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地球へ ようこそ!

化石ブログ継続中。ハンドルネーム いろいろ。
あやかし(姫)@~。ほにゃらら・・・おばちゃん( 秘かに生息 )。  

お国入り   その4

2006-08-06 08:08:18 | ある被爆者の 記憶
 監物大橋が南から篠山の城下に入る橋なら、その上流に京口橋があり、その名の通り、そこは京に通ずる篠山の東の入口である。これは、どうしたことか、橋詰から商家が軒を連ね、城の守備体制は見えず、現在も「妻入(つまいり)商家群」などと名づけられて、国の指定を受けている。慶長十四年、篠山築城と時を同じうして、街はこの京口筋より出来始め、河原町と今もいう。なぜここには城の守備がないのか―、
そんなことまで、どこかで考えていたように思う。でもその答えを探すよりも、戦乱の中、この京口橋を渡って篠山入場を果たす絵模様を見ていた。事実においては無血入城なのだから、戦乱というのは当たらない。篠山の城は築城後、戦火に遭ったことはないが、蛤御門の変の時には、京に最も近い徳川譜代の藩として出兵もしている。鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜、会津の松平容保などが大阪から江戸に脱出した話は有名だが、この敗軍の将の中に、城山城主も数えられなければならないのである。だから、京を手中にした官軍は、錦旗を押し立て、山陰道鎮撫使として、天皇の名代西園寺公望を先頭に、篠山に迫っている。慶応四年正月十二日のことであった。
 宮さん ヽ お馬の前にヒラヽするのは何じゃいな、の日本最初の軍歌を歌って、有栖川宮を戴き、西郷隆盛が参謀となって、東海道を江戸へ進軍しただけではなかった。
 幼い頃から祖母に聞かされていた話が、まさしくよみがえって、まるで映画でも見ている気持ちになるのはどうしてだったか、今も分からない。ただ、篠山というような山国で生まれ育った者にとって、この国をでること、入ることには、異常なほどに執心するのだということだけは分かっていた。
 出て行った自分が、今、異様な姿で、しかも、担がれてお国入りする。襤褸を身にまとっているのではない。皮膚が襤褸となって体に海草のようにまつわりついている姿を、馬上ゆたかに稚児髷を結い上げ、公家眉墨化粧した若い西園寺公望の篠山入城に見替えていたとしたら、それは幼さの故とばかりではすまされない、みずから備えた死化粧のような気さえする。

お国入り   その5

2006-08-06 08:07:08 | ある被爆者の 記憶
 藤原高虎が縄張りしたというお城の石垣が、最も威容を示す場所は東堀端である。堀を距てて、お城に正対して、もと家格の高かった士族屋敷が並んでいる。道は堀に副って、全く平坦となる。この東堀が尽き、北堀と交わる処に東馬出しがあって、東堀と北堀とでは水面の高さがちがう。これが築城術の一つなのであろう。
標高差が十米以上は優にある。だから、道は真直ぐだが、当然、急坂となる。私が我に返って、担いでくれている友人に、「すまんな」と口を利いたのはこの時であった。
 急坂になって、友人が担ぐ肩を入れ替えたからである。
 「なあに、もうすぐだ。」
 元気者の小稲の声であった。
 その通り、我が家は、もうすぐであった。
 意識が現実に戻ったのはこの数刻で、確かに、今まで空(くう)しか見ていなかった私の隻眼に、幾重にも重なる松の下枝が飛び込んでいた。馬出しの際にある巨松が道まではみだし、その下を通過したにちがいない。しかし、現実を見る視力は忽ち萎えて、また夢心地となった。
 この東馬出しの真向かいには、篠山の者なら誰でも知っている本郷屋敷がある。この土地が生んだ最初の陸軍大将の生家で、私は母に連れられて、何度か仲間長屋門付のこの屋敷に出入りしている。母は娘の頃、この屋敷に奉公に上がっていたことによる。
 母は、そのことを、”塩踏み”に出ていたといつも言った。子ども心に”塩踏み”という言葉が妙に哀しくて、一体どんなことをするのかと母に尋ねた。母は行儀見習いだと言った。

