく、どんどん溢れてきます。

ある日、レッスンに向かう山手線の中で、私は仲良しだった同級生の死をメールで知りました。
スタジオに入るまで泣くのを我慢していたけれど、入った瞬間止まらなくなりました。
事情を知った安先生は、彼女のニックネームを聞くと、◯◯ちゃんはこうだったの?ああだったの?と質問しながら、やっと私が落ち着くと歌のレッスンに入り、誰かのために歌うということを優しく短く伝えてくださったと記憶しています。

安先生って、きっと、普通じゃない波動を放っていた気がするんです。
だから、もう時代が変わってしまったかのような気さえする。

告別式は、密にならないよう気をつけながら、たくさんの生徒と、先生を慕う方々が集まっていました。
この状況で、なかなか会えずにいた久しぶりの人ばかり。
先生を中心に、また新たに繋がり直させてもらえたような気がしました。
いただいたたくさんの方とのご縁、大事にしていきます。

ひな祭りが命日だなんて、チャーミングでエレガントだった安先生らしい。
悲しいけれど、ノンストップな人生だった先生にやっとゆっくり休んでいただけると、そう思います。


本当は、安先生のことと震災のブログは分けて書くべきだったのかもしれません。
でも、なぜだろう。切り離すことがなぜか自分の中でできなくて、思いつくままに書きました。変に結論づけてまとめようとするのも、やめようと思います。


毎朝、毎晩の祈りを続けながら、「誰も責めないことから始まる希望がある」という、10年前に得た座右の銘を何度でも胸に刻んでいます。
そしてSmileを口ずさみながら、この困難な状況を生きて行こうと思います。

世界中の人々が、誰一人取り残されることなく、平和で、平穏でありますように。
真実が照らされ、私もそのために貢献できますように。


※毎年、3.11に震災についてのブログを書いています。
北茨城の当時の状況等については、過去のブログも読んでいただけたら幸いです。

9年目の3.11

2020-03-11 18:50:34 | 地震
東京は夕方ちょっと雨が降りましたが、快晴の暖かい一日でした。
9年前はどうだったかなあと、ふと思って調べると、最高気温11.3度、最低気温2.9度。
今日より随分寒かったんだな。
被災地はもっともっと寒かったでしょうね。

9年目にして、コロナウイルスという、また想像を超えた困難の中だけど、これを機に、みんなが幸せになる方へ世界がパラダイムシフトしますように。

3.11だってまだまだ全然終わってない。
忘れるどころか、美化した物語にするどころか。
もっと教訓にしなきゃならないけど、そのためにはまずみんなが大きく発想を変えたり、変化への恐怖を手放したり、愛と知を持って人や世界を見つめることが必要なんじゃないかと思っています。


★窓辺に幸運のシンボル、テントウムシが。なかでもこのキイロテントウムシは特別なのだとか。


★故郷・北茨城市の市民による震災の記録、「きたいばらき震災記」は母が編集委員をつとめ、私も寄稿しました。
FMひたちでは2012年発刊からの8年間、朗読を続けました。
番組が終わってしまったので、これからは別な形で本の中の震災の記録を発信していけたらと思います。
何度かアップしてますが、改めて。


8年目の3.11

2019-03-10 17:25:09 | 地震
毎年この時期は自分のブログを読み返しながら、時の流れとともに変わったこと、変わっていないこと、忘れていたこと、忘れられないこと、いろいろかみしめています。

あの日はACO先生の陰陽ヨガのクラスに出ていて、バタフライのポーズで揺れながら、陰ヨガらしく慌てることもなく、
あれ?でもこれは大きいねと、だんだんみんなで顔を見合わせて、避難することになり外へ出ました。
落ち着いたACOさんの後に続き階段を降りると、どうしようどうしようと半パニックになっている人がいたりして、やっと実感が湧いてきました。
それからのことは「きたいばらき震災記」とブログに書いたので割愛します。


8年経った今でも変わらず、毎週ACOさんのクラスに通っています。
ACOさんのクラス中、一度も震災のことを思い出さない日はないなあ。
8年間、ずっとそう。
でもそれは辛さやショックを思い出すというわけじゃなくて(多少はあるけど)、ゼロ地点に戻るような感覚。
そして、毎回祈りの言葉でクラスが終わり、深くなった呼吸とリフレッシュしたBodyMindSpiritをめいっぱい味わいながら、感謝の気持ちで帰路につく。


FMひたちは2月末に開局9年を迎え、開局からパーソナリティを担当させてもらっている私も9年目となりました。
2012に発刊された「きたいばらき震災記」朗読コーナーは7年目。
やっと、ほぼ全員の記録を読めたかなという感じ。
でももちろん、ずっとこのコーナーは続けて行きます。
書いてある内容と現状がずいぶん違ってきたりもしているけれど、2012年発刊ですとだけ前置きして、そのまま読むことにしています。
中学生だった子の記録を読む時は「もう成人してるんだなあ」、ご高齢だった方の記録を読む時は「お元気でいらっしゃるかな」と、読みながら書き手に思いを馳せる。

今までは、落ち着いた気持ちで読むため番組の最後にコーナーをやっていたのだけど、生放送なので、時間の都合でカットになっちゃったこともあり、
それがどうしても嫌だったので、この春、番組のまん真ん中にコーナーを移しました。
時が経つほどに、ますます震災記の朗読は大切な時間になっています。
大切にしていきます。


