ミネルヴァ書房では、ミネルヴァ日本評伝選と題した一連のシリーズについて
先人の人間知を学びなおそうという試みだと「刊行の趣意」で述べている。
私が既刊の中からまず選んだのは、『北条政子』であった。
北条政子は、私が日本史上で興味をひかれる人物の一人で
その生涯には深く共感する部分も数多く、小学生の時からの私の注目の人である。
著者は、あとがきにおいて、本書を書くにあたり心がけたことが二つあると書いている。
(引用開始)
一つは、多用した『吾妻鏡』に関して、あくまで“信頼できる伝説”との立場をとったことだ。編纂物としての『吾妻鏡』の限界性と有効性の兼ね合いを考慮しつつ叙述したつもりだ。
二つは、小説風味の叙し方に禁欲的であろうとしたことだ。歴史上の人物を考えるにあたり、虚実の皮膜の描き方が問題となる。“大説”たる歴史学の立場にあっては、時代のなかでしか個人を語り得ない。この点を出来る限り反芻しつつ、政子論を組み立てたことだ。
(引用終わり)
本書の素晴らしいところは、著者もあとがきで書くとおり、「構成の妙」にある。
序章を頭に、第1大姫の章、第2頼朝の章、第3頼家の章、第4実朝の章
第5義時の章、第6政子の章、最後は終章で締めくくられている。
周囲の反対を押し切っての頼朝との結婚
やがて大姫が生まれたが、平穏な日々は続かず
頼朝は以仁王の令旨を戴き挙兵するも、石橋山の戦いで惨敗し、安房に敗走する。
しかし、安房から鎌倉に入るまでに関東の豪族が次々と頼朝のもとに馳せ参じ
鎌倉入りした頼朝は「鎌倉殿」、鎌倉に迎えられた政子は「御台所」と呼ばれるようになった。
平家との戦いも終わり、平穏が訪れたかに見えたが
大姫を亡くし、ほどなく夫の頼朝に先立たれ、次女の乙姫も亡くす。
さらには、頼朝の後を継いだ頼家は非業の死を迎え、末子の実朝も暗殺されてしまう。
そんな波乱万丈ともいえる生涯で、最大の試練が承久の乱であった。
弟・義時が「朝敵」とされ、揺れに揺れた鎌倉の御家人たちを前に
摂関将軍を迎え「尼将軍」となった政子が
「故右大将軍(頼朝)の御恩は山岳よりも高く、溟渤(大海)よりも深い」
という名演説を行ったことはよく知られている。
それもこれも、大姫・頼朝・頼家・実朝と亡くし
「四度ノ思ハ已ニ過タリ」と語り、「権大夫(義時)打タレナバ、五ノ思ニ成ヌベシ」
と、御家人たちに結束を促さずにはいられなかったのは
「尼将軍」としての立場を越え、頼朝の挙兵からこの日まで
幕府を共に支えてきた弟を思う、一人の姉でもあったからではないだろうか。
政子の言葉として残されているものを読むと
政子は人を説得するのに長けた人物だったのではないか、と思える。
頼朝に静御前の助命をした時しかり、蹴鞠に耽る頼家を諭した時しかり
承久の乱の名演説しかり、伊賀氏事件の三浦義村への説諭しかりである。
人を説得するのに長けた政子が、心情を吐露している書状が神護寺に残されている。
その一文が、「母が嘆きは浅からぬことに候」だった。
「母の嘆きは深い」…、政子の、子を思う正直な気持ちだろう。
本書は、政子の生涯を追いつつ、政子の言葉が読める良書である。
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