日々雑記

政治、経済、社会、福祉、芸術など世の中の動きを追い、感想を述べたい

緊急事態条項は災害対応に必要かーーー永井寿行「憲法に緊急事態条項は必要か」を読んで(2)

2016-04-20 11:30:59 | 政治

国家緊急権が必要だという人は「災害時」のことを挙げます。巨大災害時に総理大臣に権力を集中し、人権を制限することが出来るように憲法に書き込む必要があるというのです。この点について、この本では詳細に論じています。さすがに災害関連法制の専門家です。

 

災害の際の問題の第一は災害による国政の空白です

災害によって選挙ができなくなったり、国会が機能しなくなった時にどうするかという議論があります。著者は考えうるあらゆる場合を検討しています。まず衆議院が解散している場合には、参議院の緊急集会を行うことになっています。衆議院と参議院のダブル選挙の場合にも非改選の参議院議員がいるので、参議院の緊急集会を開くことが出来ます。このように現在の憲法の中には災害時にも国会を開くことが出来るように決められていて、改正する必要はないと主張しています。

災害時の非常事態への対応のため権力を集中したり、人権を制限したりすることが必要ではないかという議論があります。この点について著者の永井氏は災害対策基本法等の法律が精緻に定めているといいます。

災害対策基本法によると、異常・激甚な災害の場合内閣総理大臣が災害緊急事態の布告を行います。これによって、国会を開くいとまがない場合緊急政令を制定できます。ただし次の四つの事項に限った政令です。(1)生活必需品の配給、(2)物の価格の統制、(3)金銭債務の支払いの延期、(4)外国からの援助の受け入れの四つです。この政令には罰則をつけることが出来ます。そして政令制定後国会の臨時会の招集または参議院の緊急集会意を求めて、国会の承認がなければ政令は効力を失います。

内閣総理大臣は国民に物資をみだりに購入しないよう協力を求めたり、関係機関に必要な指示をしたりすることができるようになります。

さらに防衛大臣に部隊等の派遣を要請したり、一時的に警察を直接統制したりすることもできます。

原発事故の場合には内閣総理大臣が避難等の指示をできるようになります。

 

災害救助法には人権の制限に関する規定もあります。都道府県知事の強制権では(1)医療、土木建築工事、輸送関係者に、救助業務に従事するよう命令を出せます。(2)災害現場にいる人に、救助業務に従事させることができます。

財産権の制限では、都道府県知事は(3)病院、診療所、旅館等を管理したり、その土地建物、物資を使用したりすることが出来ます。また物資の生産、集荷などを行うものに物資の保管を命じたり収用したりすることができます。(4)職員に施設、土地、家屋、物資を調べさせることが出来ます。

ほかに市町村長の強制権に関する規定もありますが、煩雑になるのでここには引用しません。

 

災害対策基本法について、いろいろと引用しましたが、著者はこのような細かい規定を挙げることで、災害時の対応に憲法改正は必要なく、法律だけで十分だということを言いたいのだと思います。同時に、憲法と違って法律に書き込む場合には、どのような場合にどのようなことが出来るかということを限定して書き込むことが出来るという利点があります。たとえば、内閣が緊急政令を作る場合に、上にあげた四つの事項に限る必要があります。これでは、たとえヒトラーであっても乱用は難しいでしょう。

 

こうやって検討してくると、災害対策のために憲法に緊急事態条項を書き込む必要はないのだということが分かりました。

憲法改正論者がいう「災害対策のための憲法改正」という主張は別の目的があっての主張のように見えます。

 

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ナチスは国家緊急権を使って独裁を確立した―――永井幸寿著「憲法に緊急事態条項は必要か」を読んで(1)

2016-04-19 16:44:18 | 政治

永井幸壽氏の「憲法に緊急事態条項は必要か」という本を読みました。(岩波ブックレットNo.945)

