私は、マラン・マレの「パリの聖ジュヌヴィエーヴ・デュ・モン教会の鐘」という曲が好きだ。
未だに曲名をちゃんと言えないけれど。
(ちゃんと憶えていないから、「マラン・マレのアレ。聖ジュヌ何とか教会の鐘」という、年寄りみたいな言葉になる)
そして、ある時、「めぐり逢う朝」という映画の中でこの曲が使われている、ということを知った。
更に、この映画、どうやらマラン・マレが登場するらしい。
これは見るしかない。
ということで、見てみむとして見るなり。
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蔦谷からDVDを借りてきて、パソコンに入れる。
すると、最初のシーンでこの曲が流れてくる。
宮廷楽団がマラン・マレの前で合奏しているのだが、
何とも緩慢なテンポ、全然揃っていない野暮ったい響き。
あーあ。
期待ハズレだよ。
映画の中でも、マラン・マレ先生が怒っている。
「もういい、なっておらん」とばかりに、
演奏を中止させて、説教を始める。
曰く、音楽には陰が必要だ、と。
そして、自らヴィオラ・ダ・ガンバを弾きながら、
彼の師コロンブについて語り出す。
こうして、物語は始まる。
つまり、マラン・マレについての映画だとばかり思っていたけれど、
実は、マレは登場人物兼ナレーターに過ぎず、
主役はその師サント・コロンブだったのだ。
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サント・コロンブという人物については、実は、あまりよく分かっていない。
現在分かるのは、
ヴィオールの名手だったということと、
宮廷にはつながりがなく、在野で二人の娘と共に音楽会を催していたこと、
そして、その弟子にマラン・マレがいること、くらいである。
だからこそ、フィクションの幅が広く、音楽観を語らせることができる。
この映画の中では、コロンブは、早くに妻を亡くし、
以来、娘と共に隠棲した人物として描かれている。
偏屈で、宮廷から使いが来ても、椅子を振り回して追い返す。
そして、夜な夜な、一人でヴィオールを奏で、至高の音楽へと登っていく。
世俗から離れた孤高の人、というか、変態。
自分は一人で、お金も儲けず、ひたすらに音楽を究め、
二人の娘は生活のために農作業してる。
娘さん達、チョー迷惑。
マレを弟子に取るけれど、
雨の音や立小便の音から音楽性を見出させようとする変態っぷりを発揮して、
マレ、大弱り。
更には、マレが宮廷で出世した途端に、「破門」。
マラン・マレ、チョー可哀想。
それでも物語は進み、
最後のシーンで、コロンブはマレにこう教える。
「音楽は、死者への慰めだ」と。
ド変態。
マレも、それを理解する。
ついでに、死者を見えるようになったりもする。
こいつも変態。
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こうして、コロンブがかなりの超俗的変態として描かれているのだが、
これを見ていると、なんとなく、東文研の某変態准教授を思い出す。
凡そ世俗のことに興味がなく、ひたすら本を読み続ける。
古い本のスキャンを取る時には、「紐の質感」にこだわる。
こないだは、「鄭玄の経学は、絶望から生まれた」と言っていた。
変態。
変態。
コロンブみたい。
というか、そのうち、自分も、マレみたいになるのかな。
ああ怖い怖い。
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ともあれ、
「パリの聖ジュヌヴィエーヴ・デュ・モン教会の鐘」を聴こうと思って借りただけだったのに、
曲自体は全然面白くない中途半端な演奏で終わった。
しかし、それを犠牲にして始まった物語が、思いのほか面白い。
栄光を窮めたマレの語り口が、良い感じに枯れている。
何より、コロンブが、ド変態。
これは、良い映画だと思う。
未だに曲名をちゃんと言えないけれど。
(ちゃんと憶えていないから、「マラン・マレのアレ。聖ジュヌ何とか教会の鐘」という、年寄りみたいな言葉になる)
そして、ある時、「めぐり逢う朝」という映画の中でこの曲が使われている、ということを知った。
更に、この映画、どうやらマラン・マレが登場するらしい。
これは見るしかない。
ということで、見てみむとして見るなり。
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蔦谷からDVDを借りてきて、パソコンに入れる。
すると、最初のシーンでこの曲が流れてくる。
宮廷楽団がマラン・マレの前で合奏しているのだが、
何とも緩慢なテンポ、全然揃っていない野暮ったい響き。
あーあ。
期待ハズレだよ。
映画の中でも、マラン・マレ先生が怒っている。
「もういい、なっておらん」とばかりに、
演奏を中止させて、説教を始める。
曰く、音楽には陰が必要だ、と。
そして、自らヴィオラ・ダ・ガンバを弾きながら、
彼の師コロンブについて語り出す。
こうして、物語は始まる。
つまり、マラン・マレについての映画だとばかり思っていたけれど、
実は、マレは登場人物兼ナレーターに過ぎず、
主役はその師サント・コロンブだったのだ。
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サント・コロンブという人物については、実は、あまりよく分かっていない。
現在分かるのは、
ヴィオールの名手だったということと、
宮廷にはつながりがなく、在野で二人の娘と共に音楽会を催していたこと、
そして、その弟子にマラン・マレがいること、くらいである。
だからこそ、フィクションの幅が広く、音楽観を語らせることができる。
この映画の中では、コロンブは、早くに妻を亡くし、
以来、娘と共に隠棲した人物として描かれている。
偏屈で、宮廷から使いが来ても、椅子を振り回して追い返す。
そして、夜な夜な、一人でヴィオールを奏で、至高の音楽へと登っていく。
世俗から離れた孤高の人、というか、変態。
自分は一人で、お金も儲けず、ひたすらに音楽を究め、
二人の娘は生活のために農作業してる。
娘さん達、チョー迷惑。
マレを弟子に取るけれど、
雨の音や立小便の音から音楽性を見出させようとする変態っぷりを発揮して、
マレ、大弱り。
更には、マレが宮廷で出世した途端に、「破門」。
マラン・マレ、チョー可哀想。
それでも物語は進み、
最後のシーンで、コロンブはマレにこう教える。
「音楽は、死者への慰めだ」と。
ド変態。
マレも、それを理解する。
ついでに、死者を見えるようになったりもする。
こいつも変態。
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こうして、コロンブがかなりの超俗的変態として描かれているのだが、
これを見ていると、なんとなく、東文研の某変態准教授を思い出す。
凡そ世俗のことに興味がなく、ひたすら本を読み続ける。
古い本のスキャンを取る時には、「紐の質感」にこだわる。
こないだは、「鄭玄の経学は、絶望から生まれた」と言っていた。
変態。
変態。
コロンブみたい。
というか、そのうち、自分も、マレみたいになるのかな。
ああ怖い怖い。
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ともあれ、
「パリの聖ジュヌヴィエーヴ・デュ・モン教会の鐘」を聴こうと思って借りただけだったのに、
曲自体は全然面白くない中途半端な演奏で終わった。
しかし、それを犠牲にして始まった物語が、思いのほか面白い。
栄光を窮めたマレの語り口が、良い感じに枯れている。
何より、コロンブが、ド変態。
これは、良い映画だと思う。
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