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地球へ ようこそ!

化石ブログ継続中。ハンドルネーム いろいろ。
あやかし(姫)@~。ほにゃらら・・・おばちゃん( 秘かに生息 )。  

黒の水引とんぼ   その14

2007-08-06 08:02:14 | ある被爆者の 記憶
 父と子は、つい今しがたまで、この浜辺近くの仕舞屋の一室で時を過ごしていた。子は確かに、時を過ごしていた。特別に退屈もしていなかったけれども、単調な時間であった。男気の感じられないその部屋は、私にとっては、別に珍しくもなかったし、父が,女と対座している姿も、日頃の検番で見馴れていることであり、ことさらに憶測する気も起きなかった。
 壁に二挺、三味線が掛っていたことは憶えている。だが、その時の父とその女性との会話がどんなものであったかは、何一つ憶えがない。というより、一向に言葉がやりとりされた光景がない。おそらく、商用に関することは私に分からなかったのであろう。しかし、はっきりと、その女性の姿態だけは私の網膜に焼きついてしまっている。姿態というのは気が引ける言葉である。小学校二年生の子供に、男が女を観る観察眼などあるわけがない。けれども、私にとっては、姿態であった。浮世絵を初めて見る者が、それ以前に、その類似の姿態を見たこともないくせに、昔から知っているように感じるのと似ている。
 それと、私には、何の根拠もないのに、これが四郎さんの腕に残された志乃ではないのかと、盗み見以上に、その時間の終わるまで、その姿態に瞳を凝らしたのである。
 この明石行きの思い出の中には、父からみれば、どこか他に私の子どもらしさがあったものか、私が大きくなってからも、父はよく口にしたことがある。
 「電車の中に、折角拾った貝を、忘れてしもうて、わややったの。」
 私は、「うん」といつも頷くことにはしていたが、それが事実だったとする記憶はあっても、拾った貝殻をどう持っていたのやら、電車の網棚に置き忘れたのやら、座席の上であったのやら、一向に絵としては思い出されてこなかった。父は、本当に、私が思い出すものが、拾った貝殻以外には及ばないとしているのだろうか。却ってわざと、貝殻に集中させることによって、私の口を封じようとしているのではないか、などと疑ったりしたほどであった。

黒の水引とんぼ   その15

2007-08-06 08:01:58 | ある被爆者の 記憶
 例の売り上げ順位を示す名札の首位に新しい名前が入ったのは、それから間もなかった。ことわるまでもないが、その明石の女性、つまり父が引き抜いてきた芸者が直ちに人気を独占したことになる。さすがにこの辺は、私も子どもで、上席は常日頃殆ど変わらない順位も、新しいしず子という名札に圧倒されて、以下、それまでの連名追随している感じで私の目の中に入ってきた時は、なんだか胸がうずいた。どうして嬉しいのか分からなかったが、自分がスカウトした気にでもなっていたのであろう。
 山の芸者と海の芸者との違いなどと、それなりに考えてみたことを憶えている。そこは子どもの思考である。今にして思えば、いずれも田舎芸者に大差はないようなものだけれども、西国へ逃げる平家を追って、義経が京都より丹波路をとり、迂回してひよどり越えをして一の谷を奇襲したというコースを、ほぼ同じにとって走る神有電車に乗って、生まれて初めて海にでた私が、明石で見たこの芸者が、坂東武者が初めて見ただろう平家の公達や女程度か、あるいはそれ以上に、垢ぬけたものとして、身贔屓して思いたがるのも無理ではない。何しろ、父は別として、この芸者を篠山の誰よりも早く私は知っていたのだから。評判が高くなればなるだけ、私は優越感にひたった。
 しかし、この折角の身贔屓は、間もなく、簡単に崩壊してしまう。私がどんなに優越感にひたろうとも、他にそれを示すことなく、自己の中に満足して充分というものではなかった。やっぱり、誰かに自慢したい。誰かに自慢することによって、初めて、私はしず子を身贔屓にしていることになるのだと思った。だが残念なことには、私には、父に連れられて、このしず子のスカウトに明石に行ったと、吹聴するだけの蛮気がなかった。仮にもし、そう言ったとしたら、ふりちんで、父に抱っこされて海に入った私の姿まで告白させられなければならぬように思いこんでいた。
でも言わなければ誰も、私がしず子と顔見知りだと気がついてくれるわけがない。
子ども心というものは、私だけが知っているという内心の喜悦を、自分だけで楽しむという、高等、姑息、いずれにしろ、そういう偏執さには埋没できない。検番で、あるいは私の家で、しず子が話題になるたびに、聞き耳を立てている自分に気がついた。そのくせ、誰一人として、私をその話題の中に連れ込んではくれなかった。
 しず子が検番に姿をあらわすことがかならずある。その時、しず子が、私の顔を見て、旧知にめぐりあった発言をきっとするだろう、私はその機会を待てばよいのだ、そう思って、検番にでかけてはみるものの、売れっ子のしず子が、検番で暇をつぶすようなことはなかった。それに、人の気を見るに敏な男衆たちの目や、お茶を引いてぶらぶらする芸者の目が気になって、とても長くは続けられなかった。
 

