おはようございます。こちらあやかし@。
陽のでているうちに記録をしておこう。延々、夜中にパソでは電力がもったいない。写真はマンマミーヤの卒業式に着た着物。実はお洋服にしようと思っていたから、あわてまくりだった。19年前のスーツが入らないであろうことは、よくよく考えてみれば分かることなんだけれど、実際に身につけて初めて実感・納得した。ホックどころか、ファスナーが途中からあがらなかった。( ですよね )自分でも ”馬鹿じゃないの?”と思う。
それから 、「 ジャパン、御願い!」すったもんだの時間が流れる。
三月の月一、着物教室も今回の震災で取りやめになった。
卒業式に着る時には、このような組み合わせにしようと考えていたから、悩みはしなかったのだけれど、そのものたちがどこに入っているのかが、わからなかった。一応 名札をつけて終いはしたのだけれど・・・。
何たって 残り時間 およそ1時間半くらい。襟しんがなかったり、お草履がし舞い込んであったり、バックの中身を入れ替えたり・・・。などなど。
着付けは、この1カ月半位の間にすっかり忘れてしまっていた。自分でも信じられない。前回のお教室は二月半ばだったっけ?「 頑張って袋帯を結びま~~す。」とか言ってと練習したのだけれど・・・。ちょっと情けない。
< 着物の話 >
一つ紋の色無地。( 確かこういう名前 )この着物は親戚のおばさまたちも着た。活躍しまくったらしいので、この着物は喜んでいるだろう。黒の羽織。今どき、こんなものを着るヒトはいないんじゃあないだろうか?でも、いいんだ、着る!
羽織の紐(?)がとうちゃんの寝ている部屋においてあったので、仕方なく、なしで出かけた。
家紋は、父方のおばあさまの家のもの。本来ならば、父方の家の家紋にするところなのだろうけれど、母が選んだ。母によれば、こちらの方がかわいらしい。ということだったけれど、実際のところはわからない。意外とおばあさま(父の母)がこわかった?のかもしれないなと最近のワタシは思う。
おばあさまは、若い時の母(→二男の嫁)にも相当厳しかったらしい。母は二度母をなくしている。
若い時「 母親がいないから躾がなっていない。」と言われたことがあったらしい。
ワタシは、ワタシの両親が、時を同じくして癌になった時に、義母に「 うちにはそんなヒト(癌患者)は 一人もいません。」みたいなことを言われて大層悲しかったことを忘れない。当時は癌患者の数は今のようではなかった。
言ってはならないことってあるんじゃあないだろうか?と思う。そんな時だって、とうちゃんは「 聞き流せばいいだろう。 」の一言だった。
一つ 一つ と 恨みごとが、重なって行った。
>>>
>>>
結婚26年?、やっと、ここまできて、義母の哀しみも少し理解できるようになった。
家紋の正式な意味はわからないけれど、背中に生家の家紋を背負って、たった一人で他家へ嫁いでいくのだ。お葬式にしたって、自分だけ家紋(義母も)が違うわけで、一人孤独。一人部外者。一人蚊帳の外。
自分のお嫁さんを大事にしないオトコは幸せになれないぞと思う。
時代はかわった。実家の母が倒れたならば、今度は、遠慮なく、母(実家)の為に帰省しよう。それと同時に、自分が先に逝かないようにしたい。(けど、・・・ここはシーソーになっている。)
>写真の帯は 名古屋帯。正式ではないけれど、このような国の一大事に華やいだ気持ちにはなれなかった。お亡くなりになった方々、卒業式に出たかったけれど、それが叶わなかった方々の為に、哀悼の意を表したかった。菊のような花は国花を表したつもり。一日も早い日本の復興を祈りたい。
帯締めと帯揚げの色は一致させなくてもいいらしい。
陽のでているうちに記録をしておこう。延々、夜中にパソでは電力がもったいない。写真はマンマミーヤの卒業式に着た着物。実はお洋服にしようと思っていたから、あわてまくりだった。19年前のスーツが入らないであろうことは、よくよく考えてみれば分かることなんだけれど、実際に身につけて初めて実感・納得した。ホックどころか、ファスナーが途中からあがらなかった。( ですよね )自分でも ”馬鹿じゃないの?”と思う。
それから 、「 ジャパン、御願い!」すったもんだの時間が流れる。
三月の月一、着物教室も今回の震災で取りやめになった。
卒業式に着る時には、このような組み合わせにしようと考えていたから、悩みはしなかったのだけれど、そのものたちがどこに入っているのかが、わからなかった。一応 名札をつけて終いはしたのだけれど・・・。
何たって 残り時間 およそ1時間半くらい。襟しんがなかったり、お草履がし舞い込んであったり、バックの中身を入れ替えたり・・・。などなど。
着付けは、この1カ月半位の間にすっかり忘れてしまっていた。自分でも信じられない。前回のお教室は二月半ばだったっけ?「 頑張って袋帯を結びま~~す。」とか言ってと練習したのだけれど・・・。ちょっと情けない。
< 着物の話 >
一つ紋の色無地。( 確かこういう名前 )この着物は親戚のおばさまたちも着た。活躍しまくったらしいので、この着物は喜んでいるだろう。黒の羽織。今どき、こんなものを着るヒトはいないんじゃあないだろうか?でも、いいんだ、着る!
羽織の紐(?)がとうちゃんの寝ている部屋においてあったので、仕方なく、なしで出かけた。
家紋は、父方のおばあさまの家のもの。本来ならば、父方の家の家紋にするところなのだろうけれど、母が選んだ。母によれば、こちらの方がかわいらしい。ということだったけれど、実際のところはわからない。意外とおばあさま(父の母)がこわかった?のかもしれないなと最近のワタシは思う。
おばあさまは、若い時の母(→二男の嫁)にも相当厳しかったらしい。母は二度母をなくしている。
若い時「 母親がいないから躾がなっていない。」と言われたことがあったらしい。
ワタシは、ワタシの両親が、時を同じくして癌になった時に、義母に「 うちにはそんなヒト(癌患者)は 一人もいません。」みたいなことを言われて大層悲しかったことを忘れない。当時は癌患者の数は今のようではなかった。
言ってはならないことってあるんじゃあないだろうか?と思う。そんな時だって、とうちゃんは「 聞き流せばいいだろう。 」の一言だった。
一つ 一つ と 恨みごとが、重なって行った。
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結婚26年?、やっと、ここまできて、義母の哀しみも少し理解できるようになった。
家紋の正式な意味はわからないけれど、背中に生家の家紋を背負って、たった一人で他家へ嫁いでいくのだ。お葬式にしたって、自分だけ家紋(義母も)が違うわけで、一人孤独。一人部外者。一人蚊帳の外。
自分のお嫁さんを大事にしないオトコは幸せになれないぞと思う。
時代はかわった。実家の母が倒れたならば、今度は、遠慮なく、母(実家)の為に帰省しよう。それと同時に、自分が先に逝かないようにしたい。(けど、・・・ここはシーソーになっている。)
>写真の帯は 名古屋帯。正式ではないけれど、このような国の一大事に華やいだ気持ちにはなれなかった。お亡くなりになった方々、卒業式に出たかったけれど、それが叶わなかった方々の為に、哀悼の意を表したかった。菊のような花は国花を表したつもり。一日も早い日本の復興を祈りたい。
帯締めと帯揚げの色は一致させなくてもいいらしい。