英語教育と国語教育:「新情報」と「旧情報」をきっかけに ① 序
今回は、背景について述べますので、具体的な考えについては、②をお読みください。
ネット上に見られる意見を瞥見すると、外国語より国語教育を重んじるべきだという意見がとても多いように思います。その反対論はほとんど見かけません。なぜか。それは実用論は、意見にはならないからです。実践家は、言論などというものは無視してただ現実化すればよいからです。
かつて、あるところに、こう書きました、、「つきつめれば、理想と実用という普遍的な対立である。古来、この対立は理想論に絶対的な真理があって、そうでありながら、というか、そうであるので、勝つのは実用派に決まっている」。どしどし現実が押し寄せてくる中で、「理想論」を述べていても独り言以上の意味があるのかどうか疑わしいのではないでしょうか。
英語の早期教育反対、移民反対などの、保守的な立場からの意見の根底には絶対的な正しさがあるのですが、その正しさの根拠は、唯物論に対する精神の立場を守ることにあります。たとえば、1960年代の福田恒存の「保守的」言論は強靭な精神に貫かれていました。それだけに今でも読んでも強い感銘を受けます。
ところが同じことでも、今のように「保守的言論」が社会で一定の「市場」を得ている時代に述べる場合、「言論としての影響を持つ」、ということがあるのでしょうか。似たような意見の持ち主同士が、そうだそうだ、と言い合って溜飲を下げるだけに終わってしまう可能性があると思います。
そして、その結果、無定見な改革路線が抵抗を受けることなく、推し進められるという事態に陥る惧れがないわけでもありません。
そこで、このような行き詰まりを打破するために、英語の先生と国語の先生がもっと話し合って、今後の教育について共有できる見解を増やす必要があると思います。英語も国語も言語という点で同じなのですから、具体的な共通点はあるはずです。、国語はあらゆる知的活動の柱になる、道具以前の存在という性質を持つのに対し、英語は日本人が最初に接する日本語以外の言語、という性格を持っています。こういう違いはあるのですが、どちらも、他者を理解し、他者に自分の考えを伝えるためにある、という点で共通しています。ここをとっかかりにして、次回、具体的な点をひとつ述べます。
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