黒の水引とんぼ   その16

2007-08-06 08:01:57 | ある被爆者の 記憶
もう篠山の町の表通りは完全に舗装され、田舎町には不似合いな鈴蘭燈で、各町が贅を尽くして夜の街を彩ったのも、それから遠いことではなかった。
 歩兵第七十連隊の兵隊たちが日曜日毎に町に溢れる思い出があるのも、この頃からである。ネオンサインなどというものが、夜空に煌めき、路地裏にまでカフェが軒を連ねた。
 置屋のれんじ窓から洩れる稽古三味線の音を、もう昼すぎからカフェの蓄音器の音が圧していった。
 さすがに、私も子どもで、この町の変貌をとらえても、その原因が、色町自体が遊客を兵隊相手にしぼり始めたからだとは、全く気がつかなかった。
 ただ、町中で泥酔した兵隊を、憲兵が連れ去っていくのを見かけることが多くなったと思った。それに、憲兵の背から腰のあたりに吊した三角型の厳めしい皮袋が、やけに目を引いた。その中には拳銃が入っているのだと聞かされていたからである。その拳銃を抜いて憲兵が兵隊を撃ったりすることがあるのだろうかと思ったりした。
 時折り色町の中まで、整然とした軍靴の響きが聞こえたりした。赤三条の肩襷を掛けた週番将校が、銃を肩にした兵隊四、五名を従えて、日曜外出の兵を見回るのである。
 座敷で顔馴染みになった若い芸妓が、その靴音で、置屋から飛び出していく姿を何度も見た。検番で、若い芸妓たちが、××中隊の××中尉とか××少尉とか言って、若い将校連中の品定めをするのは、いつの間にか、もう常のことになっていた。
 だから、当然のことながら、若い芸妓が誰彼なく、売り上げを伸ばし、芸達者な老妓が売れ残ったりして、名札の順位に狂いも出始めていた。
その頃、検番の売り上げ序列の札に、予想外の変化が起きていた。私がびっくりしたのは、老若の交替だけではなかった。
 しず子が、三、四位に下落していることであった。

黒の水引とんぼ   その17

2007-08-06 08:00:59 | ある被爆者の 記憶
 旦那がついたとも聞いていなかった。病気がちの噂もない。お茶屋の内儀さんのご機嫌を損じたか。私は持てる知識を動員してみたが、そんな知識よりも、私の小さな頭には、またしても、四郎の腕に彫られた志乃の謎がこれにまつわりついてきて離れることをしなかった。
 永松の家は、道路が出来上がっても、篠山を去っていく気配はなかった。多勢の人夫たちが出入りしていた頃のことを思うと、うそのように、まるで隠居所のように老夫婦だけが、小さな庭で盆栽いじりなど始めていた。
 ローラー車はもちろんのこと、ドラム缶一缶も、永松の家のまわりには見当たらなかった。
 私は、永松四郎さんが、留守がちになっていたのと、このしず子の売り上げ下落とを結びつけたのである。
 思えば、私はもっと早く、永松の父が、私の父に、
「もう、油が自由にならねえ。この商売もおしめえだ。」
と、江戸前に物は言うものの、どうみても、四郎の父とは思えぬほど、小柄な体を淋しく震わせて笑ったことを考え合わすべきであった。
 四郎だけが、出稼ぎに出ていたのかもしれない。
 「四郎さんは、どこに行ったんやろ。」
 私は、私の謎の確認のために、姉のすみ子に、その消息を尋ねた。
 「なんで、そないなこと、うちに訊くんや。おませやなあ。」
と、姉は姉なりに思うところがあるから、赫い顔をした。
 そうだった。姉と四郎と、縁談が持ち上がっていたんだ。これでは私が姉をからかうために訊いたとしか、姉は思いようがない。私は正直に悪かったと思った。そう思いながらも、この縁談はうまくいかない、可愛想に、姉は、四郎の腕に志乃いのちの刺青があるのを知らないのだからと、憐れんだが、この話以後、私は決して、そのことを姉の前で口にしてはならないと思った。
 

