6月18日は「日本人ブラジル移住 112年」の記念日でした。
1908年4月28日 ブラジルへの移住希望者721人を乗せた「笠戸丸」は神戸港を出発。
約2ヶ月かけて太平洋を横断。
同年6月18日 サントス港に到着しました。
移住者の多くは広いブラジルの大地での農業を夢見て来たのですが、実際には奴隷制度廃止後 不足した労働力を補うための人材でしかなかったのです。
夢を抱いてやって来た移住者を待っていたのは 過酷な労働、十分とは言えない生活環境、言葉が不自由なことによる様々な問題でした。
多くの移住者の方が農地を離れ、ある人は別の職業につき、別な人はブラジルを後に別の国に移り、また多くの家族が日本に戻っていきました。
その後 戦争で一時中断したものの、この政府主導の移民政策は1980年頃まで続きました。
初期の農業移住は家族移住が多かったですが、後期には「技術者移住」が取り入れられたため、多くの独身青年たちが参加しました。
我が家の夫もこの「技術者移住」によってブラジルに来ました。
ただ、どの時代を通じても移住者が定住するということは難しいかったようです。
政府機関発表では平均50%と言っていますが、実感としては30%程度なのではと思います。
その分 「同船者」意識というのはかなり強いように感じられます。
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最初のコーヒー農場に移住してきた人たちに話を戻しましょう。
大きな袋の中は コーヒーでしょうか。
この時代の方が歌った俳句で 大好きな句があります。
ブラジルに来て 初めて「コロニア文学」というものに触れてから、ずっと忘れられずに心の底にある句。
作者の方のことも、この句が作られた背景もわからないのですが...
「夕ざれや 樹木かげに泣いて 珈琲もぎ」 飄骨