三行半(みくだりはん)のシステム

2011-10-28 13:32:50 | Weblog
ちょっと面白い記事があったので載せてみます。

江戸時代の女性の地位は封建時代というイメージからくるほど低かったわけではないようです。
儒教的な価値観であった中国や、キリスト教圏のヨーロッパと比較しても日本の女性は大事にされていました。
(欧米のレディファーストの起源とか恐ろしいです)
女帝(女性天皇)もいますし、鎌倉時代までは男女平等の相続権がありました。
(その後、男性…というか跡継ぎにのみ相続が認められるようになったのは、
中国の儒教の影響と、すべての子供に財産を均等相続すると、資産が分散して権力を維持できなくなるからと言われています)
また、かかあ天下という言葉にあるように、日本では一家の中心が女性ということも珍しくありません。
男女が一緒に歩くことも昔から珍しくありませんでした。
江戸時代、通信使(今で言う外交団)として日本を訪れた中国の役人が残した日記がありますが、
「日本では男女が平気で一緒に道を歩いたり、妻が夫に何かを指図したりすることが平気で行われている。なんて野蛮な国だ」という意味の記述があります。
儒教的な価値観からすれば、男女が対等に話をする日本は野蛮国だったようです。

また、江戸時代の日本では女性から離婚する権利もみとめられていましたし、有名な三行半(みくだりはん)というシステムがあります。
三行半というのは、再婚するときに前夫が再婚の邪魔をしないように、妻が離婚する夫に対して「この女性とはもはや一切関係がありません。
どこの誰と結婚しても文句はいいません」と書かせる誓約書です。
重婚を防ぐ証明書でもあります。
庶民はこれさえあれば自由の身、ほかに好きになった人と所帯を持つことだってできるのです。
三行半は「たたきつける」ものではありません。
妻が夫に書かせる離縁証明書なのです。
離縁状は離婚した女性が「持っていること」自体が重要で、この離縁状なくして再婚した場合、女性は剃髪という刑罰の対象となります。
一方で男性も離縁状を与えなかった場合は所払い。すなわち夫には離縁状を書く義務があるということです。
これがちょうど3行半ぐらいの長さになるので、三行半といいます。
中身も簡単で、仙台藩では線を3行引くだけでOKだったとか(笑)

さらに日本は江戸時代に「駆込み寺」という女性を保護する社会的な制度が作っており、江戸の女性はとても大切にされました。人間社会ですから,浮気ぐせがあったり,酒癖の悪い,博打で懲りない夫などがいて,妻はとうとう三行半(みくだりはん)をもぎ取るということになります。
ところがこれを書いてくれない。反省もしない。DVの嵐・・・,となると,関所やお代官のところへ離婚を願い出るしかありません。
それでもだめなら,最後の手段が縁切寺へ駆け込むといいう世界でもまれなシステムが残されています。
これは「駆け込み寺」とも「駆け入り寺」とも言われる男子禁制の尼寺です。
幕府公認の縁切寺は上野国の満徳寺、神奈川県鎌倉の東慶寺(北鎌倉駅からすぐ)と群馬県の満徳寺の三つありました。
江戸から,前者は13里(52km),後者は21里(84km)ありました。
距離から考えても東慶寺は人気があったのですが,このお寺では髪を切る必要がなく,二年間ここにいれば自然に離婚成立。
後者の満徳寺は剃髪して,三年間もいなければならなかったのです。
それで夫が未練がましく妻のあとをつけてきて,実力で阻止しようとした場合はどうなるのでしょう。
妻は門をめがけて草履か何か,何でもいいから身につけているものを投げます。
それが門に入れば妻はセーフ。お寺が妻を保護し,夫は門から入れません。
お寺はお互いの話を聞いた上でどうするかを決めます。夫が三行半を書くことになれば離婚成立。
夫がそれを拒否すれば,妻はそのままお寺に入り離婚成立までここで過ごすことになります。
それなら私も,と安易に考えられてはお寺としても困ります。
それでお寺に入るには医学部の入学時寄付金のような「冥加金」が必要となります。
これにはランクがあって,30両も払えば最高のランク,待遇は最高です。
お金の支払い能力のない人でもお寺には入れますが厳しい仕事が課せられます。
辛くてお寺から逃げた場合は罰が与えられ,繰り返せばお寺から追い出されます。
だからお寺に逃げ込むという最後の手段をとるにしても,相当の覚悟が必要です。
そこまでいかなくても、各地の庄屋などの名士の家に駆込むことによっても離縁をなすことは行われていました。
また駆込寺といっても、そこで3年すごさねば離婚できなかったわけではなく、夫を呼んで調停することも試されました。
そうして名士や寺が介在しての離婚調停が成功すると、夫は三行半を書かされることになります。
ただ、こういった三行半を書くのは夫だけでなく、夫や妻の両親が書くこともありました。
ひどい例になると、夫の留守の間に姑などが三行半を嫁に渡すことも。
しかしこのような特別な例を除いて一般的なのは最初のような協議離婚です。
妻が三行半をもらうのは戸主である夫が書くシステムになっていたからというのが大きな理由です。

江戸時代だと今よりも離婚率が高かったとか。
離婚理由の一番多かったのが「事由無し」だそうで・・・
この明治になるまで600年続けられました。
江戸は出稼ぎ仕事で男性が多かったためか、バツ1バツ2女性もモテモテだったそうです。
身分の高い武家くらいでしょうね、厳しかったのは。
何故三行半が夫からつきつけられるものというイメージがついたんでしょうね?
コメント (8)
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