黒の水引とんぼ   その18

2007-08-06 08:00:58 | ある被爆者の 記憶
やがて、私の謎は、解けたのか、深まったのか、分からないが、とにかく新しい段階に入る日がきた。
 四郎の呉海兵団入団の日である。それは私にとって、全く寝耳に水の出来事であった。
 召集ではなかった。永松四郎は自ら進んで志願したという。
 永松の家の前には、何本もの幟が立った。私が、武運長久という文字を見た最初である。筆太に書かれた永松四郎の文字は、まちがいなく四郎さんを指しているのに、別人の名のように思えてならなかった。私の父が、多勢の人の居並ぶ前で、上機嫌に、永松四郎君万歳と音頭をとった。
私は恥かしかった。なぜだかみんな、寄ってたかって四郎さんを別人格にしてしまったような気がしてならなかった。
 四郎さんは、その頃からぽつゝ着られ始めた国民服(乙型)に身を包み、黒の短靴にゲートルを巻いて立っていた。
 それはそれなりに似合わない人ではなかったが、あのいなせな男っぷりが、もうどこかに消えていたのが悲しかった。やっぱり四郎さんは、日に焼けた素肌を出し、白い晒を胸のあたりまで巻きつけて、雪駄履きが似合うのにと思った。
 なぜ、軍隊になど行くんだろう。私にはどうしても、四郎さんが軍人を志願してまで行く人だとは思えなかった。
 軍隊のある町に生まれた者が、また当時の男の子にとって、軍人が憧れでこそあれ、嫌なものだと思うことはなかった。でも、四郎さんに、それとは違う男っぷりを見つけたから、私は四郎さんが大好きだったのに、と思った。
 うそだ。これは何かのまちがいだ。四郎さんが、軍人が好きだなんて大うそだ。
私は走り寄って、四郎さんの国民服からゲートルから全部剥ぎとってしまいたい衝動にかられた。また、私がそうしなくても、今、もう、見ている前で、四郎さん自身が、芝居もどきに、
 「こうっ、冗談は止しにしねえな。」
と、衣服をかなぐり捨てて、もとの四郎さんに立ち返るような気がした。でも、人の列は、四郎さんを先頭に、駅の方に動き始めた。
 あの左の腕の志乃いのちの刺青を、四郎さんは消したのだろうかと思わせられた。後姿は、昔の四郎さんとは、もう全く別人のようであったからである。男と女の仲とは、そんなものなのか、私の長い独り合点も、ふうっと侘しく消えようとしたとき、見送りの中に、私はしず子の混じっているのを見つけた。私の胸は、もうつぶれてしまいはせぬかと思うほどに、破れ鐘のように高鳴った。
 しず子の目は、人に気づかれぬようにしながらも、四郎をじっと追っていた。私はちらっと姉を見た。姉はしず子の来合わせていることに気がついていない。気がついたとしても、四郎との結びつきはわかるまい。そっとしておくことだと思った。
 やっぱり、志乃はしず子の前名だった。私は、この時、そう固く信じた。四郎さんは振り返りもしなかった。しかし、私は、四郎さんの左の腕の刺青は、消えるどころか、志乃いのちの通り、彫りつけられたままなんだと思い直した。四郎さんが、陸軍を選ばず、海軍にしたのも、陸軍しか知らないような篠山の人に、自分は軍人志願が直接目的でないことを示す、ちょっとした江戸っ子の気前であったかもしれぬと思った。
 

