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地球へ ようこそ!

化石ブログ継続中。ハンドルネーム いろいろ。
あやかし(姫)@~。ほにゃらら・・・おばちゃん( 秘かに生息 )。  

黒の水引とんぼ   その4

2007-08-06 08:12:15 | ある被爆者の 記憶
永松四郎の家は、黒岡川を挟んで、私の家の向かい側にあった。本当は、幅十米内外の掘割という言い方の方が正しいのだけれども、土地の人は、殊更にそれを黒岡川と呼んでいた。
 江戸城修復の際、利根川の流れを迂回させたことは、よく知られていることだが、実は、その小規模な姿が、この黒岡川である。こんな我が家の傍にもお城づくりの名残りがあった。
元来、篠山という丘陵にぶつかるようにして流れていたものを、川筋を町の外郭を回るように、しかも合戦の場合は、そのまま、外郭の第一線防禦のクリーク転用に役立たしめる、常套の築城術であったのだろう。
 自然の水路を人工によって変えた川筋である。有事の際に奏功する利点は、平時においては往々そのことそのものが、被害の原因となることが多い。この黒岡川はよく洪水し、よく干上がった。
 この掘割に橋を架けたのが、永松四郎の父である。橋といっても、掘割の真中に二本の杭を打ち、それに丸太二本を渡し、横板を打ちつけるといった簡単なものであったが、それもそのはず、それを渡るのは、永松の家族と、私の家族の往き来のためだけのようであった。
 というのも、篠山の道路がアスファルトの舗装工事された昭和十年、四郎の父はそれを請負って、どこからかこの町にやってきた土方の頭で、その家族に借家を見つけてやったのが、私の父という因縁による。
 今でこそ、道路の簡易舗装など、人は殆ど目もくれないが、古い城下町の表通りを、ローラー車を擁した荒くれ男がわめきたて、連日、濃いチョコレート色をした油と、タール状の砂とでもって、無表情な平面を展開していくさまは、木と藁と紙で出来た座敷の中を、戦車が駆け抜けていくようでもあり、その痛々しさに、この土地のものたちは顔をそむけながらも、一方、この道路工事に見とれていた。
 古い町の市街化への最初の改造を協賛しなくては時代遅れになるという虚栄と、もう一つは、このローラー車に乗った若い男の、江戸っ子とはかくあらんと思わせられる風貌と言動とが、土地の人々を魅了していたからである。
 ローラー車に乗った若い男が、永松四郎であることは言うまでもないが、この四郎がもてた何よりの原因は、大げさなことを言うようだが、この事件から十何年あとに起った、厚木飛行場に降り立ったマッカーサーに、日本人が羨望と魅惑の情を禁じえなかったあの条件と同じものを、この青年は備えることが出来ていたことのように思う。コーンパイプこそくわえていなかったが、サングラスをかけた四郎の横顔を、今も当時の篠山の人たちは覚えているだろう。 

