ウィトゲンシュタイン的日々

日常生活での出来事、登山・本などについての雑感。

国の教育政策として新学期は9月に

2011-04-01 01:42:39 | 日常

友人のぽぴさんが、自宅近くの公民館に避難しているいわき市の子供達と
自宅マンションの子供達とが遊ぶ交流会を行うというので
メールのやり取りをしていたところ、私がこの度の震災があってからというもの
ダーリンとずっと考えて話してきた、新学期を9月にしたらどうかという提案をしてみた。
話はやおら盛り上がり、新聞に投稿しようということになって
A新聞の一般投稿者用のコーナーに投稿したのだが、未だに連絡はなく
恐らくA新聞の論調・論旨にそぐわなかったのだろう、2人とも没になったと思われる。
以前私の投稿が採用された時は、投稿後3日くらいでA新聞の担当者から電話があったと記憶している。
A新聞では二重投稿を禁じている。
私としては没だろうと思いつつも、今でも一縷の望みを抱いているため
ここでは論旨を同じくして、ぽぴさんの考えなども交えて提案することにしよう。


地震・津波で被災した子供達や、原発の避難区域に該当し避難を余儀なくされている子供達
屋内退避区域で外出も儘ならない状態で過ごしている子供達はもちろん
被災地ではない地域の子供達の新学期は、全国一律9月にすることを提案する。
目前の4月新学期に「間に合わせられる」地域と、「間に合わせられない」地域で格差が生じる。
遠方の親戚を頼るなど間に合わせられる地域の学校に「通える」子供と、「通えない」子供で格差が生じる。
たとえ校舎があったとしても、学校を営む場所がない。
現在、被災地では被害を受けなかった学校施設は避難所になっており
そこで生活している大勢の方がいらっしゃるのだ。
各地方自治体の方針もまちまちで、その対応に追われて右往左往するのは
現場の教員のみならず、我が子にできる限りのことをしたいと考えている親も同様だ。
市立の小中学校は市の方針、県立高校は県の方針、ならば私立学校は経営者の方針?
さらには避難者の受け入れ先の自治体でも、その地域の学校に編入可能なところと
未だに方針が定まらないところがある。


半年間あれば、現時点よりは落ち着きを取り戻しているだろうし
住まいや仕事について、また将来について考える時間も取れる。
学校に行くのを心待ちにしている子供達には、9月までの間教科としての勉強などせずに
青空学級でも寺子屋でも避難先の学校でも、信頼できる大人(いると信じて)の元で集い
体を動かし、声を出して、お互いの顔が見られるだけでも良い。
被災しなかった地域の子供達は、新学期が始まるまでの半年間で
年少の子供は避難してきた子供達と友達になるも良し
高校生や大学生はボランティアに行くも良し、子供達のリーダーになるも良しだ。
8歳は8歳なりに、17歳は17歳なりに出来ることをすれば良い。
被災していない子供達に、他人事ではないと感じてもらえるだけで良いのだ。
被災の有無、さらには避難先の状況によって学ぶ機会に不公平が生じないよう
文部科学省(首相がしてくれるなら首相でも良い)には、叡慮・英断を切に望むものである。


太平洋戦争で疎開を余儀なくされた私の母は、終戦後に帰京するための切符を入手できず
3か月後にやっとの思いで疎開先から帰京し、女学校に戻った時には
既に先に帰京できた生徒達で授業が進められており
取り残された焦りと授業についていけないもどかしさとで、勉強をする気力を失ったと話している。
せっかく終戦を迎えて、学ぶ意欲と希望に満ちて帰京したのに
3か月の学力差に愕然とせざるを得なかったという現実は
母にとってつらいものであったと想像に難くない。
結局、新制高校になってからも、そのときの学力差が埋まることはなかったそうだ。
そのようなつらい思いを、今、被災した子供達にさせて良いのだろうか。
未来を担う次世代の教育にも、十分な配慮があるべきと切に望むものである。
特に日本では学校も就職も、4月という区切りがかなり重大な区切りであって
そこでちょっと踏み切りを間違えようものなら、その後挽回することがとてもとても難しい。
このことについては、私は痛感している。
もっと日本の社会が、この区切り以外でも掬い上げてくれるような社会であったら
「就職氷河期」という言葉もなくなるだろう。
「氷河期」を作り出しているのは、なにも不景気ばかりではないし自己責任でもない。
ある特定の時期に、ある特定の年齢層だけで、就職のために膨大なエネルギーを消費するからだ。
そしてそこからこぼれ落ちれば、掬い上げられることなど滅多にないわけで
こぼれ落ちた重みでまさに「氷河」となるのだ。


私も、この新学期を9月にしたらどうかという提案に賛同してくれたぽぴさんも
考えれば考えるほど、何が良いのかわからなくなりそうな重い問題である。
誰の立場に立つか、被災した子供、その親、学校を避難所としている人
震災の被害を全く受けていない地域の子供、その親、教師…
それぞれの立場で答えも異なるだろう。
悩むぽぴさんに私は伝えた。
私はこの問題を、自分が文部科学相、もしくは首相だったらどうするか考えて答えを出したと。
もちろん、各々の立場で答えが異なるのだから、自分の意にそぐわない場合は不満も出るだろう。
それは覚悟の上だ。
再三言うが、その人の置かれた状況によって、ましてや天災(原発は人災)によって
学ぶ機会に不公平が生じてはならないと考える。
もし皆さんが首相だったら、この問題、どう考えるのだろうか。



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2 コメント

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賛成です! (石井逸郎)
2011-04-12 17:04:21
ついに新学期が始まってしまいましたが、そもそも、無理に始める必要はなかったように思います。
東北や関東の給食の安全性は確保できているのでしょうか?放射能にまみれた牛乳や野菜を使ったりしていないのでしょうか?
大人と違って、子どもの場合、基準値はさらに厳格に考える必要があったはずです。

大学も、外国人講師は本国に帰ってしまって、準備ができていない、という話のようです。

長い人生です。
原発の帰趨がわからない以上、焦る必要もないように思うのですが。
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「バスに乗り遅れるな」 (ぴすけ)
2011-04-12 21:50:06
石井さん、お忙しいところお越し下さいまして、ありがとうございます。
私も、無理に4月に新学期を始める功よりも、そのことによって格差が広がったり安全性の問題を残したままの罪の方が大きいと考えています。
一昔前どころではない昭和前期、いまや70歳代の方が記憶しているだけかもしれませんが、「バスに乗り遅れるな」のスローガンが力を持ったことがあります。
その時は、「非国民」といわれることを恐れ、村八分になることを恐れ、常に隣人の顔色と動向を窺いながら、マスコミに煽られ群れてなだれて戦争へと突入し、深みにはまっていったわけですが、時代は21世になり、状況が違っても、日本人の思考と行動の形式は大して変わらないのだなと思わせられます。
「バスに乗り遅れるな」の「バス」の部分は、そこに隠された意味があるわけで、それが「アメリカ」だったり「減反」だったり「原子力開発」だったり「お受験」だったりするわけです。
多分バスには「お受験号」とか「原子力開発号」とか、その程度の標識は掲げてあるのかもしれませんが、皆が乗るから自分もと慌てて乗ったそのバスの行き先は、誰一人として知らなかったりするのではないかと思います。
私の友人がブログで「遠目に青信号を見つけて無意識に駆け出すようになれば、私も都会人の仲間入り」などと皮肉って書いていますが、「バスに乗り遅れるな」もそれと根っこは一つです。
もう焦って、バスを追いかけることはやめた方が良いと思います。
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