黒の水引とんぼ   その19

2007-08-06 08:00:57 | ある被爆者の 記憶
永松四郎は、一年経つか経たないで、白木の箱に収まって、帰り直したことになる。公表は戦病死であった。
 その日はやけに軽便鉄道の汽笛がぼうゝと鳴って耳についた。
四郎は、何が原因で、脱走兵とならねばならなかったか、篠山の人々は、不思議がったが、噂好きな篠山人間も、この四郎の事件に関しては噂を立てなかった。軍の完全な権威主義と隠蔽工作が徹底しており、下手な噂をすれば、憲兵隊に連行されるかもしれない剣呑な空気も、ぽつゝ立ちこめる軍人政治の時節に差しかかっていたからともいえる。
 しかし、四郎の男っぷりの好さを篠山の人々は惜しんで、蔭でも汚名を口にするようなことはなかった。

八月 六日 に向けての準備 開始・・・

2007-07-11 11:55:57 | ある被爆者の 記憶
本日 ネットカフェ内 今日はちょっとゆとりの時間。

今年 八月六日 是非とも恩師の上原輝男著 
「 忘れ水物語 」
を読みにきてください。

>ちょこっとご紹介・・・

よく知らなかったんですげれど・・・

 国文学?においては 柳田国男と折口信夫の後継者 ( だったらしい )

それより ウルトラマンの生みのおじいちゃんというほうが私的にはしっくりいきます。つまりは・・・

折口学を学ばれた恩師 の弟子の金城哲夫さん(= ウルトラマンの脚本家)は 折口学の 「まれびと論」からウルトラマンを思いつかれたそうです。

ごめんなさいなんですけれど・・・私は 門前の小僧ならぬ 門内の生意気女(=勢いだけで研究会に参加していた一応弟子)!だったんで・・・よくわからないんですよ。

それより 私の記憶の中に鮮明に残っているのは・・・
「徹子の部屋」に出演なさったときの恩師のこと・・・

たぬき先生とその教え子さんの間では「輝男の部屋」といわれたくらいで・・・。

そのテレビの放映をみた 若かりしときのワタクシは ・・・

「 先生 よしなよ~~。」 と思いました。あんな徹子さんを見たのは後にも先にもこのときだけでした。何が?と聞かれると困るんですけれどね・・・。

斬新 破格 超人 達人・・・ 

何より 何より・・・

被爆者であったこと・・・で

幼きもの その存在そのものを慈しんだ方であったことをお伝えしたいです。

そのことが こんなわけわからんおばはんのこころを捉えて 今なお放さないのです。

リンク 一番上のたぬき先生は まともなお弟子さんなので教育に関心のある方はどうぞそちらへおでかけください。

たぬき先生のお部屋には 美しい星の写真もどこかにあります。自分で探してくださいね。

写真は たぬき先生が送ってくださった星の写真・・・このしゃしんじゃあないかもしれませんが太陽の写真は?なんでも3つ位ある天体関係の雑誌に取り上げられたことがあるらしい。あくまでらしい。すみません、ちゃんとお話聞いていないんでね・・・。

>予告編は・・・

2006年 八月六日を クリックしてね・・・。( かわいく!)・・・つまりは 他に打つ手がないんですね。ここ化石ブログなんでね。 

お国入り   その1

2006-08-06 08:11:05 | ある被爆者の 記憶
 その時、私の体は四人の学生の担いでくれている担架の上に在ったはずである。その傍らか後方かに、つい今しがた会ったばかりの、小学生時代から最も親しかった友人も歩いていたことになる。
 それは遠い記憶だから思い出せないのではなくて、その時、私は事実認識を放棄していたと言ったほうが正しいように思うから、こんな言い方になってしまう。
 福知山線の篠山口駅から、戦時下に硅石輸送を目的として敷かれた篠山線に乗り換えて篠山駅で下車、そこからこの一行は、篠山の町を目指し、担架の上の負傷者を、その親元へ送り届けようとしていた。今から思うと、当の本人を除いて、この一行は、さぞかし篠山という町の辺鄙さをうらめしく思ったにちがいない。篠山口、篠山と名づけられた駅ではあっても、それらの駅からは、篠山の町を望むことさえできない。一行は、町はずれという言葉も当てはまらない田舎道をひたすら歩いていた。
 そう高くはないが深い山々が折り重なる中に、そこだけは、忘れたように平地を形づくっている。東西は長く南北はやや迫っているが、大概の地図には篠山盆地と記されている。
 丹波篠山山奥なれど、霧の降るときゃ海の底、と謳われているが、その通りの地形で、その海の底にあたる場所に城下町がある。
 鉄道がこの盆地を通過しなかったのも、この城下町のせいだったともいわれている。煤煙で町を汚すというのである。
 時刻からいって、真夏の太陽は西に傾いている頃ではあったが、却って、西日になってからの方がたまらなく暑い。この土地では、それをいら虫が出るという。子どもの時からの長い間、いら虫というのはどんな虫だろうと思っていた。結局、その暑さに耐えることの譬えだと知ってからも、がっかりするよりも、以前にましてそのいら虫に悩まされて、篠山の夏を暑いと思うようになっていた。