ちょっとネガティブなことも書きます。
震災の時期、Twitterが一番生きていたので、一日中Twitterでいろんな人と話したり、情報交換したりしていました。
親戚との話し合いでも、電話を持つ手が冷たくなって震えだすことがあったくらいだったけど(頭を使いすぎて気が上がったんだと思う)
Twitterでも色々と戸惑うことがありました。
例えば、ガソリン携行缶を譲る代わりに、避難者を必ず乗せて戻ってこい、とトレードを持ちかけられたこと。
結局避難者は乗せてきたのだけど、トレードは絶対に違うと思ってお断りしました。

あとは、被災地になった地元を見て、正直に辛さを呟いた時。
すぐさま「ピンチはチャンス!ネガティブなことを言うな」と叱ってきた人がいた。
興奮状態の人も多かったから仕方ないと思うのだけど、その方のその後の健康状態が心配になりました。
潔癖に辛い発言を排除しようとするってことは、きっと本人かなり無理しているんじゃないかと。
辛いことは辛いと、まずそのまま言えることは大事なんじゃないか。がんばるのはその後なんじゃない?と。

なぜ今更またこんなこと書いたかというと、今でもしょっちゅう思い出すからなんです。
敏感になっていたから、焼き付いちゃったのかもしれない。

ヨガやセラピーの心得はあったので、自分も結構傷ついてるかもしれないと気づき、自分を癒すことも積極的にしてきました。おかげでとっても元気でいられています。
でも、大切な人を亡くした人、私なんかよりずっと深く傷ついた人たちはどうなんだろう。
まだまだ、たくさんのケアが必要な状態なんじゃないかと思います。
必要な人たちに、もっと物質的精神的ケアがちゃんと届く社会になるよう、心から願います。

震災の時からの座右の銘。「誰も責めないことから始まる希望がある」
それから、「有事の時は、普段の延長線上のことしかできない」とも思いました。
普段冷静になることがなかったら、災害の時に冷静になれっこない。
普段、どういう心でいるか。何を大事にして、どういう行動をしているか。
何度も自分に刻み続け、問いかけています。なかなかうまくいかないから刻み続けてるのだけど。


震災の翌日に、時代を象徴する天王星は牡羊座に入り、新しい時代が始まったのだそう。
そしてそれ以来、2019年3月6日に、牡牛座に移ったのだそうです。
震災でドラスティックに変わった個人の、社会の価値観が、また大きく変わってゆくのでしょうか。

今年も3月11日は静かに黙祷します。


※たまたま入ったカフェで、気仙沼線の写真展をやっていました。



※「きたいばらき震災記」私の記録。

7年目の3月11日

2018-03-11 14:15:53 | 地震
静かな日曜日、明るい青空。7年目の今日は、自宅の窓辺で黙祷しました。
震災時住んでいた部屋からは一昨年引っ越して、日差しが入りやすくなったせいもあると思うけど、それでもあの日より随分暖かい気がします。
いろいろなことを思い返しながら、祈りを込めながら黙祷していると、あっという間に時間が過ぎていてびっくりします。

昨年は映画「純愛 -JUN-AI-」との衝撃的な出会いがあり、その上映会内での黙祷でした。
人と人を繋ぐ奇跡の映画「純愛」パワーをいただき、この一年は震えるくらいの数々の素晴らしい出会いがありました。
例えば童謡100年プロジェクトの方々もそう。
つながった方々とのご縁に感謝して、これから自分の本来の役目を果たすべくまっすぐやっていこうと、視界が開けたような一年でした。

震災で大きく意識が変わったことが、この様なご縁につながっていると思います。

まだまだ問題は山積みの日本、そして世界だけど、改めて7年前と比べてみると、いろんなことが変わってきているとわかります。
7年前には想像もできなかったことが当たり前になっていたりもする。
何かが叶う時って「叶ったー!」ってパンパカパーンなイメージがあるけど、実際ほとんどのことは、着実にコツコツ、願い、粘り強く行動する人の力で静かに達成されるのだなと思います。
私はちゃんと生きれてるんだろうか、と、落ち込むことも相変わらず多いけれど、他人だけでなく自分を責めることもやめようと思ったのも震災の時でした。
それは何にもならないから。

「誰も責めないことから始まる希望がある。」
あの時降りてきた言葉は、今も毎日のように唱える瞬間があって、今や私の座右の銘となっています。


先日ブログに書きましたが、今月頭、童謡100年プロジェクト主催の、野口雨情生家などを巡る北茨城バスツアーに同乗してきました。
実家のある平潟町、平潟港の目の前でランチだったのですが、初めて北茨城を訪れた参加者の方々と話すと、やはり震災の話になりました。
この港は大丈夫だったの?ご実家は?という質問に答えながら、ずいぶん変わってしまった港の昔の様子、甚大な被害を受けたすぐ向こう側の東地区のこと、津波で亡くなった町内の方のこと、自分が思う以上に伝えたい自分がいて驚きました。


2012年発刊の「きたいばらき震災記」。
北茨城市民の手で編集された、市民一人一人のありのままの震災の記録。
うちの母も編集委員を務め、私も故郷を思う一人として寄稿させてもらいました。
編集委員の及川さんが、当時の新聞記事をSNSにアップしてくださいました。
編集の際は、なるべく手を加えないように、例えば「角の◯◯ちゃん」(角の所の家の◯◯ちゃん)みたいな地元の人にしかわからないような表現も、可能な限りそのままにしたそうです。
当時、編集のエピソードを聞きながら、そういうことってすごく大事だな、と思ったのをよく覚えています。
FMひたちの番組では毎回お一方の記録を読み続けています。

忘れもしない2010年2月28日、前日のチリ地震の影響で、津波が心配される中開局したFMひたち。
翌年の東日本震災時には、スタッフの皆さんが少ない人数で地域のために奮闘されました。
私は番組が続く限り、震災記を読み続けます。


