7月11日(火)、『ヒトラーへの285枚の葉書』を観た。
原作は、ハンス=ファラダの『ベルリンに一人死す』で
ゲシュタポの記録文書を基に、わずか4週間で書き上げたと言われる小説。
ヒトラーやナチスに対する不信や抗議を、ペンと葉書だけで命懸けで訴えた
ハンペル夫妻(オットーとエリーゼ)という実在の人物をモデルにしている。
映画では、ハンペル夫妻はクヴェンゲル夫妻(オットーとアンナ)になっている。
あらすじは…
フランスがドイツに降伏した1940年6月
ベルリンのアパートに住む夫婦・オットーとアンナのもとに一通の封書が届く。
それは一人息子・ハンスが戦死したという知らせだった。
二人は心の拠り所を失い、悲しみのどん底に沈むが
ある日、ペンを握り締めたオットーは「総統は私の息子を殺した。あなたの息子も殺されるだろう」
と、ヒトラーへの怒りを葉書に記し、それを街中に置いた。
アンナもオットーの活動を知り、二人で行動を共にするようになる。
同じ志のもとで覚悟を決めたオットーとアンナの結びつきは深まるが
置かれた葉書が次々と通報されたことで、ゲシュタポのエッシャリヒ警部が捜査に乗り出す…。
というもの。
ぜひ、映画館でご覧になることをお勧めする。
私は、原作も読んでみようと思っている。
映画を観て感じたことはいろいろあるが
自分だったら、主人公であるクヴァンゲル夫妻になることは比較的たやすい。
肉親の死に対する怒りが発火点になるかどうかは微妙だが
人の死によって何かを実現させようとする体制に対して抵抗活動をすることに
私自身の躊躇は少ない方ではないか、と考えるからだ。
もしかしたら、憑かれたように葉書を書くかもしれない。
一方、ナチスの大佐で、体制にどっぷり浸かったプラルのように
権力を笠に着て暴力で支配することも、比較的たやすい。
どんな集団でも、集団には狂気が孕んでいる。
私がその狂気に酔うようなことはない、とは断言できないからだ。
ならば私がゲシュタポのエッシャリヒ警部だったらどうしただろう。
映画では、エッシャリヒ警部は、部下が誤認逮捕した容疑者を釈放したことで
プラル大佐に厳しく咎められたばかりか、暴力を振るわれたうえに
一刻も早い犯人逮捕と早期解決を迫られる。
エッシャリ警部は、誤認逮捕した容疑者を犯人としてでっちあげ
射殺した挙句に自殺であると報告したのである。
私だったら、体制上層部の圧力と暴力に屈せずにいられるだろうか。
エッシャリヒの立場に自分の身を置くことはかなり苦しいことで
最後の幕切れを観ても、苦しさは増すばかりだった。
結局は、体制におもねって追従し、自己の内の真実を捨てて屈服すれば
それは尊厳を捨てた自死も同じであるばかりか(尊厳のための自死もある、と私は思う)
自死しながらも保身のために他人をも殺すことを厭わない化け物に成り下がるのである。
そして、そのような化け物を量産するものの一つが、戦争なのだ。
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