黒の水引とんぼ   その5

2007-08-06 08:11:51 | ある被爆者の 記憶
その四郎が、事もなげに、半日ほどで架けられた橋を渡り、これまた、まるで子どもの頃からそうしていたように、私の家に遊びに来るようになっていた。
他所者を受けつけない風習がかなり強いこの土地の目を尻目に、この板橋の上を私どもの家族の者までもが渡り始めたのも、そう日数をおいてからのことではなかった。
 弟が何かしたはずみに、「駄目じゃないか」と、覚えてきたばかりの東京弁を口にしたりするようになっていたが、人見知りの強い私だけは、その橋も渡らなかったし、永松の誰とも口を利いてはいなかった。そのくせ、誰よりも親しくなりたかったが、弟のように、東京弁で答えなければいけないように決めていた。
 ところが、ある日の、学校からの帰り道に、私は四郎さんに、出会い頭に声をかけられてしまった。
 私たちの通学路は、町の表通りから外れており、道路工事のローラー車の音が、家並みの向うに聞こえるときは、四郎さんの歯切れのよい啖呵を耳にしたように、心が弾んだりしていたが、まさか、そのローラー車に乗った四郎さんが、私自身の歩いている道の横合いから、突然姿をあらわして来ようなどとは思いもかけず、私は一瞬、自分の歩いている道が、いつもの道かどうかを疑った。紛うことのないいつもの道である。
「坊や。」
 確かにそう呼ばれた。この町では、この言葉は文字の上で見るだけのことで、どんな富裕な大家にあっても使用されていなかった。「坊や」と呼ぶ場合は「ぼん」である。私は「ぼん」とも呼ばれる身分の子ではなかった。ましてや私のことを「坊や」とは、顔がくわっと熱くなるのを感じた私は、あたりがまぶしかった。
「・・・みずほちゃんじゃなくって、ほら、なんて言ったっけ?ええっと・・・。」
 みずほは弟の名である。
 エンジンの音がうるさかったが、私の耳に四郎さんの声ははっきり聞きとれた。私の名を言わなくてはいけない、そう思った。でも、私は返事をしないかわりに、私の耳に手を当てて、よく聞こえぬふりをした。他の工夫たちも、みなこっちを見ている気がした。
「あっ、てるほちゃんだ。そうだね。」
 私はこっくりと頷いてみせるのが精一杯だった。そのくせ、私は四郎さんの筋骨隆々とした肩先と、胸元まできりっと巻き上げた晒の白さが、まぶしいほどに私の眼を射たことを忘れない。
 私は、他のことは何も考えずに、その映像ばかり見ながら、我が家まで帰った。

黒の水引とんぼ   その6

2007-08-06 08:10:59 | ある被爆者の 記憶
 この時の話が、永松から我が家に早速伝わったのであろう。「はずかしがり屋のてるほちゃん」の汚名か愛称かのいずれかで、両家の大人たちは、私をわざと確認するみたいだった。そうでなくとも、私は「はずかしがり屋」に相違なかった。そして実を言うと、対人的にはずかしがり屋というよりも、私自身の抱く妄想を見破られぬために、私の心を閉鎖する。
 私自身の中に、こっそりと抱いた妄想というのを、今になって言葉にしてみると、人間の肉体に関してであった。しかし、肉体に関しているからそう言うまでだけれど、その時の幼な心が、そう知っていたわけではない。知るというのと感じるというのは別だ。私ははっきりと、四郎さんの胸元から肩先へかけての映像が、私を魅了していたことを憶えている。特に、胸元高く巻き上げた晒の白さも手伝って、少年の心に、男が美の対象たり得ることを悟らしめた最初であったといえる。
 その四郎さんの男の肌に、私が手を触れる機会がこようなどとは、私は息の根が止まるほど、動悸が打って苦しかったことを思い出してしまう。
 例の橋を渡って、私の家の前を通り、四郎さんは仕事を了えると、すぐ近くの銭湯へ行くのが日課であった。
 右手に洗面具を持ち、仕事の時と同じように、上半身を蔽うものといえば、例の晒だけだった。風呂に行くときに仕替えるのであろうか、それは汗ばみもしていなかった。まさしく純白であった。
 私のはずかしがり屋が喧伝されて間もない頃である。家の前の通りに、打ち水をみずほといたずら半分にしていたのだから、おそらく夏の夕方にちがいない。
 「や、お利口だナ。」
相変わらず威勢がよく、歯切れのいい四郎さんが、私たち兄弟に声をかけた。その途端、私の体がすっと宙に浮いた。私は目の前のみずほが、あの四郎さんの腕の中に抱えられているのを見て、自分も同じ状態にいることを知った。
 「いいかい。兄(あん)ちゃんがお風呂につれてっちゃう。」
 兄弟ふたりとも、これ以上の不安がないほどに不安でありながら、つとめてその不安を隠し、またこれほどの欣快も味わったこともないのに、手放しで欣快であることをつとめてひかえた。 
 