2011年3月11日夜からの、震災関連のブログも、そのまま残していますのでよかったらご覧ください。
震災記より長くてごちゃごちゃなところもありますが、自分でも時々読み返しています。
あの時の現在進行形での出来事、行動、そして年ごとの思いや学び。
カテゴリー「地震」

☆☆こちらが「きたいばらき震災記」。もう増刷されていないので、少しだけアップします。
ラジオ朗読用なので、年季が入ってきています。
目次に◯してあるのは、この6年あまりでお読みした記録です。


ベルギー人監督が撮った、震災後の福島。映画『残されし大地』

2017-04-21 00:19:30 | 地震
映画「残されし大地」観てきました。

1年前、この映画の編集作業のためベルギーに一時帰国中、テロの犠牲となってしまったジル監督。
福島関連映画はなるべく観るようにしてきたけど、こんなに人に土地に親身に寄り添った作品は初めてかも。

透明な存在となってありのままを見、聴く、ジル監督の穏やかな視点だからこそ大切なことが浮かび上がってくる。


富岡に残り動物保護をしてきた松村さん、戻ってきたご夫婦。
強い訛りは福島弁がわからないと全部は理解できないかもしれない。
(私はわかったけど^ ^)
でも、もっと大事なのはきっとその場にいる空気感とか、一緒にテーブル囲んでぶっちゃけ話してる感じとかなのだと思う。


うちの実家は第一原発から直線で70kmほど。
富岡ほどの状況ではないけど、両親と話している時に出てくる震災後のいろんな話…
誰々はまだ家族で遠くに避難してる、戻ってこないんじゃないかなとか、いわきの街の様子、補償金のこと、あの人は原発で働いているらしいなど…
そういう、地元の人から実情や本音を地元で聞いているような、そのリアルな感じが映画から伝わってきました。
そして、ありのままの映像も、今そこに居るような気持ちになります。


このNHKの音声、よくまとまってると思うので、皆さん是非聞いてみてください!
コチラ

渋谷イメージフォーラムでは本日4/21まで。

多くの人に届きますように!

6年目の3.11は映画『純愛-JUN AI-』を観ました。

2017-03-13 15:47:23 | 地震
今年の3.11は、ご縁があって繋がった大切なみなさんと『純愛-JUN AI-』という映画を観ることをもって、祈りとしました。

故郷、アイデンティティ、隣人…をぎゅーっと見つめなおすきっかけになった震災。
私の故郷は、福島県境まで徒歩3分の茨城ですが、放射能のこと、補償金のこと、、考えるほどに、
「空にも海にも陸にも線はない」という当たり前のことを、強く思うようになりました。

そして6年。気づけば社会、世界、地球へと、見つめる先が広がっていました。
たとえば、世界の平和あっての私たちの未来、より良い社会の枠組みを実現してこそ守られる故郷、というように。

『純愛』は、世界中のいろんな文化、宗教、考え、思いを持った人たち誰もが、一番深いところで繋がれる映画だと思います。
10年以上も世界で広がり続けている、こんな素晴らしい映画があったことに、本当にびっくりしたし、嬉しかったです。


2月1日に、誘われて行ったアジア国際映画祭で、初めてこの映画を観ました。
私は映画が大好きなので、大好きな分超うるさいのですが、「純愛」には今までにないほどの衝撃を受けました。
12歳で、世界平和のために映画を作る、そのために女優になると決めたという、主演の小林桂子さん。
映画は、芸術は、大げさでなく世界を変えることも、救うことだってできる、と心底思えたし、
魂が震えました。

メッセージ性の強い映画って、なんか固かったり、音楽イマイチだったりするよな〜というあなた!
「純愛」の音楽担当は、ウォン・ウィンツァン氏です★
エンタメとしても本当に素晴らしい完成度で、すでに世界中の映画祭で賞もとっています。
理屈ではなくストーリーで、心のいちばん深いところに訴える映画。
タイトルは、日本では誤解も受けやすいかもしれません。
どうか偏見なしに、是非観てみて下さい。

私は一瞬で、すっかり応援団になっちゃいました。
今の所、いつでもどこでも観れる映画ではないのですが、今後国内各地での上映がまた決まってゆくと思いますので、皆さん是非フォローしておいて下さいね!

『これは戦争映画ではなく、愛の物語。

日中問題を扱う映画ではなく、日本と中国の人々が力を結集した世界の人々への平和のメッセージ。

描かれた人々の生き方は、過去を癒やしつつ、その熱きメッセージは現代、そして未来に向けられている。

1945年夏、長い間続いた戦争が終わった。中国大陸には多くの日本人開拓団(32万人)が移り住んでいた。

彼らの生活、夢は敗戦とともに崩れ去った。逃避行を続ける彼らは中国の山中で生死の縁をさまよっていた。

そこには中国の農民達が暮らしていた。彼らの多くは日本軍によって大切な家族を失っていた。

愛、俊介、山龍(シャンロン)、 そしてその年老いた母、彼らの間に国境を越えた友情、そして、命を懸けた愛が生まれようとしていた。』
(「純愛」HPより)



■純愛公式HP コチラ

■予告編 コチラ


改めて、震災で亡くなられた方のご冥福をお祈りします。
そして、傷ついた方、まだまだ大変な思いをなさっているたくさんの皆さんへ、お見舞い申し上げます。
自分のできることを着実にしてゆこうと思います。




■製作総指揮・脚本・主演の小林桂子さんと、第一回アジア国際映画祭にて。


■より、このような意識に。Worldshift

3月11日、金曜日

2016-03-11 13:12:39 | 地震
5年目にして、あの日以来の、金曜日の3月11日ですね。

もちろん今日だけが特別じゃない。
けど、あの日を境に何もかもが変わったし、いまだに変わり続けている
ということを、強く確認する日であることには間違いないと思います。