お恥ずかしい話ですが、憲法に「緊急事態条項」を入れる憲法改正が危険であり、反対すべきだということを分かっているつもりでした。この本を読んでみて、この「わかっているつもり」がいかにいい加減だったかを思い知らされました。勉強はしなければいけないのですね。

 

すべての論点についてこの本を紹介することはできませんが、私の目を開いてくれたいくつかの問題を紹介します。

 

はじめに「国家緊急権」「国家緊急条項」とはなにかという点です。

自由民主党の「改憲草案」によると

「我が国に対する 外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序 の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態」の時に、内閣総理大臣は閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができます。この宣言が発せられると「内閣は法律 と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。」

と書いてあります。

 

簡単に言ってしまえば、総理大臣が必要と考えれば、国会の審議なしで、閣議にかけるだけで「緊急事態」を宣言することができ、「緊急事態宣言」が発せられると、国会を通すことなく法律(と同じもの)を作ることができ、国会にかけることなく国の金を使うことができるようになります。さらに地方自治体の知事や市町村長に命令することができるようになります。

もっと簡単に考えれば、国民の代表であるはずの国会は何の権限もなくなり、内閣だけで何でもができるようになるということです。

 

同じような国家緊急権を憲法に書き込んだ第二次大戦前のドイツのワイマール憲法の実例が書いてあります。ワイマール憲法は最も民主的だといわれた憲法でした。なぜ民主的な憲法のもとでナチスが政権を取ることが出来たのでしょうか。ワイマール憲法に国家緊急権の規定があったからです。

1932年議会でナチスは第一党になり、翌年にはヒトラーが首相に就任しました。合法的に政権をとったのです。

その後何者かが国会議事堂に放火した際に、これを共産党の犯行だと断定し、国家緊急権である大統領緊急令によって言論・報道・集会・結社の自由、通信の秘密を制限し、令状なしで逮捕拘束ができるようにしました。

こうして多数の共産党員、社会民主党員が逮捕されました。

3月の選挙ではナチスは第一党になりましたが、過半数を取ることが出来ませんでした。共産党は81議席を取り、ほかの政党も議席を取りました。議員は拘束されたまま登院することも出来ませんでした。

この国会でナチスは「全権委任法」という法律を強行採決しました。ナチスの突撃隊という暴力部隊が国会を取り囲んだ異様な状態での採決でした。全権委任法は国会の立法権をすべて政府に委ねてしまう法律です。これによってナチスは思うままに法律を作れるようになりました。国家緊急権を発動してから一か月足らずで、ナチスの独裁が完成したのです。

このナチスとヒトラーの独裁を可能にしたことこそ国家緊急権の最悪の悪用・乱用だったと言ってよいでしょう。

ワイマール憲法は当時もっとも民主的な憲法だといわれていました。しかし、国家緊急権の条項を持っていたために、ドイツに独裁を持ち込み、世界に第二次大戦を起こし、ユダヤ人虐殺を引き起こすことになりました。

日本の憲法に国家緊急権を持ち込んだ場合に、ドイツと同じ危険を起こさないという保証があるでしょうか。考えるだけでも恐ろしいことです。

 

 

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小沢一郎、志位和夫対談を読みました

2016-04-13 15:56:48 | 政治

友人に勧められて「世界」の別冊を読んでいます。「2015年安保から2016年選挙へ」というタイムリーな表題の別冊です。

巻頭が「野党共闘が安倍政治を倒す」と題して志位和夫、小沢一郎の対談となっています。誌上で二人が対談するというだけで驚きですが、内容もまた驚きです。

まず志位委員長が安倍政権を「戦後最悪の政権」と評すると小沢代表が同じ言葉を使って同意する。また小沢代表が自民党は内政でも外交でも変質したというと、志位委員長も安倍政権は「これまでの自民党から見ても異質」と応じるという具合です。