黒の水引とんぼ   その7

2007-08-06 08:09:47 | ある被爆者の 記憶
あれは 錯覚なのだろうか。絵本で見た茨木童子の腕が、四郎さんの腕についている。まちがいなく鬼の腕が四郎さんの腕なのである。私は目まいを感じた。
 私はこの時、生まれて初めて、男というものを見た。そして、資格において自分も男だが、男湯と女湯と区別された暖簾を分けて入るそんな性別とは全く関係なく、本当に男というものが私の頭を支配した。それにひきかえ、四郎さんの男っぷりにすっかり感動している私は、どうしても、男というより女だと情けなかったが、どうしようもなかった。
 どの時、どんな場合だったか、もうそれは思いだせない。湯船の中だったような気もするが、はずかしがり屋の私が、四郎さんといっしょに、湯船の中につかっていることなど、とても考えられないから、全然別の場所であったかもしれない。けれども、はっきりと、私は、この鬼の腕に、彫りものがしてあったことを忘れはしない。また、忘れることが出来ない文字が記されてあった。
 志乃いのち、ただそれだけだったが、左の二の腕にはっきりと読めた。
 どうも、それが、湯の中で、肌と刺青との染まり具合を、気づかれないように、そっと瞳を凝らしたような気もするのだが、記憶の誤りであるかもしれない。
 小学校二年でありながら、志乃いのち、の文字が私に読めて、何のことだか当たらぬとも遠くない見当がつけられたのは、私の生まれ育った環境のせいである。
もちろん、当時の私に、それが読めた理由が、私のおかれた環境が特殊であるからだとまで、分っていたわけではない。
 実は、四郎さんが、真新しい晒を胸元高く巻いて、日課のように、例の橋を渡って、私の家の前を通って、小粋に銭湯に通った理由も、さらに、私の父が永松の人たちのために、他国者を嫌う土地柄でもあるのに、平然と借家を見つけて住まわせたことなども、私の生まれ育った特殊な環境が然らしめたことを、さすがに私も大人になるまで気がつかなかった。
 私は、色町に育っていたのである。

黒の水引とんぼ   その8

2007-08-06 08:08:49 | ある被爆者の 記憶
 永松が他国者なら、私の父もまた他国者であった。だが、母は、代々この土地に住みついた町方役人の娘であった。けれども、父は養子ではない。位牌の数と、父の語り口とを合わせてみると、宮川家七代目当主であって、美作の庄屋もつとめたほどの百姓の倅であった。
 父はわざと母のいる前で、生家の自慢話をした。
「宮川家の家の田地田畑は、どこそこまで行くに、人さまの土地を踏むことはなかった。」
 こういう物の言い方を珍しがったり、田地田畑、人さまなど知らぬ単語に、子どもの日常生活の外に生きている大人の世界を不思議がったりしたが、結局は、この土地者の母に対する父の虚勢であることはよく分かった。
「 そこにいくとな。山路の家が武士だと言んなはってもな、せいぜい、こまかな、町方役人言うてな。不浄役人、木っ葉役人とも言いますんや、ええか。」
と毒づいて見せたが、どういうものか町の人と話すときは、まちがいなく、この土地の言葉で話すのに、子どもに向かっては、平気で岡山弁を使った。
 ところが、母の方が、またかという顔すら見せず、そうかといって追従笑い一つもしない。全く耳にも入らぬ素振りが、子どもに中立の立場を守らせて、却って、どうして父はこの地に流れてきたのだろうという疑問を起こさせた。
 母は働いた。父は好きこのんで働いているとはいえなかった。母は、私たちの住む家とは別棟に芸者を置き、父を検番に通わせていた。いつからそうなのか、私は知らない。私が知った時には既にそうであった。こんな母中心の生活体制が、父の気に入らない原因を作っていたのだろうけれども、父の性分を見定め、他国者が遠慮なく生きられる世界として、色町を選んだ母は賢明であった。
 だが、色町は所詮、女の才覚で生きるところである。母はまさしく、この女の才覚と頑張りとで家を支えた。だから、こんな母の監督の下で、子どもたちは厳しく躾けられて、何一つ、特殊な状況下で育っているなど考えてみたこともなかった。
 だが、おそらく、永松四郎に、異常なまでに男というものへの憧れを思わせられたのも、四郎出現以前の我が家の環境が、あまりにも女ばかりの、女の感覚と体臭で塗り籠められた、女が采配を振う世界であったからであろう。

