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石田のおとうさんの想い出 渡辺 省吾

2009-07-17 13:38:14 | 特集 石田達郎 石田のお父さん !
石田のおとうさんの想い出          


渡辺 省吾
 

おとうさんと初めてご縁ができたのは、ニッポン放送開局を間近に控えた昭和29年の7月13日だったと思います。とにかく親しみやすい感じを受け、こんな上司だったら、さぞ、よい職場になるなと思いました。それから私は5年後にフジテレビに移籍し、そして昭和59年に退職後、ポニーキャニオンに籍を移しました。それ以前にも昭和47年に4ヶ月ほど浜松町でお手伝いをさせて頂いたことがありますが、又再び私は、おとうさんが提唱されたホームビデオ5千億円産業の国際関係の仕事がらみで、お手伝いをさせて頂くことになりました。

 私は、海外へ通算21回ほど、石田さんのお供を致しました。海外旅行での数々のエピソードは、今、思い出しても懐かしく、忘れ難いものが多々あります。石田さんの先見の明の確かさや、天性のひらめき、そして独特な魅力は海外のトップの方々の関心も呼びました。

1978年12月、フロリダでメジャーリーグ・オーナーのミーティングに出ました。その頃から石田さんは、メジャーリーグ日本放映が視野に入っていました。今や名選手がぞくぞくと渡米、毎日のようにBS放送で中継が流れています。日本の野球が、メジャーリーグにとっても大きな影響力を持つ日がくることを見越されていたのでしょう。

1988年2月、ハリウッドで、アメリカン・フィルム・マーケティング・アソシエーション主催の会合に出席した時のことです。かねて同アソシエーションのローゼンフィールド社長に頼まれ、会食の席で役員たちに話をするように云われました。石田さんと私は、日本の役員会のような雰囲気を想定して、昼食をとりながらの意見交換スタイルだと思っていました。しかし蓋を開けてみると、演壇に立ってプレゼンテーションが予定されていたのです。そこでも石田さんは、臆することなくハイビジョンと今後の映画興行についての持論をぶたれました。私は、横で通訳をしたのですが、汗びっしょりでした。

1987年11月、イギリスのBBCホーム・エンターテインメントを訪問した時です。最初は、私一人で業務連絡のためにホームビデオ・セクションを訪ねる予定でした。ところが直前になって石田さんが、「俺も行くよ」と云われました。そこでホーム・エンターテインメントの担当者に「うちの会長も伺いますので、宜しく」と告げると、それではと、いきなりトップ会談となりました。初めは表敬訪問程度の予定でしたが、そこでも、おとうさんは本領をいかんなく発揮され、ハイビジョンの未来についての構想を話されました。予定は一時間あまりオーバーして、ホームビデオの担当者たちを待たせてしまいました。おとうさんの構想は、いつもこうして大きな輪になっていきました。

仕事での顔の他に垣間見た素顔の思い出もよぎります。フランスの三ツ星レストランの食事を堪能した帰りの飛行機で「早く帰ってサンマを喰いたいな」と云われました。きっとホッと一息、里心がついたのだなと思いました。美味しいものが大好きな方でした。

1989年6月、最後の出張となったのは、スイスのモントルーでのエレクトロニック・フィルム・フェスティバルでした。ハイビジョンに関心のある各国からの人達と直に話をされました。ハイビジョンはNHKの技術から生まれたものですが、石田さんが世界にむけて、その普及に力を尽くされたのは事実だと思います。

その頃から、肩こりをしきりに訴えるようになられました。当時の私にもっと知識があれば、アドバイスなりも出来たでしょうが、急な肩こりが内臓と関係しているとは知りませんでした。おとうさんが愛用しているコランボーという肩こり用のマシンを、私にも買って頂き、喜んでいました。そして、その年の年末、声が嗄れてきて、風邪の声嗄れとはちょっと違うという感じを受けていました。

しかし翌年にも、まだまだ海外での仕事が予定されていました。北海道の映画学校構想、ハイビジョン、東京国際映画祭など、これからもより一層、展開していくところでした。
しかし、体調は思わしくなく、翌年の海外訪問先の方々との予約を次々とキャンセルして治療に専念することになりました。十数回から為る放射線治療が始まりました。
「抗癌治療はきついとは聞いていたが、頑張ったよ」と一区切りの治療を終わって云われ、弱音を口にされませんでした。ところが私の予想をはるかに越えて、病状が悪化していきました。その時でも、私はおとうさんのことだから、きっと快復する筈だと信じていました。
鋭い洞察力、磊落にして繊細、そして暖かい、こんな上司と巡り会えたのは、19回目の命日を前にした今でも、私のサラリーマン人生の宝ものだと思っております。







☆ サミエル・ウルマン 「青春」

◎ 私が石田社長に“ 青春“ “ 青春 “ って騒いでいるのは 森田健作と石田社長だけと言ったら ⇒ ウマイ事 云うな ⇒ バカヤローでした。

―――― ポニーキャニオンOB 丸山 壽敏 氏――