FMひたちの「きたいばらき震災記」朗読コーナーは、2月で4年目を迎えました。
ほとんどが感情的でなく淡々とした「記録」を読み続けることが、自分の祈りになっています。
ということはよく言っているのだけど、
「祈り」って何だかふわっとしていて誤解も招くかななんて気になったりもする。

でも、『祈り』って映画でもその効果が実証されていた通り、
全てがエネルギーなのだから、確実に‘ある’し、
あとはそれぞれのことばの解釈(つまり、その人の下地による)だよね、と思う。

自分なりの祈りの時間を持つことで意識や行動は確実に変わってゆく。
それが集まって、世界が変わってゆく。


先日、ラジオの帰りに日立の図書館で、
震災図書コーナーに置いてあった「できることをしよう。―ぼくらが震災後に考えたこと 」(糸井重里&ほぼ日刊イトイ新聞 )を読んで、
衝撃を受けました。
クロネコヤマトの社長 木川眞さんと糸井重里さんの対談。

毎日、「我はヤマトなり」と社訓を唱和するそうなのだけど、
その精神~現場でそれぞれが判断する~が、震災の時の社員の皆さん一人一人の行動に映し出されたという話。
自己判断で、できることはないか、運ぶことができる、運びます!となった訳です。
その精神が普段から染み付いていたから、できた。

社訓を唱和って、宗教みたいだけどねという話も出てくるのだけど、
まさに、その想いが尊ければ尊いほど、いざというときに効果を発揮する、素晴らしい「祈り」なのだと思います。

一企業が、寄付にかかる何十億という税金を免除させたって、本当にすごい話ですよ!
もちろん企業の宣伝じゃないし、‘感情’じゃなく‘知性’で書かれた本です。

感情を基準にせず、知をもって考えること。
これも震災から学んだこと。


震災の時、私はACO先生のヨガのクラスに行っていました。

ACOさんはいつもこんなことばでクラスを結びます。

『皆の安らぎの想いが
遠くの人に伝わりますように
近くの人に訪れますように
すべての地に宿りますように
失われた命と傷ついた魂が癒されて
生きとし生けるものに
力強い勇気と恵みがありますように』

Rock姉さん、ACOさんの祈りのことば。
5年経った今日も、同じクラスへ行きます。


今年に入ってから、身元判明したご遺体もありましたね。
原発は、どうなってしまうんでしょう。
事故の体への影響は?

自分自身の感覚をクリアに保つ努力をして、
情報だけで頭デッカチになったりせず、
おかしいことをおかしいと、魂で言える自分でいようと思います。

震災3年目の祈り

2014-03-11 13:52:16 | 地震
地元平潟で、津波で亡くなった食堂のおじちゃん。
今朝ふと思い出していたら、ご家族がニュースに出ていました。
ご家族も一緒に流されて助かっていたとは、知らなかった。

http://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20140311/5661181.html

「3年たって、少しづつ夫の思い出とも向き合えるようになり、きょうは『いままでありがとう』という気持ちを伝えました」
という言葉。
前を向いて歩いてゆく人からは、やっぱりありがとうの言葉が出るんだなあ。

あの後、平潟の小さな町の中でもいろんなことがありました。
両親から話を聞くたび、帰省するたび、原発のことを思う。
漁業がないと平潟じゃない。
辛くて心を病んだり、ストレスで身体を壊したり、自ら命を絶ったご近所さんのことはニュースにはならない。
要因は震災だけじゃないにしても、震災(原発事故)がなかったらどうだったんだろう?と想像せずにはいられない。

自然を憎むことはできないけれど、原発は憎い。
それまで気付かなかった自分も憎い。
普通に普通の感覚で考えて、あんなことがあってまた原発を動かそうなんて、頭がおかしいとしか思えない。
そうはいってもね、とかいう議論の前に、「繋いでゆくために生まれて来た」人間としての体温を持った感覚を絶対に忘れないでいこうと思う。
選挙で一票投じるのにも、何にしても。

FMひたちで続けている「きたいばらき震災記」朗読コーナーは2年目を迎えました。
先日は久しぶりに自分の記録を読んだ。
これからも可能な限り、この祈りの時間を続けます。
そんな時間を持たせていただいているFMひたちさんに、改めて感謝です。

昨年、一昨年のブログを自分で読み返してみたけれど、3年目にしてぱっと思い浮かんだのは「感謝」の言葉。
生かされていることにも、まわりの人にも、いっぱいありがとうを伝えながら、自分のできることを考えながら、また一年歩んでいこうと思います。

今年も陽射しが差し込む自宅の窓際で、黙祷を捧げます。

3.11から2年。

2013-03-11 14:02:16 | 地震
あの日から2年が経ちましたね。
改めて、東日本大震災と人災の犠牲者のみなさまのご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
そして、まだ見付かっていない方々が一日も早くご家族のもとへ戻られますように。
ご遺族のみなさんのお気持ちが少しずつでも癒されてゆきますように。

運よく生かされているということ、改めて深く胸に刻みたいと思います。

やはり震災の被害が大きかったふるさと、茨城県北茨城市の市民による震災の記録集、「きたいばらき震災記」の発行からも1年が経ちました。
何度か増刷されて、「もうしない」(母も編集委員です)と言っていたのですが、この春また増刷されたそうです。
一切脚色されていない、本当の市民の記録、そして気持ちが詰まった本です。また新たに、沢山の方に手に取って頂けますように。

