郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

坂本龍馬の虚像と実像

2006年02月04日 | 幕末土佐
ってね、どれが虚像でどれが実像か、検証できるほど、龍馬について知っているわけではありません。松浦玲著『検証・龍馬伝説』(論創社)を読んだんです。
司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』を対極において、龍馬の虚像と実像を検証している本なのですけれども。

著者は、勝海舟の研究がメインの歴史家でおられるようです。
雑誌などに書かれたものをまとめて、加筆されたもので、最初と最後の章で司馬文学そのものに言及され、その間は、『竜馬がゆく』そのもの、といいますよりも、現在流布している龍馬伝説を検証し、史実を浮き彫りにしたものです。締めくくりに、「あとがきを兼ねた長い補論」を書かれていて、ちょっと複雑な構成ですが、坂本龍馬の実像については、実証的で、説得力があります。
とりわけ、薩長同盟と大政奉還に龍馬は果たした役割については、かなりバランスのとれた見解が提示されているのですが、驚きますのは、『竜馬がゆく』が史実としてひろく世間で信じられてる、その実体です。
「長い補論」で述べられている「A氏」の件には、唖然としました。

A氏は1993年に、『河原町三条下ル、龍馬暗殺』という推理小説仕立ての本を出されたそうなのですが、まず、その内容です。
「大久保利通が真犯人で、現場で殺された中岡慎太郎が従犯、実行犯が坂本龍馬を殺すのを中岡が援助した」という要約。
あんまりじゃないでしょうか。いえ、大久保利通真犯人説というのは、他でも読んだことがあって、驚かないのですが、中岡慎太郎が従犯って! 無茶苦茶です。
で、「A氏は大政奉還は坂本龍馬の発明だと思いこんでいらっしゃった」って!!!
常々、なんで世の中には薩摩が龍馬暗殺にからんだ、などという奇妙な説が出回っているんだろう、と、わけがわかりませんでした。大河の新選組でも、そんな話が、ありましたし。

参照
土方歳三 最期の一日

しかし、「龍馬がほとんど一人で大政奉還を実現した」と思い込んだとして、それでもやはり、「統制型人間の大久保利通が、大政奉還案のような奇手がひらめく規格外れの異才龍馬を生かしておけないと、殺意を固める」なぞという奇妙な発想が、どこからどうわいてくるのか、やはり不思議です。
その「A氏」が、です。まったく歴史資料にあたっておられない、ということは、ありえないと思うのですが、『竜馬がゆく』を読んだときの印象があまりにも強烈で、フィクションの筋書きでしか、幕末の政治劇を見ることができなくなっておられる、ということなのでしょうか。

そういえば、新人物往来社の『桐野利秋のすべて』を読んでいて、ちょっとため息、だったことがありました。
桐野の「京在日記」に関する一章を、新選組の研究で知られておられる釣洋一氏が書かれておられるのですが、いや、さすがに氏は、「史的根拠のないことは単なる空想にすぎない」と、ことわられつつも、桐野の赤松小三郎暗殺から、「龍馬襲撃の魔手こそは西郷」と、空想をもらしておられるのですよね。もらしつつ、「下衆の勘ぐりと自覚を持って退散」と畳みかけておられるのが、なんだか嫌な書き方だなあ、という印象でした。

赤松小三郎と坂本龍馬を同列に並べるのは、どういう思い込みでおられるのか、と不思議でならなかったのです。いくらなんでも「赤松や容堂と同じ思想」と位置づけられたのでは龍馬も気の毒ですし、仮に同じ思想を持っていたにしましても、この時点の西郷さんは、脱藩攘夷志士じゃないんですから、相手の「思想」で暗殺をするような馬鹿なまねをするとは、到底考えられないはずなのですが。

私も憶測を述べますが、赤松小三郎暗殺は、公武合体論者である赤松小三郎の、島津久光への影響力を憂慮してのものでしょう。
この時点の薩摩倒幕派にとって、最大の難関は、藩内の倒幕反対派でした。長州と違って薩摩は、朝敵になっているわけでもなんでもないのですから、守旧派は当然、倒幕などという危ない橋を渡ることには、反対します。
それを倒幕に引っ張っていくためには、久光を説得するしかなかったのです。

参照
続・中村半次郎人斬り伝説

と、話がそれてしまいました。
松浦氏が浮き彫りにする龍馬像は、かなり等身大に近く、しかし、龍馬への愛情が感じられるもので、好感が持てます。
司馬遼太郎氏の小説に対する評価も、なるほど、と思える部分は多いのです。
「私は『翔ぶが如く』では、私流に司馬さんの小説を読む面白さを、うまく味わわせて貰えなかったという記憶がある」という点は、まったくの同感ですし、司馬氏の小説の中で、「めっぽう面白いのは『坂の上の雲』」として、その理由を「秋山兄弟に対するサービス」にあり、「『翔ぶが如く』の西郷はサービスしてもらってない」というのは、納得です。
ただ、問題は、その後なのです。
『坂の上の雲』については、次回で取り上げるとしまして、司馬氏は徹底した「脱イデオロギー」の作家である、と、松浦氏はおっしゃいます。
その上で、ご自分を「イデオロギー人間」と規定し、歴史は「脱イデオロギー」というイデオロギー、を持って、取り扱うべきものではないか、とおっしゃるのです。しかし、司馬氏は、「脱イデオロギー」に徹底するあまりに、「脱イデオロギー」のイデオロギーでさえ提示せず、これが問題であると。