お国入り   その6

2006-08-06 08:06:20 | ある被爆者の 記憶
 それで 私の哀しみが消えたわけではなかった。奉公ということばの重さ、暗さを感じる者に、”塩踏み”と言い替えられても、加えて、試練、虐待を思わされてしまうからであった。母はそれを察知してか、上女中、下女中と区別があること、男でいえば、下男と書生とはちがうだろうと納得させた。奉公先が、お堀端筋のお家柄の家も家、本郷大将の家かと嬉しくもあったが、母の実家はそれ以下の身分なのかと哀しくもあった。当時の子どもにとって、特に篠山の子どもは口にこそださなかったが、不安と忌わしさを感じさせるのが、出生と身分であった。
 商家の子、士族の子と区別されたり、士族の家といっても、あれはもと卒族という足軽身分だと言われたり、中には、もっと詳しいのがいて、町方とか郷組などという身分を知っていて、お前の家はこうだと、烙印のように押してまわる奴もいた。
 母が本郷家に奉公に上がった時の話を思い出させたのは、どうしても、偶然だとは思われない。子ども心につきまとった忌まわしさが、昔の残像をよみがえらしている。それとも、やっぱり、広島での地獄図がそうするのだろうか―。
 ある年の大晦日の晩、この土地、唯一の芝居小屋から火を出した。
 本郷屋敷から数百米の距離である。母はその家の先祖代々の位牌の悉くを、その家の定紋のついた一反風呂敷に包み、背負われて、逃げたという。それが緊急の時の母の務めとされていたという。大きさの不揃いの位牌は、形よくなどとても包めなかったという。形など気にはしておれないと、背負いにかかると、結い上げたばかりの桃割れの髷にそれが当たった。わけも分からず哀しかったが、大きな荷物を背負ったこの小柄な娘は、飛び出すと、人をかき分けかき分け、火事場へ向かっていた。
 

お国入り   その7

2006-08-06 08:05:00 | ある被爆者の 記憶
 その年、設置されたばかりの篠山鎮台( 歩兵第七十連隊 )の兵隊さん達が、本郷大将の生家を焼いてはならじと出動していたという。劇場の大きな棟木が、どおっと火柱を立て、目の前で燃え落ちた。
 母は、歯の根も合わないほどに怖しかったという。
 母が歯の根も合わないほどに怖しかったのは、紅蓮の炎を目のあたりにしたせいだと、私は思い直そうとするのだが、どうしても、母の背中に背負われた位牌が気になって、本当は、母も話をすり替えているのではないかと疑ったりしていた。
 というのも、母の話は、いつも、ここで、火事場の炎の中から、影法師のような人がふらヽ と現れては消えたといった。
 火焔を背にして、逃げおくれた人間がよろめきながら出てくるのだから、影法師のように見えて当然なのだが、母の目には、地獄の底から這い出して来た幽鬼としか見えなかったのも無理はない。その幽鬼は、手に手に、既にぐったりとした人間を抱えて、ひどいのになると、足首を摑んで、逆さに引きずりながら出てきたという。
 母は身の毛もよだつ思いで、思わず目を蔽ったという。その時、背中の位牌がぐらりと傾くのを体に感じたのもいっしょだったとも言った。
 母の言う通り、明治四十一年の大晦日の夜、確かに、当時東雲(しののめ)座といった劇場は全焼している。
 その日、その芝居小屋には、正月興行として、淡路源之丞の人形芝居一座が乗り込み、明荷を解いたばかりであった。
『 篠山町七十五年史 』には、こう記している。

 お国入り   その8

2006-08-06 08:04:55 | ある被爆者の 記憶
 『東雲座の被った損害も大きかったが、貴重な文化財であった我が国唯一の等身大人形を悉く消失した事は、何ものにも代え難い一大損害であった。爾後、文楽同様の小人形を用いる事として再考されはするものの、由緒ある文化財が、この日、この篠山を最後の地として消滅し、もはや過去のものとなってしまった事は、我が国古典芸能の一大痛恨事で、特筆銘記すべきことといわねばならぬ。」
 影法師が、ぐったりとなった人間を抱えたり、足首を摑んで、逆さに引きずっていたと見た地獄絵は、淡路の人形遣いが、等身大の人形を救出してくる姿であったことによる。
 しかし、事実と想像との境を知らぬ幼な心に、その後、この話がどう説明されようとも、忌まわしさと不安の入り混じったまぼろしの華として、消えてはいなかったのだと思う。私にとって、やっぱり、火柱の立つ炎の中に、幽鬼が人を抱え、足首を摑み、引きずっている地獄絵を、位牌の包みを背負い、崩れかかった桃割れ髪の小娘が、震えながら眺めていなければならなかったのである。
 私が、東堀端、東馬出し通過時点で見ていた夢は、子どもの時に想像したものと寸分ちがいなかった。
 寸分のちがいもないものを見ておれたから、現実を完全に遮断することが出来たともいえる。
 あとからの話に聞いたことだが、私の担架の後は、まるで行列のようであったという。憲兵まで出て、篠山の新駅から、ずっと我が家まで付き添っていたという。何が目的でそうしたのか分からないのに、我が家の者に言わせれば、大変に親切で情深く、あんな憲兵さんもいるものかと喜んでいた。

