※三船敏郎(富島松五郎)、高峰秀子(吉岡良子)、稲垣浩 (監督)
※岩下俊作の小説『富島松五郎伝』(1938年)が原作。
(1)
明治30年(1897)、九州小倉に博奕で故郷を追われていた人力車夫の富島松五郎(35歳位)が、舞戻ってきた。“無法松”は、芝居小屋で腹いせに枡席でニンニクを焼くなど荒くれ者だ。しかし仲裁の結城親分に諭されすっぱりわびるなど、竹を割ったような性格だった。
(2)
数年後、明治38年(1905)のある日、松五郎(43歳位)は木から落ちて足を挫いた少年(吉岡敏雄)を救う。少年は小学校1年(7歳)。その縁で彼は、少年の父、吉岡小太郎大尉の家に出入りするようになる。大尉は松五郎の、豪傑ぶりを知り可愛がる。松五郎は、酔えって美声で追分を唄うが、良子夫人(30歳位)の前では赤くなり声が出ない。
(3)
ところが大尉は、雨天の演習後、肺炎を起こし急死する。残された母子は、何かと松五郎を頼りにした。松五郎は、引込みがちな敏雄を「ボンボン」と呼び、学芸会、運動会に参加したり、色々と励げます。彼は小学校で授業を受ける敏雄を見に行ったりもした。
(4)
幼少の頃、松五郎は継母に苛めら、父親も早く死んだ。松五郎は小学校にも行けず字も読めない。無学で一人生きる松五郎は、亡くなった吉岡大尉の妻子に仕えることを生甲斐とした。(※もちろん、無法松は秘かに良子夫人を慕っていた。だが彼自身はそれを認めない。彼はひいきにしてくれた吉岡大尉への恩返しとして二人に献身した。)
(5)
時は経ち、大正3年(1914)、今や敏雄は小倉中学の4年(16歳)になった。成長した敏雄は、他校の生徒と喧嘩をして母をハラハラさせるが、松五郎(52歳位)は「ボンボン」の成長を喜んだ。だが敏雄は松五郎を疎んじるようになる。ついに敏雄は、旧制高校(熊本)に入るため、母の元を離れ小倉を去った。
(6)
松五郎は生き甲斐を失い、めっきり老け、酒に親しむようになる。彼には良子夫人の面影が浮かぶ。敏雄は夏休みに、「本場の祇園太鼓をききたい」という先生を連れ、小倉に帰省する。良子夫人が久しぶりに松五郎を訪れ,祭りの案内を依頼する。松五郎は自から祇園太鼓のバチを取る。離れ行く敏雄への愛着、良子夫人への思慕、複雑な想いをこめ松五郎は祇園太鼓を打つ。
(7)
その数日後、松五郎が吉岡家を訪れる。松五郎は物を言わない。目には、涙があふれていた。彼は吉岡大尉の遺影に最敬礼し、良子夫人に「俺は悪い心を持った。もう二度と来ない。」と言って去る。(※彼は、良子夫人への自分の思慕に気付き、それを「悪い心」と思った。)
(8)
それ以来、松五郎は夫人の前に姿を見せなかった。数年後、大正6年(1917)の雪の降る日、酔った彼が転びながら、かつて敏雄を連れて通った小学校に向かう。だが彼は心臓の発作で倒れる。翌日、松五郎(55歳位)の遺体が校庭の隅で見つかった。
(9)
松五郎の遺品整理の時、残された柳行李の中に、それまで吉岡家からもらったご祝儀の数々が手をつけられず残されていた。また夫人と敏雄宛に彼が入金した貯金通帳も見つかった。それを見て、良子夫人(42歳位)が泣きくずれた。
《感想1》無学で一人生きる人力車夫、松五郎の悲恋だ。恋は彼の死まで12年間(43-55歳位)、続く。無法松は自分に似合わない恋をした。
《感想2》無法松は、義理と侠気に生きる。尊敬する吉岡大尉の死後、残された妻子(良子夫人と敏雄)の面倒を見ると彼は決意する。自分の義理と侠気の倫理に従った。
《感想3》だが松五郎は、良子夫人を秘かに慕うようになる。彼はそのことを、自分自身に対し認めない。吉岡大尉への恩返しとして、松五郎は、良子夫人と敏雄に献身的に仕えた。だが実は秘かに(自分自身、決して認めないが)彼は良子夫人を慕っていたのであり、敏雄少年を彼女と共に育てることに幸せを感じていた。
《感想4》良子夫人を慕っていると、松五郎が自分に認めざるを得なくなって、彼は自分の倫理に反するとして、夫人から去った。
《感想5》義理と侠気の倫理と、良子夫人への思慕の心情との矛盾のうちで、松五郎(無法松)は悲恋を生きるしかなかった。この悲恋の構図は国際的にも理解され、映画『無法松の一生』は、ヴェネチア映画祭(1958)で金獅子賞を得る。
《感想5》小倉のモノレール旦過(タンガ)駅の近くに、無法松の碑が立っている。最近、訪れたが、花が捧げられていて、心打たれる。