この安倍政治に対してどう対応するかと司会者に問われた志位氏が、国民の「野党は共闘」という声にこたえるために決断したのが「国民連合政府」の提案であり、「共産党のこれまでの政策の大転換だった」と答えます。これに対し「志位委員長、共産党の決断が日本の歴史をきちっとしたものにかえていくきっかけになるんじゃないか」と応じます。

選挙協力をめぐって志位さんは、「国民連合政府」が難しいなら連合政府はいったん横において、選挙協力から入ってその中で政府の問題も話したいといいます。そうして32の一人区での協力は「できると思います」と言います。

小沢氏は「野党がみんなで力を合わせれば、一人区は勝ちますよ」と言います。「野党さえ一致協力して、大同団結して選挙に当たることさえできれば、ダブル選挙なんかいつでもどうぞという話です。」といって野党が本気で団結することを求めます。

共産党に対する注文を尋ねられた小沢代表は「もう共産党はここまで決断すれば十分だと思いますよ。・・・これ以上言ったら解散して新党を作れという話になる。・・・」「やはり共産党の側ではなく、その他の野党の器量の問題だと私は思います。」と語ります。

小沢氏は共通の政策について「安保法制はけしからん」「消費税は凍結」「原発再稼働」を挙げました。

最後に志位氏は「国民の声によって生まれた共闘ですから、国民の声によって大きく発展させていただきたい。」といい、小沢氏は「民主主義というのは、国民自身が決めるということがあって、初めて成り立つんです。」と国民が積極的に高騰することに期待を示しました。

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 小沢代表と志位委員長という二人の政治家はこれまで敵対しあい、批判しあってきた政治家です。この二人が日本の国の危機、立憲主義の危機、安倍政権という非常事態に直面して協力の努力を始めた。この動きは私たちに非常な勇気を与えることだと思います。

私たち国民も今までのいきさつを考え直して、大きな団結の輪を作り出すことを考えなければならないと思います。

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私の先生の心に一生傷を残した戦争

2016-04-07 10:27:00 | 政治

下に引用したのは昨年12月29日の西日本新聞の記事です。60年前私が高等学校で教えを受けた塚原先生への追悼文です

   「私も戦犯」被爆元教師 80歳過ぎ遺骨残る戦地へ慰霊 少年飛行兵採用試験の採点を担当

西日本新聞 2015年12月29日(火)11時26分配信

 「戦後70年」の2015年が幕を閉じようとする中、戦争犠牲者を慰霊する旅を続けてきた一人の被爆者が亡くなった。長崎市の元教師塚原末子さん(享年92)。学生時代、東京で少年飛行兵採用試験の採点を担当した体験などから「私も戦犯」と自責の念を強く抱いていた。戦跡を訪ね「あの戦争は何だったのか」の答えを探し続けていた。

 塚原さんは17日、長崎市内のホスピスで息を引き取った。最後に会ったのは、塚原さんの誕生日の10月19日。差し入れたケーキを見てつぶやいた。「フィリピンにいくつもりだったの。誕生日祝いじゃなくて、慰霊の日なのよ」。71年前のそのころ、レイテ沖海戦が始まった。
 80歳を過ぎて慰霊の旅を始めた。アリューシャン列島、ミャンマー、サイパンなどを訪れた。戦時中の重い記憶が塚原さんを突き動かした。
 太平洋戦争開戦の1941年に故郷・長崎を離れ、東京女子師範学校に進学。戦況が悪化していく中で、少年飛行兵採用試験を採点することになった。志願する10代の少年の答案用紙には、血の文字があった。「是非(ぜひ)、採用してください」。軍の担当者に「こういう人から採ったらどうですか」と進言した。
 東京・明治神宮外苑のグラウンドであった学徒出陣壮行式にも参加した。降りしきる雨の中、東条英機首相(当時)と東大生のあいさつ。泣きながら同世代を見送った。
 東京・赤羽の陸軍補給処に動員された時、少年に「お姉さんは人生50年と思っているでしょう。僕たちの人生は18年」と言われた。
 そんな少年たちに頼まれて軍歌を教えた。少年たちは仲間の入隊が近づくと輪をつくって、歌って踊って元気に送り出した。
 「私も戦犯ですよ。手伝いをしたから」。70年たっても消えない思いだった。