同じく茨城北部の日立市でラジオ番組のパーソナリティをつとめさせて頂いていますが、番組の中でずっとこの震災記を朗読するコーナーを行ってきました。
私も寄稿させて頂いたこの震災記には、実家の近所の方の記録も沢山載っていて、毎回お一人お一人の記録を朗読する時間は、私にとっての‘祈りの時間’となっています。
これからもずっと、朗読を続けてゆきます。

あの混乱の中、地元への物資集めに協力してくださったみなさんに、改めて感謝いたします。
京都のおとうさんとお友達、名古屋の南城さん、永島浩之さんに紹介して頂いて携行缶を見付けて下さったサンデーフォークの皆様、他にも携行缶探しに奔走して下さった皆様、物資を届けてくれたりおにぎりを作ってくれた東京のお友達、高速インターのおばちゃんたち・・・みなさんがいなかったら北茨城まで物資を届けられませんでした。
名前を挙げ切れないほどのみなさんのご協力により、地元に必要なものを届けることができました。
帰省してご近所の方に会うたびに、あの時のお礼を言われます。「あの時はありがとう、助かったよ」
その言葉を、この場を借りてご協力いただいたみなさんにお伝えさせて頂きます。
本当にありがとうございました。
急なお願いだったにも関わらず、ぴあの(猫)をこころよく迎えてくれた鎌田さんにも、改めてありがとうございます。本当にお世話になりっぱなしで・・・。

地元の平潟港では名物のアンコウのモニュメントがお披露目。両親も慰霊式に出席だそうです。
間もなく14:46。
私は今年も自宅で黙祷を捧げます。

北茨城・復興祭~水戸・偕楽園へ♪

2012-03-27 15:02:23 | 地震
25日の日曜日、北茨城・復興祭に行ってきました。
沢山の人で賑わう、会場の五浦観光ホテル。特産品無料配布には、ものすごい行列ができていました!


会場では、第4版となった「きたいばらき震災記」の販売も。

同じテーブルでは、私もサポーターをさせてもらっている「茨城はらんべプロジェクト」のブレスレット販売も。

なんと、はらんべーストラップもお目見えしているではありませんか!

カバンなどにつけても可愛いこのストラップ、ひとつひとつ手作りなんです☆ 震災記編集委員としてもはらんべープロジェクトでも大活躍の及川さん(恥ずかしがり屋さん)の愛のこもった手作り!


平潟港のお祭りでライブをさせて頂いた時も、いつもPAをしてくださった荒川さん(右)、この日もイベントのPAで大忙し!地元では知らない人のいない、印刷屋さんです。震災記でも大活躍。
いつもお忙しいから疲れで顔がむくんでるのかと思ったら、前日飲み過ぎだったそう。ま、でも、疲れと両方ですよね。顔を隠して記念写真☆


震災以来、はじめてお会いする方も多くて、ほんとに行ってよかったです。
北茨城の明るくタフなパワーを改めて感じた一日でした。

翌日は、水戸に寄って偕楽園へ。見頃の梅を鑑賞してきました。昨年、行くつもりだったのだけど、震災で行けなかったので…。
最初、偕楽園隣の常磐神社へお参りに行くと、太郎次郎一門のお猿さん、アポロくんが営業してました。月曜なのに、すごい人出だった!


予報は晴れだったのに、どんより曇り空で、肌寒い空気。
でも梅はとても美しく咲いていました。色々な種類の梅。白~濃いピンクまで、見事な色のバリエーション。

梅の木の間を、ずっとずっと歩いてゆきます。いい匂い!!!

きれい。お気に入りの枝を見つけて、しばし佇んでみたり…。


よく、春っぽい歌詞で「桜」に飽きたからって「梅」を使ってみようとする生徒がいるんだけど、その意義が感じられないことがほとんどだったりします。
ちゃんと梅を観たり、嗅いだり、感じたことがないのかも知れないな、と思いました。

桜はふわっと幸福そうに咲き、梅はぎゅっと上品なものが詰まったような、‘和’な咲き方をするように感じる。
なんか、秩序がある。見つめていると背筋がぴんと伸びちゃうような、美しさ。
特に、きちんといくつかの花が並んでいるような枝を見ると、なんとも言えない。
桜は‘咲き乱れる’けど、梅は決して咲き乱れない。軟質と硬質。陽と陰。

ついに、雨がぱらついて来ました。晴れてたらよかったのになあ。。

と、思いながら、好文亭へ。
好文亭は、震災の被害が大きく、2月に復旧工事を終えて公開再開されたばかり。

窓から偕楽園の梅を一望できます!三階からの眺めは最高◎

見学しているうちに、晴れてきました。帰り際になって、ぽかぽかしてきた!


そしてそしてなんと、帰りのバスに揺られている間、今度は雪が降ってきました。。この日の水戸滞在中、天気は曇り→雨→晴れ→雪、の、全部入り!!
昔、ワンマンライブの日に大嵐で、リハーサルに辿り着くまでに全身ずぶぬれ、赤信号で立って待っていられない状態で、中止かと思っていたら夕方ぱっと止み、虹が出たことがありました。ライブは決行され、お客様もキャンセルせずにみんな来てくださって、嬉しかった。
私はちょっと、変な天気に振り回される運を持っているようです。ドラマティック天気運。

水戸の梅は、今、ほぼ満開!桜もいいけど、梅をじっくり観るのもとてもいいですよ!
水戸・梅祭りは3月31日まで。
梅祭り期間中だけ、水戸駅の手前の「偕楽園駅」でスーパーひたちが停車するんですよ。新型車輛のスーパーひたち、とっても快適です☆ 上野から一時間。
とてもいい春に出逢えます。