※岩下俊作の小説『富島松五郎伝』(1938年)が原作。
(1)
明治30年(1897)、九州小倉に博奕で故郷を追われていた人力車夫の富島松五郎(35歳位)が、舞戻ってきた。“無法松”は、芝居小屋で腹いせに枡席でニンニクを焼くなど荒くれ者だ。しかし仲裁の結城親分に諭されすっぱりわびるなど、竹を割ったような性格だった。
(2)
数年後、明治38年(1905)のある日、松五郎(43歳位)は木から落ちて足を挫いた少年(吉岡敏雄)を救う。少年は小学校1年(7歳)。その縁で彼は、少年の父、吉岡小太郎大尉の家に出入りするようになる。大尉は松五郎の、豪傑ぶりを知り可愛がる。松五郎は、酔えって美声で追分を唄うが、良子夫人(30歳位)の前では赤くなり声が出ない。
(3)
ところが大尉は、雨天の演習後、肺炎を起こし急死する。残された母子は、何かと松五郎を頼りにした。松五郎は、引込みがちな敏雄を「ボンボン」と呼び、学芸会、運動会に参加したり、色々と励げます。彼は小学校で授業を受ける敏雄を見に行ったりもした。
(4)
幼少の頃、松五郎は継母に苛めら、父親も早く死んだ。松五郎は小学校にも行けず字も読めない。無学で一人生きる松五郎は、亡くなった吉岡大尉の妻子に仕えることを生甲斐とした。(※もちろん、無法松は秘かに良子夫人を慕っていた。だが彼自身はそれを認めない。彼はひいきにしてくれた吉岡大尉への恩返しとして二人に献身した。)
(5)
時は経ち、大正3年(1914)、今や敏雄は小倉中学の4年(16歳)になった。成長した敏雄は、他校の生徒と喧嘩をして母をハラハラさせるが、松五郎(52歳位)は「ボンボン」の成長を喜んだ。だが敏雄は松五郎を疎んじるようになる。ついに敏雄は、旧制高校(熊本)に入るため、母の元を離れ小倉を去った。
(6)
松五郎は生き甲斐を失い、めっきり老け、酒に親しむようになる。彼には良子夫人の面影が浮かぶ。敏雄は夏休みに、「本場の祇園太鼓をききたい」という先生を連れ、小倉に帰省する。良子夫人が久しぶりに松五郎を訪れ,祭りの案内を依頼する。松五郎は自から祇園太鼓のバチを取る。離れ行く敏雄への愛着、良子夫人への思慕、複雑な想いをこめ松五郎は祇園太鼓を打つ。
(7)
その数日後、松五郎が吉岡家を訪れる。松五郎は物を言わない。目には、涙があふれていた。彼は吉岡大尉の遺影に最敬礼し、良子夫人に「俺は悪い心を持った。もう二度と来ない。」と言って去る。(※彼は、良子夫人への自分の思慕に気付き、それを「悪い心」と思った。)
(8)
それ以来、松五郎は夫人の前に姿を見せなかった。数年後、大正6年(1917)の雪の降る日、酔った彼が転びながら、かつて敏雄を連れて通った小学校に向かう。だが彼は心臓の発作で倒れる。翌日、松五郎(55歳位)の遺体が校庭の隅で見つかった。
(9)
松五郎の遺品整理の時、残された柳行李の中に、それまで吉岡家からもらったご祝儀の数々が手をつけられず残されていた。また夫人と敏雄宛に彼が入金した貯金通帳も見つかった。それを見て、良子夫人(42歳位)が泣きくずれた。
《感想1》無学で一人生きる人力車夫、松五郎の悲恋だ。恋は彼の死まで12年間(43-55歳位)、続く。無法松は自分に似合わない恋をした。
《感想2》無法松は、義理と侠気に生きる。尊敬する吉岡大尉の死後、残された妻子(良子夫人と敏雄)の面倒を見ると彼は決意する。自分の義理と侠気の倫理に従った。
《感想3》だが松五郎は、良子夫人を秘かに慕うようになる。彼はそのことを、自分自身に対し認めない。吉岡大尉への恩返しとして、松五郎は、良子夫人と敏雄に献身的に仕えた。だが実は秘かに(自分自身、決して認めないが)彼は良子夫人を慕っていたのであり、敏雄少年を彼女と共に育てることに幸せを感じていた。
《感想4》良子夫人を慕っていると、松五郎が自分に認めざるを得なくなって、彼は自分の倫理に反するとして、夫人から去った。
《感想5》義理と侠気の倫理と、良子夫人への思慕の心情との矛盾のうちで、松五郎(無法松)は悲恋を生きるしかなかった。この悲恋の構図は国際的にも理解され、映画『無法松の一生』は、ヴェネチア映画祭(1958)で金獅子賞を得る。
《感想5》小倉のモノレール旦過(タンガ)駅の近くに、無法松の碑が立っている。最近、訪れたが、花が捧げられていて、心打たれる。