道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

「支那」が一発変換できない

2010-01-04 00:00:35 | 言葉
「支那」なんて言葉は普通は使わないということか。
「支那蕎麦」を「中華蕎麦」と言い換えるご時世。
しかし、戦前の論文を引用するような我々にとっては少し不便。
いや、まぁ、それでも辞書登録すれば良いだけなのであるが。

そもそも、「シナ」ってそんなの悪い言葉なのか、と思うこともある。
あんまり詳しくは知らないけれど、要するに「秦」から来たとか何とかかんとか、「China」が云々かんぬん、という話はよく聞く。
つまり、元々は蔑称ではないのだ。
しかし、おそらくは歴史的経緯によって、悪いイメージが付加されたのだろう。
そうしたら、やはり使うのは控えないといけない。
原義の問題ではなくて、歴史的問題。


「盲人(これは一発変換できた)」はまだギリギリセーフらしいけれど、
「めくら(「盲」に一発変換できない)」と言うのはアウトらしい。
これも要するに、軽蔑する文脈で使われ続けた経緯があるからだろう。
今後の我々の意識次第では、「視覚障害者」というのも差別用語として別の語に言い換えられる日が来るかもしれない。


そういえば、「碍」を常用漢字にする案は通らなかったらしい。
だから、「障碍者」は今後も公的には「障害者」とか「障がい者」と書き続けることになる。
「碍」と「害」では意味が少し違うのだけれど、仕方ない。言葉はこうやって役所の都合でも変わっていくものなのだ。
「恢復」を「回復」に書き換え、
「疏通」を「疎通」に書き換え、
それぞれその時には反対意見があっただろうが、今の我々の感覚では「回復」「疎通」が当たり前になっている。

字自体の改変もまた然り。
元々異なる字だった「芸」「藝」、「余」「餘」、「予」「豫」、「弁」「辨」「辯」はそれぞれ一つの漢字にまとめられたが、
今更書き分けろと言われても、大変。

音通や形の類似で用字や言葉が変わっていくのは大昔からのことなのだから、伝統やら原義やらを持ち出して、古きに帰れと主張する気はあまりない。
それよりも、今の字体で入力したものを、後から「やっぱり旧字の方がかっこいい」とか何とか言って、よく知りもしないで置換をかけて、本来「余」であるべき字まで「餘」にしてしまうことの方がオソロシイ。


しかし、それでも美意識というのはあるべきだと思う。
今回、「聘」も通らなかったらしい。
以前ロシア人の友人を日本に呼ぼうとした際、外務省に提出を要求された書類が「招へい書」。

「招へい書」

文書の一番始めの一番目立つところに一番大きな字で
「招へい書」

……かっこわる。。


思わず「招聘書」に書き換えたくなったが、末端でも公式文書なので、フォーマットに従って「招へい書」にせざるを得ない。

これはかっこ悪い。
このかっこ悪い名前の文書が、年間膨大な数作成されている。しかも、それはおそらく外国人に見られる書類として。――国の恥。
ちょっと何とかして欲しいと思う。書き換えでも何でもいいから。