皮膚呼吸しか知らない蛙

アスペルガー症候群当事者が、2次障害に溺れることもありながら社会に適応していく道のりを綴っていきます。

誤差

2010-06-11 20:57:43 | 認知の歪み
観ているモノが違うと、アウトプットは当然異なる。
ヒトは情報を入力する際に、フィルターとフルイを使用する。
その目的に対して、なるべく労力の少ない枠を設けるフィルター管理。
そこから必要と思われる情報を選別するフルイ分け。

では、その双方が極端にズレているとどういうことが起こるか?と、言う、と、情報を共有出来なかったりする。

着地点は確かに近似しているはずなのだが、アプローチってのが異なると、全く異質なモノを追いかけている、と見られがちである。

ワタシ個人のことだが、この人生で情報を共有した経験値が極めて少ない。単純な話、ワタシの脳みそで考えうる範囲内でのみ、入力、判断、行動、をしてきた部分が大いにある。
これを強み、と捉えることが出来る反面、集団作業においては、著しく考え方や、やり方、方向性、落し所、等々が大多数とズレて、軋みが生じる場面が多い。

どちらがどう、とかは、突き詰めても答えは出ないモンダイなのだが、誤差では済まされないくらいの開きがあることに、摩擦が生じる。

こういうのを『独創的』と表現すると、確かにそうで、そういうヒトがいることによって、切り開かれる世界もあるのだが、ワタシの様に『平凡』な生活を営むモノにとっては、それこそ、専属通訳が必要になる程の、埋まらない誤差となったりする。

ヒトは、集団生活の場数を経験することによって、ある程度決まった枠を共有する。
それがいいとか、わるいとかは置いといて、そうやって『共通認識』だの、『相互理解』なんぞの幅を調整しているのだと思う。

全く異なる世界で過ごしてきたモノにとっては、本人も周囲も、全くもって『異文化』であるのは当然である。
それでも、個人の持つ『誤差』の尺度を超えるヒト同士の間には、摩擦が生じるものである。

マスゲームの様なことに慣れておくことも、凡人の道を歩むヒトとしては必要だろう、と思う。

それすらも凌駕できりくらいの自我があるなら、貫き通せばいいと思うが、ヒトはそれほど強くない。

誤差を埋めるか、誤差と認めるか、ムズカシイ選択だなあ、と個人的に思う

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