ちょこっと帰省してきました。

2012-03-22 16:05:39 | 地震
先日、日立のラジオの帰りに久しぶりに帰省してきました。
両親とお隣いわき市勿来(なこそ)の海の前のレストラン「ジョイ」で夕食。
ドリアやハンバーグやピラフなど、結構食べた後に、今年還暦を迎える両親、まさかのパフェ。

食欲があるって素晴らしい。頼もしい。

実家は、いまだ改装中。朝から工事の音が鳴り響いています。
お風呂も壁紙も何もかもリニューアルされているので、私の知る実家とは別物になりつつあります!
祖父母の代から増築を重ねに重ねて来た実家。今は祖父母も私たち兄弟3人も実家を出て別々に暮らしているので、色々整理されるにつれ、がらーんと空いた部屋が増えて、何かに使わないともったいないなーと思ってしまうくらい。
埃アレルギーの私は、滞在中に鼻がぐしゅぐしゅ。
せっかく大掛かりな工事をしているので、もう大きな地震、津波が来ないことを祈るばかりです。

茨城は東北に比べると補償が少なくて、みなさん大変そう。。
福島の県境を越えるか越えないかで大きな違いが…。
世界中の愛が詰まった義援金、支援金。
管理する側の都合だけでなく、愛を持って、線引きしないで、最大限活かしてほしいですね。

お隣の民宿相模屋さんで、震災後に飼い始めたチャメちゃんにも会いに行きました。かわいい。。いっぱい遊んでもらいました。

相模屋の女将、恭子さんも、震災記に寄稿されています。ネコが大大大好きなご夫妻なのですが、民宿さんなので、ずっと飼うのを我慢していたそうです。
でも、震災があって、「好きなことをしよう!」と考えが変わったそうです。震災記にも「守るべきものが増えました。」と、書かれています。
チャメちゃんは、すでにご近所やお客様のアイドル☆ 母も、窓辺に佇む姿に癒されているそう。

25日の復興祭、私も行く予定です!寄稿させていただいた「きたいばらき震災記」が販売されます。
露天風呂無料解放!特産品無料配布!など、出血大サービス、超盛りだくさんです。みなさま、この機会にぜひ、北茨城へ☆

【北茨城 復興祭】~100年先への第一歩~
●日時 3/25(日)9:00~17:00
●場所 五浦観光ホテル別館大観荘

詳細は、北茨城市商工会HPをご覧下さい。
こちらのHPで、『ぼくのゆめ わたしのゆめ~こどもたちからのメッセージ~』(動画)もご覧頂けます。
北茨城の子供達からのとってもピュアで心に響くメッセージです。ぜひ見てみてくださいね!


~おいしいオマケ~
最近は、油みそにはまっています。生姜多めが好き。やっぱり味噌って素晴らしい。
作り置きして、ごはんに乗せれば何杯でも食べられちゃうし、うどんに生玉子を絡めて、これを和えて食べるのも美味しい。酒の肴にも。万能!
質素なのに、ものすごく満たされます。栄養のバランスが良いものって、そうなんだと思う。
この日の食卓は他に、新たまねぎサラダ、しめじと春菊と人参のマヨポン炒め、春菊のみそ汁など。あ、あとビールね。

『きたいばらき震災記』第4版700冊増刷決定☆『北茨城 復興祭』開催!

2012-03-17 01:16:01 | 地震
おかげさまで、沢山の方にお求めいただき、嬉しい気持ちでいっぱいです。
ご家族や大切な周りの方々と、末永く、シェアし続けていただければ幸いです。

増刷が終了となっていた震災記ですが、編集委員である母から今日連絡があり、700冊の増刷が決定したとのこと!
北茨城復興祭で販売されるそうです。

【北茨城 復興祭】~100年先への第一歩~
●日時 3/25(日)9:00~17:00
●場所 五浦観光ホテル別館大観荘

詳細は、北茨城市商工会HPをご覧下さい。
こちらのHPで、『ぼくのゆめ わたしのゆめ~こどもたちからのメッセージ~』(動画)もご覧頂けます。
北茨城の子供達からのとってもピュアで心に響くメッセージです。ぜひ見てみてくださいね!

復興祭は、露天風呂無料解放!特産品無料配布!など、出血大サービス、超盛りだくさんです。
ぜひ、この機会に、北茨城へ遊びに来て下さいね☆
上野から、かの有名な常磐線・スーパーひたちで2時間半くらい。
高速バスだと、ちょっと時間はかかるけど格安です。東京駅から日立駅まで高速バスでたったの2000円程度。→日立駅か高萩駅で降りてJR常磐線に乗りかえ、北茨城(雨情生家は磯原、平潟町や五浦は大津港)まで、とか。

北茨城の観光スポットについて☆ 遠方から訪れる人も多い、とても立派な美術館、県立天心記念五浦美術館。一日居ても心地よいと思います。岡倉天心は亡くなるまで五浦に住んでいたそうです。五浦=いずら(いつうら)と読みます。
そして、北茨城といえば童謡詩人の野口雨情。野口雨情生家・資料館が磯原にあります。生家には雨情のお孫さん・不二子さんがいらっしゃって、お話を伺えるかも知れませんよ。
大震災から1ヶ月~北茨城「野口雨情生家」/野口不二子氏インタビュー
昨年4月のインタビュー。震災の時、生家も1.5mの津波が来たそうです。大切な雨情の資料をぎりぎりまで時間を使って2階に上げたとのこと。それでも水に浸かってしまった沢山の資料、何日も陰干ししたそうです。
数年前、国民文化祭が茨城で開催された時、雨情記念作詞コンテストの審査・作曲・披露コンサートを担当させて頂き、その頃不二子さんと会場で何度かお話する機会がありました。とても知的で愛に溢れる、素敵な方です。