黒の水引とんぼ  その9

2007-08-06 08:07:29 | ある被爆者の 記憶
この界隈に男がいないわけもないが、その男たちは、女たちに追従を言い、追随することが仕事でもあった。少なくとも私にはそうみえた。
 時には旦那と称する男たちの姿を私も見ている。しかし、この旦那衆も、結局は、あまり頭もよくない女たちの手玉に、馬鹿々々しいとは思っているにちがいないのだろうに、上機嫌そうに、ほいゝとのってる顔つきは、どう見直しても淫らで汚らしいものでしかなかった。だのに、旦那衆は、その緊まりない顔を改めようともしない。思わせぶりな表情を先にして、そのあとで、やおら言葉が、口の奥で、何か二言、三言、ゆっくり声になるのが、大旦那の特徴のようであった。
 私は、この芸者にはどの程度の旦那がつくか、もちろん子ども心の直観だから資財力に関することではないが、新しい芸者が抱えられてくると、その芸者のこの土地での売れ行きの予想も含めて、なぜだか、これからの運勢をひとり勝ってに思いやったりした。ひとり勝手にといっても、このことは私にとって、決していたずらやわるさ遊びに似たものではなかった。私は今でも、仕込みっ子から売れっ子の芸者、年増芸者のそのいずれにも共通して、その横顔のどこかにある翳りを思い出すことができる。その翳りがあるから芸者なのだ。私はこの翳りのために、この土地での渡らいの安全を願ってやっていたように思う。

黒の水引とんぼ   その10

2007-08-06 08:06:41 | ある被爆者の 記憶
母に覚られないようにして、私はよく検番に遊びに行った。普通なら、子どもが父の勤め場所などに行きたがるはずもないが、私にしてみれば、そこは、父のいる場所ではあっても、父の勤め場所とは思ってもみなかった。また、父はそこにいても、働いているとか仕事しているとかいうふうには見えなかった。だから、私にとって、家が二軒あるようなものであった。父もそんなつもりだったのではないだろうか。だいたい人に使われるふうな人ではなかったし、そんな姿を見たことはない。もちろん、父も私の手を引いて検番に連れて行きもしなかったし、一度として来いと言いもしなかったが、私がひとりで行って、特別な顔をする人でもなかった。
私が検番に顔を見せると、芸者たちはどうしてもちやほやする。私は芸者が甘やかしてくれるのが嬉しくて出かけるのではなかった。芸者たちに甘やかされて、それがいいから出かけるという賤しさを、母が極力嫌っていることを私はよく知っていたし、この世界が却って賤しさに反撥するところであることも、もうどこかで分かりかけていた。
 芸者の、私への甘やかしもいろヽあった。私の父や母に対する思惑からのサービスであったり、商売柄の儀礼みたいなのから、本当に子ども好きで無心に可愛がってくれるのまであった。
 案外、私は冷ややかな振舞いをする芸者の方が魅力的で、本当に大事にお相手してくれる芸者はうるさかった。そういうのに限って、赤ちゃん扱いされている自分を感じてしまうからであった。
 私は誰からも構われなくても、検番で充分独り遊び出来た。帳場は、当時としてなら、なかなか合理的で、小学校の職員室より立派だったろう。板敷は、顔が写るほどに磨きあげられ、子どもにとっては、かなりの広さのように思われたし、その中央に、篠山で一番大きいにちがいないと思われた大テーブルがあった。外との仕切りには、欅の一枚板でカウンターをいっぱいに連ね、正面、天井近くに、お稲荷さんを祭る神棚の大提灯が下がっていた。
私は、今でも、その大テーブルの上に置かれたものの一つゝを、はっきりと憶い出すことができる。 

