現代ほど「教養」を身につけ易い時代はない!、にも拘らず...
「教養」という言葉については近いうちにまとまったものを書きたいと思います。しかし、その前に、筒井清忠著、『日本型「教養」の運命 歴史社会学的考察』と、竹内洋著、『教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化』には目を通しておく必要があるでしょう。
だいたい、「教養」の語源も定かではありません。cultureの訳語だとしたら、「文化」との関係は?。ドイツ語のBildungとは?。ラテン語のartes liberalesを英訳した、liberal artsとの関係は?...、などなど。
大正期あたりの書き物を読み漁る必要がありそうです。ここでは、芸術、文芸に対する判断力、そして、もっと広く人間を見る目ということにしておきましょう。例えば歌舞伎一つとっても、江戸時代からの変遷を知り、芸の良し悪しを判断できるようになるためには、とても長い時間がかかります。要するに、貧乏人には教養は身に着かないということになります。
えらそうなもの言い、今風の言葉を使えば「上から目線」で話すのが、教養を持っていることと同義、そこまで行かなくても教養の主な特質だと、今では思われるようになってしまいました。「教養がないものが多いのは嘆かわしい」とでも言えば、「何をえらそうに!。わるいけど、わたしらにはあんたがたのように歌舞伎などに行く閑も金もないんですからね」という反発が出そうな雰囲気があります。
ですから、現在では「教養がないものは...」などと言う言い方は、「土人だ」などと言うようなタブーの表現になってしまっていると言えるのではないでしょうか。むしろ、知識人、芸術家と言われる人がこぞって、50年前には、「下品」、「大衆的」として「上から目線」で見られていたことにぞっこんだという態度を見せます。クラシックの音楽家がロックンロールにしびれるね、などと言うとき、そのような「媚びる」あるいは、仲間はずれにされたくない、という心理が働いていませんか。もちろん、そのように意地悪な質問をすれば、そのような音楽家は、「決してそんなことはありません。だってかっこいいじゃない』という風に答えるでしょうが。
さて、若干ひねくれた「心理分析」はさておき、最近では、教養を見につけるための一番大きな障害が大幅に減ったということを指摘しておきたいだけなのです。
すべて、インタネットのおかげです。歌舞伎を見に行けなくても、それに、仕事で忙しくテレビの中継番組を見ることができない人も、インタネットの動画投稿サイトを見れば、主だったものはかなり見ることができます。とりわけ、何十年前の名演と言われるものも、キーボードをカタカタと操作するだけですぐアクセスできます。しかも、気に入ったところ、気になるところは止めたり、繰り返し見たり、聴いたりできます。
ためしに、小津安二郎、六代目という二つのキーワードを入力すれば、六代目尾上菊五郎の名演を小津監督が1936年に撮影した映画がすぐ現われます2000年前には考えられなかったことです。「青空文庫」などからは、著作権の切れた古典作品が自由に購読できます。目が悪い人には字の拡大、それに、まだあまり知られていませんが、全く視力のない人には、各国語の音読ソフトが綺麗な発音とイントネーションで古典の世界に誘ってくれます。
さて、これだけの条件が揃っているのですから、少なくとも、貧乏人は時間がないので教養が身に着かないという理屈は昔よりずっと、成り立ちにくくなっていることが分かります。それでも、教養が身につかないとしたら...。もう、不平がましいことはやめましょう。
私の場合、ジャズがすきなのですが、それも、ビル・エバンスというピアニストが好きなのですが、いままで体系的に聴くことができませんでした。何故って?。それはお分かりですね。しかし、今、彼がデビューしてからの録音を時代順に、繰り返し聴き直し、このピアニストの偉大さを再認識しているところです。
そうそう、映画のことも忘れられません。映画というのはいかな名作でも、ロードショーを終わると、再び見ることは大変困難でした。ビデオの時代を経て、DVDの時代になり、名作と呼ばれるような作品なら、たいていDVDショップで借りられます。有名でない作品でも動画投稿サイトで見ることができる場合が多いです(多少違法性の匂いがしますが)。
昔のように映画館の暗闇に浸るという楽しみはできませんが、英語の字幕で、「君の瞳は乾杯」はなんていうのかなと確かめたり、『東京物語』の「私、ずるいんです」と原節子が言う場面を止めて、繰り返し見て背後に写っているもの、女優の視線の動きなど、細かく見ることができます。
昔の監督は、将来そのような見方をされることなど考えていなかったでしょう。成瀬巳喜男監督が、「映画は二週間の命だからね」と言っていたのを思い出します。しかし、50年前の、名画と言われる作品は、そのような見方に耐えるものだということが今になって明らかになったと思います。小津監督は、「どうでもよいことは流行に従い、 重大なことは道徳に従い、 芸術のことは自分に従う。」と言っていますが、周りの人や会社がなんと言おうと、妥協せずに、「芸術のことは自分に従った」ということの重さが、今だからこそ感じ取れるのです。
さて、皆さん、インタネットの発展した現代、昔よりずっと「教養を身につける」ことが容易になっった、という私の意図が通じたでしょうか。
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