北茨城では、各民宿で入る温泉も、格別です。私の出身地の平潟町にも沢山の素晴らしい民宿・旅館があります。
北茨城に遊びに行くことを決めたあなた!色々オススメを知りたい方は、コメントかtwitterでメッセージ下さいね。レア情報もお伝えしますよ♪
北茨城市HP
北茨城市観光協会

お隣のいわき市のスパ・リゾート・ハワイアンズ、日本有数の素晴らしい水族館であるアクアマリンフクシマと合わせて観光するのもオススメ☆ 北茨城といわき、両方観光しても、がんばれば1泊でもかなり満喫できると思います。
何でもご相談下さい(笑)。故郷を訪れてもらえるのは、本当に嬉しいので。





3月11日

2012-03-15 07:30:00 | 地震
とても気持ちよく晴れた日曜日。
14:46、窓を開けて、庭から入る光と風を感じながら、祈りを捧げました。
冷静なつもりだったけれど、自分でもびっくりするくらい涙が溢れて来ました。
静かな住宅街を、廃品回収の車のアナウンスが通り過ぎて行きました。
一台去ったと思ったら、また一台。いつもの日曜のように。
この時間だけは車を端に寄せて、祈らないのかしら?
黙祷している人達のことを考えて、止めたりしないのかしら?
そんなことが頭を過りましたが、
あの震災があったからこそ、「誰も責めないことから始まる希望がある。」と、自分で決めたんじゃないか、と自分に言い聞かせました。
今日が仕事の人は仕事をする権利があるし、今日が誕生日の人は思い切り祝う資格がある。
私は祈りたいから祈る。

震災以来、テレビで観た様々な遺族の方の痛みや、家をなくした方、故郷に戻りたくても戻れない方の想いを、
何度も自分の胸の真ん中にぶつけてみたけれど、
とてもじゃないけど「お気持ちわかります」なんて軽々しく言えるものじゃないのだと、思い知るだけでした。
悲しみは数じゃない。痛みは規模じゃない。
命はみんなたったひとつなのだから。

震災の犠牲となった方々に、改めて哀悼の意を表します。


夜は、渋谷のアップリンクという映画館に、『立入禁止区域・双葉 ~されど我が故郷~』を観に行って来ました。

「この映画は、3月12日に、気が付いたらカメラを持って、いわき(実家所在地)に向かったところから始まりました。その後、同級生を探し出し、当時のいきさつをやり取りするうち、「現場」を一番知らないのが双葉の人たちであることが判明しました。4月16日には「現場」に入り、そこからこのドキュメントは始まります。そして、最初に避難した双葉の人たちが“原発のその後”を知らないことに気づいたのです。科学的、医学的なことは僕には知識がありませんが、それよりも、その後の日常が最も大事と考え映像に取り組みました。」―佐藤武光監督


双葉出身の方も沢山、いらしていたようです。双葉も浪江も、あのあたりは私も馴染みのある地名。
今でも、昔一緒にバレーボールの試合をした子達や高速バスで仲良くなった双葉の子の故郷がそんなことになっているなんて、どこか信じられない気持ちです。
トークイベントでは、佐藤監督と、双葉のご自宅の線量をずっと計り続けている天野さん(決して他より高い線量が出ているワケじゃなかったりするそうです)のお話を聞くことができました。
盗難などの犯罪防止の為に立ち入り禁止とする…管理はしやすいだろうけれど、「ここまではOK。ここからはダメ。」と線引きされても住人の気持ちに線が引ける訳がない。
震災の直後、助けに入っていれば助かったかも知れない、助かったに違いない、という後悔。
もう二度と戻れないと言うのなら、せめて人のお役に立てるように…故郷への中間貯蔵施設の設置に賛成しているんです、という天野さんのお話。
茶碗などの生活用品を取りに帰ることも許されなかった、と話して涙する女性。愛着を持っていた日常の品の数々…。

誰もいない食料品店で食べ物を漁る沢山の豚。
野生化した牛たち。犬も、ネコも。彼らはどうなるの?
餌をやりに行ったり保護したりしているボランティアの方々も、断腸の思いでしょう。

線引き。
それは、管理する側だけのことを考えたやり方。
こんな大変な震災、原発事故だったからこそ、線引きはやっぱりだめだよ。そう思います。

この映画は、テレビで観る震災番組のように、観やすい映像や納得しやすいインタビューでまとめられたものではありませんでした。
もちろん、監督が体を張って撮って来た膨大な映像の中から、時間をかけて編集されたものだけれど、(映像を観るだけで一ヶ月、編集に一ヶ月…とおっしゃっていました。)
割り切れない想いを、割り切れないまま、剥き出しのまま、作品にされています。
そこを故郷とする方々の、目線です。


故郷・北茨城の母からは夜メールが来ました。
「今日は防災訓練に参加して、平潟小(両親、私の母校)に避難。
午後は東(平潟町の東地区。津波で沢山の家が流されました)の光枝さん(津波で亡くなりました)の冥福を祈って自宅跡地にお花とお線香とお水を備え、2時46分に防災無線のサイレンに合わせて黙祷してきました。
娘さん夫妻が来ていて一緒にお線香出来ました。
震災記の編集仲間も二人で来てくれました。
複雑な思いの一日でした。」
北茨城では、あちこちで防災訓練が行われたそうです。
まだまだ余震の多い地域。心配は絶えません。
そして、東京にいるわたしたちだって、全然他人事じゃないのだと、つくづく思います。