黒の水引とんぼ   その11

2007-08-06 08:05:27 | ある被爆者の 記憶
 帳づけは、この検番が戦争で閉鎖されるまで、毛筆でなされたから、超大型の硯があり、その硯の水が乾いているのを見たことがない。そのわきには、いわゆる大幅帳が広げられ、その中には、子どもでも読める簡単な字が何回となく書き連ねられていた。私は勘で、それが何をあらわしているのか分かっていた。花、菊、梅など植物名が多かったが、丸の字や若の字も多かった。つまり、芸者の名と、花代を記し、料亭待合名がそれを区切っていたのである。
 私が小学校で習字が得意であった理由も、実は就学以前より、ここで芸者の名を判読し、帳づけを真似た手習いが効を奏しているにちがいなかった。
 私のこの芸者の名判読のために、学習用具がわりの役割を果したものがある。
その大きな机の前方に置かれた芸者の出勤着到盤である。芸者ひとりヽの名前が黒塗りの方形の駒の上に、白いエナメルで美しく書かれたのが、その着到盤の一番下段に並んでいる。これが、お座敷がかかると、適当な上段の欄のところに散らばり始めるのである。最高上段は「仕切り」、二段目は「通し」の欄で、そこに上がってしまうと、あとは電話がかかってきて、電話番が、その名をいくら復唱しようとも、その駒は、全部の駒が改めて最下段に並べ替えられるまで、他の欄に移し変えられることはなかった。次の三段目は「普通」で、この段に上がっている芸者には他からのお座敷から「貰い」ががかった。つまり交渉によってお座敷を移ることが出来る。もちろん、この盤上の動きが、芸者の出勤状況を示したレーダーであり、検番のまさしく目に当たる道具であることに気づいたのは、そう早いことではない。
この盤上の動きに集まる芸者たちの目も、検番の男衆たちの目も、それぞれに異様なことを私は知っていた。それだけに、検番の中で、私にとって一番興味のあるものであったけれども、この道具の使用方法を説明してくれとも言えなかったし、また、誰も子どもに教えようなど、たわむれにせよ思わなかったろう。私は検番にせっせと通って、この盤上に注がれる芸者や男衆の表情と、小耳に挿む会話のやりとりから、この道具の正体の見極めをこつこつと独習したのである。

