また新聞の引用で恐縮ですが、今日の朝日新聞に出ている「オピニオン」を紹介したくなりました。
ゼネラルエレクトリックの社員として、福島原発に関与した原発技術者として記者に問われて語っている。技術者としての信念、反省。東京電力の対応について。政府や東電の対応への失望。原発輸出への批判。「(輸出より)廃炉だ」との言葉は重い。
名嘉幸照(なかゆきてる) 1941年生まれ。GE技術者として福島に。プラントの設計・保守・点検に携わる。1980年、東電の協力会社、東北エンタープライズ設立。現会長。
以下は朝日新聞の記事の抜粋です
技術者が見る原発事故 名嘉幸照さん
沖縄で生まれ、移り住んだ福島を終(つい)のすみかとした名嘉幸照さんは原発技術者の草分けだ。東京電力福島第一原発の事故から2年余りたっても廃炉作業、避難民への対応、地域復興は遅々として進まない。にもかかわらず、現政権は原発の再稼働や海外輸出に歩を進める。福島原発に40年関わってきた名嘉さんは訴える。「それでいいのか」
「福島で40年間、原発と共生してきた。だが絶対に守らねばならない安全を守りきれず、大切なふるさとを壊し、国民に迷惑をかけた。その責任は強く感じている」
「俺は小さな島の漁師の子。高校まで沖縄にいたが、米国の統治に反発して学生運動をしたせいで東京に行かざるを得なくなった。その後、船の機関士の免許を取り、貨物船で世界を回った。そこで同僚だった原子力潜水艦の経験がある米国人に米ゼネラル・エレクトリック(GE)に誘われた。原子力は入社してから猛勉強したよ。福島で採用されたBWR(沸騰水型炉)のオペレーターの免許もとった。GEの教科書を日本語に訳し、東電のBWR訓練センターの最初の教科書になったんだ」
「福島第一の2号機が試運転、6号機が建設準備中だった1973年に福島県に来た。以来、原発建設のアドバイス、システムの保守・管理など、原発技術者として働いた。世界を見て回り、資源が乏しい日本には原子力しかないと信じていた。仕事には誇りを持っていたよ」
「リスクは常に感じていた。GEの設計ミスも含め、幾つかの異常な事態も経験した。なかでも、88年の暮れに第二原発3号機の再循環ポンプのインペラー(回転翼)が壊れ、炉心に金属片が入った事故は忘れられない。ポンプやモーターの異常な震動を感知し、出力を下げるよう東電に進言したが、『年末で無理』と言われ、夜も寝られなかったよ。1カ月、しつこく言い続け、発電を止めた時はホッとした。高速の破片が、炉心に直結する配管を破断するのを恐れたんだ。格納容器の破壊につながるからだ」
「BWRは、事故があると相当熟練していないと対応できない設計だ。五感を研ぎ澄ませ、現場をパトロールする必要がある。配管に触れ、震動や温度に異常がないか、確かめることもあった」
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「第一原発の吉田昌郎所長ら東電社員は事故直後、一生懸命やったと思うし、現在も頑張っている。ただ現場に精通した社員が少なくなっていたのは確かだ。70年代は現場で仕事をした東電の技術スタッフが多くいた。でも80年代以降、経営効率ばかりに目がいくようになったのか、現場は業者やメーカーに任せきり。大事故が起きると警告し続けたが、力足らずで……」
「(大震災のときは)富岡町の会社にいた。第二原発にいた社員に電話をしたら、なんとか電源は確保できると。だが第一原発は海水ポンプが『5円玉(標高5メートル)』にあり、津波でアウトだと思った。重要免震棟にいた社員からの電話で『冷却設備、全滅!』と聞いたときは、絶望的な心境だった」
「格納容器が破壊されなかったのは幸運以外ない。原発は安全という自信過剰。事故を隠し、国民からのプレッシャーを受けずにすんだことによる甘え。我々はそのつけを一気に払わされたんだ。東電や政府の事故後の危機管理には失望している」
「(第一原発の現状)原子炉は仮設システムで冷温の状態を維持している。仮設配管の少々の水漏れは織り込み済みだと思うが、建屋内への地下水流入と汚染水処理にはてこずり、廃炉作業に入れないでいる。うちの会社も廃炉を助ける技術の提供はしているが、先行きの見通しは立たない」
「(政府は経済成長のため原発を輸出すると言っているがーーとの問いに)原因究明も含め、事故の後始末はまだ途中。なのに原発を再稼働、あるいは輸出するなんて、あり得ない。原発は、放射性廃棄物や使用済み燃料をどう処理するかが大切だ。国によってはテロ対策も重要になる。国内でもそれが満足にできないのに、輸出するのは理解できない」
「それより廃炉だ。世界中の原発はいずれ廃炉に向かう。そのための技術を確立すれば、商機は十分にある。福島原発は廃炉技術を磨く場。優秀な技術者を集め、過酷な状況にある原子炉で世界一の廃炉技術を身につけるべきだ。日本では原子力を学ぶ学生が減っていると聞くが、今後、原発技術で日本を救おうという若者にぜひ、出てきて欲しい」
「(日本は原発を持ってよかったのか)原爆を体験した日本人ほど核物質に敏感な国民はいない。だが原発については、核物質を生み、負の遺産になることを考えずにきた。原発は経済成長を支えたが、経済を優先するあまり、負の側面に鈍感過ぎたと思う。原発を自由に討議できない雰囲気をつくったのも問題だ」
「原発と共生してきた私に原発の是非を語る資格はない。ただ言いたいのは、命にかかわる原子力について、国民は正しい情報を知る権利があるということだ。再稼働するにしても、それが大前提だよ」
「ここで結婚し、家を建て、墓もつくった。第二のふるさと、永住の地だ。いまは住めない富岡町の自宅から、第二原発がはっきり見えた。『監視小屋だよ』と言ったら、近所の人が『名嘉さんがいてくれるなら安心だ』って。地震後、避難所で再会したとき、『監視小屋、役に立たなかったね』と。切なくてね」
「かつて沖縄で、『俺たちは日本人ですか』と本土の人によく言った。同じ言葉を福島の人に言わせたくない。福島を見捨てられた地にしたくない。この地で原発と共に生きた技術者の、それが最後の願いなんだ」