昨年の3月11日14:46は、私は大好きなACO先生のヨガのクラスに出ていて、バタフライのポーズで前屈をしていました。
ACO先生は、その後動物ボランティアとして活動されたり、最近、いわきでWSも!!心から尊敬する方です。
ACO先生のブログ
9日の金曜、先生のクラスに行きました。
「あともう一呼吸したかった」と思いながら旅立った魂の、その呼吸、その想いを引き継ぐように、呼吸して…
という言葉に、大きく頷かずにいられませんでした。
毎日、そういう気持ちを忘れずに生きようと思います。


冬の間殺風景だったうちの庭に、春がやって来ました!よく見ないとわからないような影のほうに。

種蒔きが遅れたせいか、冬に入りずっと成長が止まっていたプランターのレタスは、これからぐんぐん大きくなるのかな。
少なくとも、枯れなかったことが単純にすごいと思ってしまう。


バタフライ。。
蝶たちも、庭に訪れる季節。カラフルな訪問者。とても楽しみです。
希望を持って、沢山感謝をして、この春を過ごそうと思います。












『きたいばらき震災記』第三版で増刷終了。『るるらら空空』売上を寄付させて頂きました。

2012-03-09 11:21:38 | 地震
きたいばらき震災記、沢山の方にご購入いただいているようで、本当に感謝です。
現在、残りわずかとなっている第三版を持って、増刷終了となるそうです。
今のところそれ以降の増刷予定はないとのことなので、ご購入希望の方はぜひ、お早めに!!
諸経費を差し引いた収益は震災復興支援として北茨城市に寄付されます。
現在販売中なのは、北茨城市大津町のヤマサン(書店)さん、大津港駅前の喫茶店茶夢さん、磯原町はまや書店さん、大津町と磯原町の三國屋(みくにや)さんだそうです。

震災記について、詳しくはこちらの記事をご覧下さい。
毎日jp
茨城新聞

周りで購入いただいた方によく言われるのが、「ゆっくり、ゆっくり読んでいます。」という言葉です。
私自身そうなのですが、一人一人の体験が重くて、ゆっくりしか読めないですね。
あの時のことを忘れないで欲しい、忘れたくない、という想い。噛み締めながらこれからも読んで行きたいと思っています。

それから、遅くなってしまいましたが、昨年3月16日にリリースした私の配信限定アルバム『るるらら空空』。
売上を全額北茨城市の支援金として寄付させて頂きましたので、ご報告させて頂きます。
引き続き、このアルバムの売上は、市が寄付金を募っている限りは北茨城市へ、その後も県や他の市町村などに震災の義援金、支援金として寄付してゆきます。
お買い上げ頂いたみなさま、本当にありがとうございました!
そして、今後もどうぞ宜しくお願い致します。
るるらら空空

間もなく、あれから一年ですね。
みなさん11日は、どのように過ごされるのでしょうか?
北茨城市では、避難訓練が行われるそうです。
私は、震災、原発関連の映画を観に行ったり、震災の時と同じ玄米とみそ汁のシンプルなごはんを食べたり、瞑想したり…自分の中で風化させないように、そんな過ごし方をするつもりです。
この日が、沢山の尊い命の命日であること、数え切れない方の人生が突然大きく変わった日であること、決して人ごとではないということ、改めて胸に刻み込みたいと思います。

こころのケア

2012-02-09 08:00:00 | 地震
茨城の冬といえば、私の地元北茨城市では何と言っても‘あんこう鍋’ですが、こちらは超おすすめな冬の茨城名物のひとつ、干し芋!

見かけはアレですが、めちゃくちゃ美味しいです。この冬は、FMひたちのリスナーさんからも東海村の親戚からもいただいて、ほくほくです☆
スライスしていない‘丸干し’と言われる干し芋は、しっとりしていてスウィートポテトのよう!自然な甘みがたまりません。食物繊維もたっぷり、からだに優しいおやつです。(私は主食にしてるけど笑)
茨城の干し芋は本当に絶品☆ 友人にお裾分けすると、美味しくてびっくりされます。干し芋に対するイメージが変わるみたい。食べたことのない方はぜひ、試してみて下さいね!

『きたいばらき震災記』、茨城放送さんでも紹介されたようですね。そして今週中に地デジNHKでも紹介されるとか。
知って頂く機会が増えるのは、本当に嬉しいことです。引き続き、みなさまどうぞ宜しくお願いします!

TVを観ていたら、被災した東北の子供達の心のケアについて、海外の専門家の公演の様子を放送していました。一年経っても、そう簡単に傷は癒えない。やはり、子供達が話をする機会を大人が上手に作ってあげること…と言っていました。
本当にそうだなと思います。
「話す」=「出す」こと。
人生はすべて呼吸に例えられるかも知れません。吸って、吐く。吐いて、吸う。つまり、入れて、出す。出して、入れる。
おぎゃーっと吐いて生まれるワケだから、出すほうが先ですね。

7歳くらいまでに受けたショックは、脳の中枢に刻み込まれると聞いたことがあります。(本当なのか分かりませんが、本当な気がします。)
それは、無くそうと思っても無くならない。でも薄めることはできる。
その方法は、やはり「出す」こと。信頼できる人に、沢山お話すること。心のデトックスですね。
身体も心も、代謝を上げるようにして、溜め込まないことが大事。子供達にはリラックスして自然に「出せる」環境が必要ですね…。

大震災で被災した子供達に比べたら微々たるものですが、私も小さい頃のショックな出来事って、いまだに夢に出て来て苦しくなることがあります。調子が悪い時は、日中もずっとそのことが頭に浮かんで来てしまったり。
でも、積極的に話を聞いてもらうようにすると、不思議と楽になり、なーんだ、全然大丈夫だって思えます。

いっぱい、心にも呼吸させないと。
めいっぱい呼吸できるように、余計な力を抜いて、身体も心もゆるゆる緩めておかないと。

子供達の傷が癒えてゆきますように…。