ウィトゲンシュタイン的日々

日常生活での出来事、登山・本などについての雑感。

「効率」「便宜」もそうだけれど

2011-06-11 23:56:21 | 日常

私は村上春樹(以下、敬称略)の作品を読んだことがない。
そのため、作品を通して村上を知る機会もなければ
興味もないのでメディア媒体に登場する村上を逐一チェックするようなこともなく、今日に至っている。
以前、村上作品を愛読する友人から「ぴーちゃんにも村上春樹は読めると思う。」と言われ
本屋でパラパラとめくってみたものの、私の読書の趣味とは合わないと感じた。
友人が「ぴーちゃんにも読める。」と言っていたのは、作品を味わい共感できるということではなく
日本語で書かれている作品であれば、文字通り読めるということだったのかも
もちろん、その時も、それ以降も、彼の作品を買っていない。
なぜ村上が「ノーベル賞候補」ともてはやされたり、新作を発表すると瞬く間に売り切れるのか
私にはよくわからないが、それだけ知名度が高く愛読者層が厚いなら
村上の発言や行動には、一定の影響力や話題性があるものと考えられる。


そんな村上春樹であるが、さすがに2009年のエルサレム賞の受賞
この度のカタルーニャ国際賞の受賞での、記念スピーチは
各局のニュースでもその一部が放送され、私も見聞きした。
特に、カタルーニャ国際賞の受賞スピーチは、「原発批判」の内容であるとして
いろいろなメディアで紹介された。
全文はこちら。
http://mainichi.jp/enta/art/news/20110611k0000m040017000c.html
http://mainichi.jp/enta/art/news/20110611k0000m040019000c.html
このスピーチによれば、日本人は「無常」を「民族的メンタリティー」として持っていて
「なぜか、もともとあまり腹を立てない民族」らしい。
どうやら私は彼から見たら、日本人ではなくなってしまうようだ。
国籍上の日本人が共通した「民族的メンタリティー」を持っているだなどと言うのは
琉球やアイヌのことを考えれば、そう簡単に言及できないはずだ。
それを「民族」論で語るのは、言葉を扱う作家として、軽率すぎると感じる。
カタルーニャ国際賞受賞記念スピーチの「原発批判」も
エルサレム賞受賞記念スピーチの中東情勢への政治的な(香りをほんのり漂わせた)内容も
全て海の向こうでなされたことだ。
海の向こうでのスピーチが、そこそこ話題になるくらいの力を村上が持っているのだとすれば
そしてそれを村上自身も自覚しているのだとしたら
是非、日本国内で「原発批判」をしてもらいたいものだ。
もしかしたら村上は、何らかの手段を使って発信しているかと思い調べてみたが
ツイッターしか行き当たらなかった。
ツイッターの内容は、スピーチの内容とはかけ離れたもので
私にとってはもう見たくもないようなつぶやきばかりだった。
ツイッターに「一般論をいくら並べても人はどこにも行けない。」とつぶやく村上さん
「民族的メンタリティー」だとか「「民族」で日本人を語るのは
「一般論」ではないのでしょうか?


おっと、村上春樹批判になってしまった
私は、彼のスピーチが全て駄目だなどというつもりはない。
確かに、「効率」や「便宜」は行き過ぎれば災厄を招く。
だが、必ずしも「効率」を追求することが今日の状態を招いたわけではないと思う。
私は、「効率」や「便宜」よりも、過度の「贅沢」や「カネ(ほしさ)」が災厄を招いたのだと考える。
行き過ぎているかどうかは、「足るを知る」ことが出来ない限り、なかなか気が付かないものだ。
人によってそのものさしは異なるだろうが、命を維持することを基本にすれば
「足る」ということについての考えも、より具体的になり、深まるのではないだろうか。
だからといって、生命を維持できれば「足る」ことになるかというと
必ずしも一概にそうとは言い切れないから、塩梅が難しいのだ。
充足していることが当たり前の状況で生きていると、不足することには敏感でも
それが過度の充足かどうかを考える機会も、見極める目も持てない。
あとは「覚悟」の問題だ。



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