黒の水引とんぼ   その12

2007-08-06 08:04:55 | ある被爆者の 記憶
 天井の高い検番の中の、一方の壁面の見上げるほどのところに、もう一つ芸者の名札がずらりと並べられていた。この方は、一ヶ月毎の成績順位を示していた。このことも、教えられて知ったわけではない。まず名前と顔とを一致させ、その名を、先の盤上の駒の動きの中に探し出して読み、なおかつ、あの姐さんが売れっ子なんだ、だから、壁面の名札が先頭なんだと、推理していくことは、子どもの遊びのどんなものよりも、はるかに楽しかったのである。
 それから、私にとって、もう一つ遊べる道具があった。玄関を入った平土間の脇に、三味線箱を並べた何段かの棚がある。ここの人たちは、三味線箱のことをコロと呼んでいたが、なぜそう呼ぶのか、今もって私は知らないが、その頃からなぜだろうと思っていた。そのコロの体裁には、大体二通りあった。漆塗り桐箱で、平打ち紐をかけて、所持する芸者の好みの紋とその名が、やっぱり漆で記されたり、彫りつけられたりして、見るからに和風な体裁のものと、もう一つのタイプはトランク式で、ちょっと見た感じでは、三味線箱とは気がつかない。これにはさすがに、紋も名もなかった。島田に結った芸者が、これを提げても似合うまいと思うのは誤りで、当時はこれが粋だったのでだろう。このトランク型を持っているのは、主に姐さん株のよく売れる芸者たちであった。ただし、三味線箱はいずれにしろ、滅多に、芸者自身が提げることなどなかった。それだけに、これまた、どのトランクが、どの芸者の所持品か、名のついている桐箱の方でも、紋の好みや、漆の色や、掛けた平打紐の染め分け具合などから、その芸者の人柄を、ひそかに品定めする楽しさは、私にとって無類のことであった。
 この名前と顔と、持ち物との照合遊びが、なぜこれほど楽しかったのか。当時の私は、異常なまでに、一度見た顔は忘れなかったからであろう。私にとっては、芸者は特殊な生態を持つ人種みたいな印象があった。やや長じてからは、歌舞音曲が芸者の表芸であることが分かったけれども、まず私が接触する限り、座敷での芸者ではない、昼間の一般生活者と混ざり合う時間帯においてであったから、お白粉気をおとした、それでいて一般女性とは区別のつく、まことに奇妙な表情と姿態とを持つ女性たちであった。あまりいい譬えにはならないが、長く夜行列車に乗り合わせた、朝方の真向いの中年女の顔だと言えば、少しは察しがつくだろうか。
 昼間の芸者は、どう見ても眠そうで、けだるそうであった。それがあたりが暗くなり、人の顔だけが浮かび上がる頃となると、彼女らは生気をとり戻す―、これが子どもにとって興味にならないはずがなかった。

黒の水引とんぼ   その13

2007-08-06 08:03:34 | ある被爆者の 記憶
四郎の腕に志乃とあった。私にとって、志乃はどうしても芸者の名でなければならなかった。私は検番に行き、盤上の駒を探した。壁面の名札も見た。三味線箱も見渡した。ないわけがないと思いはしても、あろうはずがないとも思えなかった。
 私は当時、父に連れられて、生まれて初めての海水浴をしているが、この時のことが忘れられないのは、どうやら、生まれて初めての海水浴の故にというより、この初めての経験が、四郎の腕にあった志乃を探すということと結びついていたことが、深い襞(ひだ)を彫りこんでいるからだと思う。
 場所は明石、まるで泳いで行けそうな淡路島が目の前にあり、今、海面を限なく赤く染めて夕日が沈む。まだ何の知識もない子どもに、淡路島も瀬戸内海の名もなかった。しかし、却って、その童心の故につかまえられた客観があったように思われる。自然はどこまでも優しくこの父子を懐に容れた。それは泳ぐということとは、全く何のかかわりもないように、海につかったまでであった。父は私を赤ん坊を抱くようにして、静かに海に体をひたらせた。こわくないよとか、海の水は塩からいよとか、何か言ったにちがいないが、その時の言葉は憶えていない。波もあったにちがいないが、私の記憶にはない。あるものは、音を失った一枚のスライドがあるばかりなのはどうしてであろう。私は、その明石の海面に照らし出された、まだ若い父親と、もちろんあどけなさが残っているにちがいない幼な子とが、相擁して見合わせた顔と顔の中に、もう一つの残影があったからだと信じ続けている。
 海浜には、この父子が脱ぎ棄てた夏の白い衣服が浜風に吹かれていた。われゝは海水浴のための用意はなかった。ほんの数刻前まで、私はもとより、父だって海に入ろうなどと思っていなかったのではなかったか。
 海水浴といっても、これは父の商用に私が伴われ、その商用後のたった一刻、父が私に与えた、思いつき程度のサービスでしかなかった。
 父と子が一糸もまとわず、海につかったはずかしさから、父は子に、子は父に、つい今しがたまでの残像を見たのではない。初めて見る海原のぬくもりといい、豊かさといい、どうしても先程まで見ていた女性を思い出さない方が不思議なくらいに、私の頭の中で一つになった。
 父もまた同じ思いでいなければならないように、私は決めてしまっていた。