お国入り   その2

2006-08-06 08:10:28 | ある被爆者の 記憶
 そのいら虫に悩まされながら、一行は篠山川にかかる監物大橋を渡ったはずである。篠山川は町の南を西に流れている。お城を守る自然の陣構えともなっている。
忘れてしまったが、監物大橋などと厳めしい名前がついているのも、堤防を築いた侍の名前であったか、この方面守備を任された宿将の名前であったかとも思う。
 仮駅舎みたような篠山駅からこの監物大橋を渡りきるまで、西日を避けて立ち寄る木陰さえない。ただ、そんな時は、道端の叢の中で、油ひでりの音の証明のようにジージーと鳴く、夏の虫声だけがあたりを蔽っていなければならない。しかし、私はそれを聞いていない。おそらく担架を担いだ一行はそれを耳にしながら、黙々と歩いたにちがいない。でも、担架の上の負傷者にだけは時折、言葉かけも忘れなかったはずであるのに、私にはこの間の記憶は全くない。意識を失っていたとは思わない。後の診察結果からいうのだが、この時、私の左の耳は聴覚を失っている。また失明はしていなかったが、左眼は瞼が垂れ下がって開けなかった。だが、右眼、右耳は異常がなかった。私はこの時、何を見、何を聞いていたのだろう。なぜ、事実に関することの一つ、二つぐらいは覚えていないのか―あの日の衝撃から既に丸四日も経過しているのに、と思う。一つだけ思い当たることがある。死者の柩を運ぶのに、どうして肩の上に担ぐのだろうと思うことと重なっている。その昔、負傷者を運ぶのに戸板の上に乗せたのは、果たして合理的な方法とだけ考えてよいものかどうか。実際、経験のある私にとって、それは負傷者を事実認識と切り離してしまう古代からの方法であったかもしれないと、今では思うようになっている。理由は簡単である。死に近い負傷者が戸板にのせられると、視界には空以外に何も飛び込んではこない。ということは、負傷者は空しか見ていないことになるが、そうなると、負傷者は、いつの間にか空を見ている意識は失せて、中空の世界に吸い込まれてしまう。

お国入り   その3

2006-08-06 08:09:35 | ある被爆者の 記憶
先程もいうように、私は意識を失ってはいなかった。自分の生まれ育った土地である。どこをどう運ばれて帰り着こうとしているのか、体は知っているように思えた。仮にあの時、誰かがそこがどこかと私に問うことをしたら、私はやっぱり中空を見つめたままで、ぴったりと言い当てただろうと思う。それほどまでに私は中空の世界に住み替えてしまって、半死半生になって、今、親許に帰り着こうとしていることも、担架に担がれていることも、まるで下界の出来事のように遠のいて、自分の魂だけが中空に広がっていた。
 今日の精神医学では、これを説明する用語があるかもしれない。意識の混濁、放心状態、自我喪失、精神錯乱、どれも当たっているようで当たっていない。その理由は、悟りを開くということがどういうことか、凡愚な私に分かろうはずもないが、ある透明感があったようには思うからである。
 それが証拠のように、その澄み切った中空に広がった心象風景だけは、今も忘れていないのである。
 監物大橋を渡りきると、幕藩時代の下級武士の小さな家並みが見える。実際は何も見ていないのだが、土堤と土堤の間に、崩れかけた小さな侍屋敷が肩を並べて建っていて、これが、お城の守りの第一線となる配置だと思い、ここが戦場になった歴史もないのに、最下層の足軽たちが陣笠をかぶり、竹槍をもってひしめき合って、この監物河原に倒れていく姿を見ていた。
 まだ、身を焼かれたのは原子爆弾であったということも知らない。もちろん、戦って負傷したという自覚もないのに、意識の底は阿鼻叫喚の修羅の巷であったからかもしれない。