「生徒に何もできず、ただ生き残っただけ」

 長崎に戻った塚原さんは、長崎高等女学校の教員になり、45年8月9日を迎えた。爆心地から1・1キロの長崎市茂里町にあった兵器工場に生徒を引率していた。奇跡的に命は助かり、すぐに生徒を捜しに近くの防空壕(ごう)などを回った。苦しむ生徒を見つけたが、助けられなかった。
 「生徒に何もできず、ただ生き残っただけ」。慰霊の旅を続ける一方で、原爆の記憶からは距離を置いていた。8月9日の原爆犠牲者慰霊の式典に参列したのは、一度だけだった。
 10年前には乳がんを患い、乳房を切除した。被爆の影響かと考えた。長年自分を苦しめ、生徒を奪った原爆とは何だったのか。
 それを確かめるように数年前、マリアナ諸島のテニアン島を訪れた。長崎に原爆を投下したB29「ボックスカー」が飛び立った場所だった。

「自分のしたことは仕方なかったのか」と問いかけているよう

 塚原さんは、戦時中を振り返りながら「(国から)何も知らされていなかったのよ」とよく口にしていた。自宅には太平洋戦争の映像をまとめたDVD、ホスピスのベッドには戦争の話題や検証に関する新聞の切り抜きが並んでいた。資料を集め、遺骨が残る激戦地に赴く姿は、あの時代に知らされなかったことを埋め、「自分のしたことは仕方なかったのか」と問いかけているようだった。
 国会が安全保障関連法案で揺れていた6月、塚原さんに法案への賛否を尋ねた。「戦争を知らない子が政治家にいる」と批判しつつ、中国の軍備増強を懸念していた。「自国を守るための抑止力は必要」とは言ったが、明確な賛否は答えなかった。
 塚原さんへの取材を通して、私たちが何十年後かに安保法の是非について答え合わせをする時が来ることを暗示されているようにも思えた。


一つ訂正を入れますと、出身校は「東京女子師範学校」とありますが、実際は「東京女子高等師範学校」(現在のお茶の水女子大学)です。


私は昭和20年代に高校で塚原先生の国語の授業を受けました。私は、居眠りばかりする、あまりいい生徒ではありませんでした。しかし卒業後、特に最近二、三十年の間は毎年一度の同窓会のたびにお会いして話をしました。あるときには個人的にお話しする機会もありました。女高師時代のお話を伺ったことがありましたが、この記事にあるようなお話は一度も聞いたことがありませんでいた。同級生に聞いても知らなかったようです。

塚原先生もまた戦争で傷ついたひとりだったのでしょう。

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異常な日本の巨大メディア  友人が送ってくれたメモから

2016-04-03 17:45:18 | 政治

先日の私のブログを見た友人から「安倍内閣のメディア支配や狙いなど・・」と題するメモが送られてきました、とても参考になりました。

今日はそのメモの全体に触れることは避けますが、一つだけここに紹介しておきたいことがあります。友人が紹介してきた中に、志位和夫氏の「日本の巨大メディアを考える」をあげていたことです。この文章は講演の一部として発表されたものですが、パンフレットにもなっています。ホームページにも紹介されています。パンフレットを売って金を稼ぐことよりも、内容を普及させようという意図なのでしょう。

http://www.jcp.or.jp/akahata/web_daily/html/2012-media-panf-shii.html

友人は「今必読文献です」と言っています。私も発表当時(2010年)読んだことがあります。今回また読み直してみました。世界にもまれな日本の巨大メディアを国際的、歴史的に考察したいい論文だと思います。読んだことがある方が多いと思いますが、再読をお勧めしたいと思います。



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