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高橋勝著『経験のメタモルフォーゼ ー〈自己変成〉の教育人間学 』(2017.6.28)

2017-06-28 07:42:39 | 日記


こんにちは。

すっかり梅雨らしくなってしまいました。

湿気は苦手です。


さて、高橋勝著『経験のメタモルフォーゼ ー〈自己変成〉の教育人間学 』という本を読みました。大変ためになったので、ここに大胆に要約した文と私の感想をとどめておきたいと思います。(高橋勝さん、誤解していたら申し訳ありません。また、歴史的教育人間学の箇所については省略しました)


【大胆に要約しました】

 「経験」とは、人が他者、異文化、異世界などの外部と出会うことを通して、古い世界から脱皮し、自己変成を遂げていくプロセスである。そこでは経験が行き着くべき終着点、もしくは発達の頂点なるものはない。つねに流動し続け、自己変成し続けていくという経験の様態そのものが重要なのである。

 アリストテレスは経験を人間が成長し発達するための糧であると考えていた。しかし、果たしてそうなのだろうか。ハイデガーは経験を私という実体を強化するものではなく、それまでみえていなかったものが突然みえるようになることとした。経験は日常性に見通しや力を与えると同時に、日常性のベールをはぎとり、虚構性を自覚させるものである。

 「発達」という概念もまた個人の中にある実体概念としてとらえられてきた。しかし、発達もまた他者と関わりながら社会的世界に参加し構築していく関係概念としてとらえるべきである。また、発達とは「主体と環境との間にある不均衡」が「新しい均衡」にいたる過程である。つまり、子どもの生活世界の構造の組み替え、これが発達である。発達とは「社会化」や「文化化」ということではなく、子どもと世界との動的な関係の変化であり、構造そのものの組み替えであり、到達点をもたない流動し続けるこのなのである。

 近代教育学では経験を子どもの生活力の増強作用としてとらえてきた。これは負担軽減としての経験といえ、事後的に整理されたものである。しかし、経験とは時に理解をこえた他者的な存在であり、受苦的なものがある。この受苦性をもつ経験からこそ学ぶべきである。古代ギリシアの格言に「受苦せしことは、学びなり」というのがある。また、これまで経験は「未知→既知」と考えられてきた。しかし、そうではなく経験は「既知→未知」ととらえるべきである。
 
 学校は秩序と均質の空間である。つまり闇の部分がないのである。だが子どもは闇というエネルギーを持っていて、ここに異物(カオス)が入ったとき、この異物をもて遊びながら既存の秩序にねじこませようとする。これが「いじめ」である。教室で秩序や均質を求めている限り、いじめはなくならない。

 こどもが生きられる空間は失われつつある。子どもが求めるものは、冒険・異文化・他者・無秩序・隠れ家・スリル・カオス・偶然性・即興生・路地裏・迷路・さすらう等である。最近はこれらがすっかりなくなってしまい、子どもたちが生きられる空間が失われつつある。子どもにとって必要なのは、多元的な価値観があり、流動性と関わりに満ちた空間である。しかし、高度情報社会は、生活者感覚を奪っていく。他者や自然と関わり合い、五感を刺激し、ファンタジーや異世界を取り入れることが求められるであろう。

【私の感想】
 経験も、発達も、到達点があるのではなく、変化し組み替えていくということというとらえ方は全くありませんでした。子どもに行事などで何かを経験させるということは、子どもに体験をつみあげてやるという感覚で考えてきました。何もない袋に経験という名のいい物を詰め込んであげていると信じ込んでいましたね。そして、その経験の積み重ねの先に発達があると信じ込んで・・・。でも、それは思い込みであり、幻想だったと感じます。
 また、教員として、結果がうまくでなかった子どもに対して「結果がすべてじゃない。過程が大事なんだよ」とも言ってきました。しかし、過程が大事なのではなく、「(変化し続ける)過程しかない」ということなのです。
 もちろんこの著作のすべてを受け入れるわけではありませんが、凝り固まった頭にはとても刺激になりました。大変勉強になりました。ありがとうございました。

以上です。

本日もお越し下さりありがとうございました。