日々雑記

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予科練のこと

2014-02-15 21:27:00 | 日記

予科練(海軍飛行予科練習生)といえば私たち太平洋戦争中の小学生にとってあこがれの的でした。七つボタンの制服を着た凛々しい姿にあこがれました。東宝映画「決戦の大空へ」はいやがうえにも小学生の憧れを膨らませました。この映画の主題歌「若鷲の歌」は私たちの愛唱歌の一つでした。「若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨、今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃでっかい希望の雲がわく・・・・・・」という歌詞は今も諳んじることが出来る。

小学生ばかりではない、中学生もあこがれました。私のすぐ近所の中学生は、社長の息子さんでしたが、毎日野球の練習をばかりしている少年でしたが、中学在学中に予科練に入隊しました。隣組では壮行会をして見送りました。先年その中学生の弟さん、私の同級生で仲良しでしたが、”秀ちゃん”に会いました。60数年ぶりの再会でした。その秀ちゃんの話によると、お兄さんは敗戦後無事に復員したそうです。それを聞いて、60年あまりも気になっていたことがわかってほっとする気持ちでした。

予科練については、これまで断片的には読んでいたが、最近高野邦夫氏の書かれた「特攻隊と『学徒出陣』」(「前衛」2014年月号)を読みあらためてその無残な姿に驚きました。この論文は表題通りの内容ですが、予科練に関する部分だけ紹介しましょう。

予科練は1930年(昭和5年)から45年(昭和20年)まで15年間募集されました。15年間の入隊者は241,500人、終戦時の在隊者約22万人余だということです。戦死者数については、詳しいことは分からないそうですが、19,000人から20,000人と推定されているそうです。

予科練には「甲飛」「乙飛」「丙飛」があり、入隊前の学歴によって区別されていました。

「乙飛」は、最も早く出来、小学校高等科卒(14歳)以上で入隊し、3年間の中学校程度の普通学教育の後、10年かかって下士官最上位の飛行兵曹長になり、さらに特務士官になりました。中学校に進学できない少年たちには勉強ができる場所として魅力的なところでした。特に英語を学べることが魅力だったそうです。また士官(将校)への昇進の道があることも魅力的だったそうです。

「乙飛」には15年間に87,000人が入隊し、戦没者は約5,000人といわれています。

「甲飛」は、1937年(昭和12年)に新設されました。中学校4年1学期程度以上で入隊しました。普通学教育を短縮するために設けられたそうです。8年間に14万人が入隊し、6,800人が戦没しました。

「丙飛」は、一般の志願兵から選抜されました。7,300人が入隊し、5,500人が戦死しました。戦死率は何と75.4%だったと言うことです。期によっては戦死率が88%に達したということです。

筆者の高野邦夫氏によると、この少年兵たちの戦死はほとんど特攻隊として出撃したためだということです。飛行機に爆弾を積み、敵の軍艦や飛行機に体当たりをさせたのです。10代の少年たちに自殺を強制したのです。

戦死しないで敗戦時に22万人もの隊員が残ったのは、このころ訓練用の飛行機もガソリンもなないのに大量募集をしたためだということです。この人たちは本土決戦に備えて土木工事(壕掘り)に駆り出され、”土科練”と自嘲していたそうです。また戦後は価値観の大転換についていけず、自暴自棄になり、”予科練崩れ”、”予科練帰り”とさげずまれることになりました。

この国は少年兵たちを使い捨てにしたのです。無慚なことです。繰り返してはならないことです。

 

 

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