道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

「デスティニー・ベクトル」

2010-01-05 11:16:08 | 精神文化
量子状態を壊さずに測定する「弱い測定」というのがあるらしい。
前後の状態が一定のものだけを選んでデータを収集するのだから、
条件付のものではあるけれど、
粒子の存在確率が負の値を取るとか、とんでもない話になっている。

まぁ、そもそも、
「量子力学」ってなんじゃな、「子を量る力学」? お子さん抱き上げ「重くなったなぁ」なんて言う力持ちパパさん?
……という程度の文系アタマの私について行ける話ではない。
(ところで、関係はないけれど、「量を量る」という日本語は気持ち悪いと思う。)

しかし、面白かったのは、「弱い測定」の提唱者が話す宇宙観。
宇宙の始状態から現在に至る過程だけではなくて、
終状態も、時間を遡って現在に影響を与えているのではないか、という。
つまり、過去から現在までを語るヒストリー(歴史)・ベクトルと、宇宙が未来に向かってどう変わっていくかを語るデスティニー(運命)・ベクトルの両方によって、宇宙の現在の状態が記述される、という話。
そして、観察者をも含む量子的な重ね合わせによって無数の宇宙が同時に存在するのではなくて、無数の重ね合わせの中から、始状態と終状態を結び得るただ1つだけが実現している、という考えを述べている。

果たして始状態と終状態という条件から、その途中にある「現在の宇宙」(という言い方が正しいのかも微妙だが)が一つに限定されるのかは、私にはよく分からない。
ただ、粒子を用いた実験に於いて「弱い測定」が量子状態そのものの実存を確かめることができるとするならば、
多世界解釈に於いても、一つ一つの可能性の分岐ではなく、重ね合わせそのものとしての一つの「現在の宇宙」の存在を語ることができる、ということなのだろうか。
すると、その宇宙論に於いては、我々の日々の知覚は、宇宙を次々と分裂させていく「強い測定」ではなく、その重ね合わせを壊さない「弱い測定」ということになる。


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収縮して一点に潰れるのか、
最後の星が燃え尽きてエントロピーが増大し切るのか、
加速膨張が更に加速して全部バラバラになるのか。
宇宙の終状態というのはよく分からんし、それがどう今に影響するのかはもっと分からんが、
未来が過去に影響するという話は昔からよく考えた。

最初に意識したのは、15年以上昔、『ドラえもん』の第一話を読んだ時だった。
22世紀から来たセワシが、のび太の将来をマシにする、と言った時に、
のび太が、それじゃあ君が生まれて来なくなっちゃうよ、と言う。
それに対してセワシは、東京から大阪に行こうとした時、途中は新幹線でもバスでも船でも乗用車でも行けるけれど、どれを選んでも結局着く、という喩えを出して、結局自分たちは生まれてくると述べた。

しかし、これは読んだ瞬間に、おかしいと思った。
結果的にセワシが生まれてくれば後の世界はどう変化しても良いというのなら別だが、
のび太の将来をマシにするために、他に様々なものを変えてしまう。
第一、セワシは自分が貧乏だから先祖ののび太をマシにしようとして来たのに、
裕福な家庭に生まれたら、わざわざ来る必要はない。これは矛盾する。
仮に来たとしても、人格は経験によって形成されるのだから、貧乏な家庭に育ったセワシとは別人となっているだろう。

当時の私が考えた仮説は、
A=貧乏のび太、B=貧乏セワシ、A'=マシなのび太、B'=マシなセワシとして、
通常、(過去)→A→B→(未来)、と続いていくはずの時間の流れが、
タイムマシンによる干渉によって、(過去)→A→B→A'→B'→(未来)という、
「B→A'」という折り返しを一度経た流れ方になった、
というものである。
これなら貧乏セワシが生まれ、彼がのび太の将来をマシにし、マシな家庭に生まれるセワシが存在する、という条件は満たす。
ただ、これにも問題がある。
BがB'になった時、本来の「A→B→(未来)」の「→(未来)」の部分はどうなってしまったのか。そこで時間が折り返しているのだから、もう存在しないのか。それともパラレルワールドとして続いているのか。続いているのだったら、貧乏セワシは貧乏なままである(『ドラゴンボール』の人造人間篇はこのパターンだった覚えがある)。
そして、前者の場合、いろんな人がタイムマシンを使用する度に時間は折り返し続けるのだから、おそらくタイムマシンの発明以後、未来は全然来なくなる。後者の場合は、世界が無数に誕生し、一人の人間が過去に行ってから元に戻ってきても、それは類似した別の世界であり、元の世界ではその人物は「タイムマシンに乗って別世界に行き、永遠に帰って来なくなった」として認識されよう。

何年か経ってから考えた別の仮説は、実はセワシは貧乏でも何でもなくて、初めから裕福なのだということ。
A→Bなどという経路は存在せず、最初からA'→B'しかないのだが、その「A'→B'」自体が実はB'によるA'への干渉を前提としている。つまり、A'とB'は、タイムマシンによる干渉をも含めて、相互に矛盾せずに関連した一つの系をなしている。
だから、セワシはタイムマシンでのび太のところに来て「我々の未来は悲惨だ」という嘘をつき、のび太の元にドラえもんを残していくことによって、
22世紀に生まれてタイムマシンに乗って20世紀ののび太の元に来て「我々の未来は悲惨だ」という嘘をつき、のび太の元にドラえもんを残していくセワシが誕生する条件を整えたのである。

この考え方に拠れば、例えば「親殺し」というタイムマシンパラドクスは、タイムマシンで過去に行って親を殺すような子供が生まれる未来にはそもそも進まないので、「タイムマシンで過去に行って親を殺したらどうなるか」という命題自体が成り立たない。
もしもタイムマシンが発明されるとしたら、
タイムマシンによる干渉をも含んで整合する未来しか来ないのであり、
タイムマシンによる干渉をも含んで整合する過去しか起こらなかったことになる。

それはあたかも電気が、どの銅線に流れる可能性もあるけれど、結局はきちんと回路になっているものにしか流れないようなものであろうか。


もっとも、今はもう『ドラえもん』について真面目に考えるような歳でもないし、
時間についても、もう少し違う考え方を持っている。
ただ、面白い思考実験をだいぶしていたような覚えがある。

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量子的な多世界解釈の話と、タイムマシンパラドクスの話は全然違うものだが、
「デスティニー・ベクトル」という単語を見て、昔考えたことの一つをふと思い出したのである。