 私はせっせと昔の夢を追っていた。今と昔とがごっちゃになっていると、どこかで思いはするものの、時間の歯車が摩滅したように、平気で重ね絵となり、それでいて、それらの映像は、何かの謎ときのように、私には思われた。

「 忘れ水 物語 」 2006 より

2006-08-06 08:03:12 | ある被爆者の 記憶
 「 お国入り 」 お付き合いくださいましてありがとうございました。

 もし お時間許せば、2005・8・6 にお出かけください。順不同になっていますけれど・・・

 「 かぼちゃの少女 」 1~39を 転載させていただいております。
 
 さいごには 童話 「 あとかくしの雪 」を転載させていただいております。上原先生が 私に紹介してくださったものです。  

飛翔 ・・・ 離陸 準備にはいります

2006-07-27 08:59:59 | ある被爆者の 記憶

 
                        

 
      八月  いろいろ 思うところは ありますが・・・

             見切り発車 みたいなところ ありますが・・・

                   とりあえず 準備しまして・・・

 

      八月  お一日  予告編

                  そして・・・

            八月  六日   広島原爆記念の日に

           お立ち寄り いただけましたならば 幸いです!
                       


あの~  すみませんが~

2006-07-27 08:50:29 | ある被爆者の 記憶
あの~  すみませんが~  まだなんで~ よまんといて  いただけます~?

 ミナサマ~ ひょっとこして 新手のわざにて このカテゴリー よんでません? 読んでません。

 ああ~ そうでっか? よござんした。

 あっのう~ これ 順番ちがってるんで もうちっと まっちょってや!

 ゆうても あんたあ 気がみじかいけえ???みてかもしれんがね。

 まあ どっちでもええよ!

 人生の選択は あんた次第じゃけえね!(いつもながら 大げさな いいまわし)

かぼちゃの少女・・・ 一

2005-08-06 08:53:00 | ある被爆者の 記憶
被爆者たちは、夜明けに死んだ。生きながらに幽霊と化した、人類最初の変身者たちは、もう泣きもしなかったし、もう助けをも求めなかった。
 ただ黙々と、意思があるのか、ないのか、夢遊病者のように歩いた。もう振り向く力もないのかと思うと、ゆっくり頭を廻らしたりした。その後ろ姿に共通のことは、必ず両手をわざわざ幽霊手にして、両脇あたりにぶらぶらさせていた。 
 私は後になって思った。あれはやっぱり、人間の最大苦痛の全身的表現にちがいないと。譬えてみれば、道に転んだ二、三歳の童子が、手離しで泣く一瞬前の姿と同じであった。
 死に直面している人間に、神仏は死の恐怖を与えない。覚悟が定まったからではない。現実には、生と死との陥没した谷間に放りこまれた亡者の群れにちがいなかった。けれども亡者たちは、再び生き返ろうと努力したり、自分から完全な冷たい死骸となりきらないことのおいて、亡者であった。
 亡者は、助けをもとめない。

 

かぼちゃの少女・・・二

2005-08-06 08:52:00 | ある被爆者の 記憶
 さりとて、縊死したり、舌噛み切って、死にきろうともしなかった。
 亡者は、生でも死でもない境地を夢遊した。生でもなければ死でもないところだから夢遊できたのであろう。あるいは、その過程を経て、死に赴くことを、私はこの目で見たのである。 
 被爆者たちは、夜明けに死んだ。いや、その夢遊が途絶したというべきなのであろう。 
 神仏はもう死の恐怖を与えぬばかりか、死をすらもたらさない。神仏は、生死を司らないのではないか。生死を思うのは、神仏の力以下しかもたされない人間が、これが自由にならない乏しい能力の故に、神仏に願うことによって、実は幾らかでも自分の思いの中に引き寄せようとしているのではなかったか。 
 決して、被爆者は助けてとは絶叫しなかった。もし、その声を聞き憶えているという人がいるなら、その「助けて」は、人が人に助けを求めたのであって、神仏に救いを求めた声でなかったことを思うべきである。
 被爆者は、というより黒い幽霊は、薄明の中によろよろと立ち上がり、二、三歩 歩んで、ばったりと転倒して事切れる。