歴史小説に対する批判として、「脱イデオロギー」のイデオロギーを求められることについては次回にまわします。
問題は、松浦氏が、龍馬の実像を描くにあたっても、時折、これが「脱イデオロギー」のイデオロギー?なのか、という記述が散見されることです。
例えば、なんですが、龍馬の脱藩と、勝海舟が構想し、龍馬も希望を託していた「神戸海軍塾」について、です。
勝海舟が「アジアが連帯してヨーロッパに対抗するための海軍」のとっかかりとして、「神戸海軍塾」を構想した、とおっしゃるのですが。
いえ、です。幕末の志士に、アジアとの連帯を夢見た思想は多く、それが、後のアジア主義に結びついていくことは、知っています。
勝海舟が、長州の桂小五郎を説得するために、「神戸海軍塾の目的はアジアとの連帯」と語ったのは事実だとしても、です。そういう思想、といいますより夢想と、「アジア」の現実は、まったく別のものでして、連帯のしようもなかったことは後世の史実が示しています。
松浦氏は「空論」と断られながらも、たたみかけて、神戸海軍塾がつぶれたときに、海舟は「脱藩」するべきだった、つまり、幕府から離れるべきだった、と言われるのですが。
あげりの果てに「上海で亡命政権」って……。空論というより、失礼ながら妄想です。妄想のあげくが、「アジアとの連帯」が「脱国家」につながると。

近代国家の生みの苦しみの時点で、脱国家???
相手が近代国家でなければ、連帯もできませんしねえ。
それが、イデオロギーのイデオロギーたるゆえんであるのかもしれませんが、「脱国家」って、なんなんでしょう??? 
夢想の飛躍についていけませんでした。

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大河ドラマと土佐勤王党

2006年01月24日 | 幕末土佐
あー、また下手な写真なんですが、桂浜の龍馬像です。おもしろい角度でしょう?
逆光で、太平洋がきれいに写っていると龍馬像が蔭になって黒くなってしまい、像がちゃんと写ると、この写真のように海がとんでしまっちゃったんです。

一昨日のことです。
この写真の近くに住んでおります妹から、電話がありました。
「今ね、大河がつまらなくて、見るものがなくて、退屈しているだろーと思って、電話してあげたの」
たしかに、つまらない大河を、見るともなくつけていたのですが、「電話してあげた」ってあーた、退屈ならすることは他にもありますわね。
ま、ともかく、最近の大河はほんとうにつまらない、という話になりまして、なにが題材ならいいんだろうと、あれこれ、言いあっておりました。
私は以前にも、「土佐なら長曽我部。『夏草の賦』がいいのに」といったことがあったのですが、妹は、これには賛成ではありませんでした。
地味すぎる、というのです。

司馬遼太郎氏の『夏草の賦』は、いいと思うんですけどねえ。
「男は容姿」の私としましては、やはり、薩摩島津との戦で戦死する、元親の長男、弥三郎信親がよいですわ。
しかし、やはり、幕切れが寂しいといえば、寂しいですね。
敵の長男の死を悼む薩摩の家老が風格があって、実に絵になっているんですけど、ともかく悲しい。
たしかに、地味かもしれませんね。

しかし土佐なら、山内さんよりいいじゃありませんか。
四国を席巻した長曽我部の地侍たちと、後に土佐に乗り込んで来た山内家の家臣たちの確執は、結局、幕末まで尾を引きますよね。
龍馬も含め、脱藩して命を落とした土佐勤王党の志士たちの大多数は、郷士や庄屋で、長曽我部侍です。
土着の土佐勤王党の志士たちは、京へ上れば、長曽我部氏の墓に参っていたりします。
上士、つまりお城勤めのサラリーマン武士が山内侍。
土佐藩そのものの姿勢は、ぎりぎりまで幕府よりでした。

ところで、この土佐の郷士と上士の対立を激化させた井口村事件が、実は男色がらみなのです。
この事件は、土佐勤王党史をはじめ、龍馬の伝記など、土佐の幕末を描いたものにはかならず出てきまして、司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』でも取り上げられています。
事件を簡単にのべますと、中平忠一という若い郷士が、ちぎりをかわした少年・宇賀喜久馬と夜道を歩いていて、鬼山田という上士につきあたります。
酒が入っていたこともあり、殺傷沙汰となって、忠一は鬼山田に斬り殺されます。喜久馬は、忠一の実家に知らせに走り、忠一の兄がかけつけて、鬼山田を斬り殺します。
 これが、郷士VS上士の大騒動に発展するのですが、司馬氏の『竜馬がゆく』では、中平忠一の男色について、「愚にもつかぬ男で、衆道にうつつをぬかし」と、しています。
 しかしこれは、娯楽小説ゆえの表現、というべきでしょう。
 忠一と喜久馬との関係が、「衆道にうつつをぬかし」などというものではなかったことは、安岡章太郎氏の『流離譚』(講談社文芸文庫)により、知ることができます。
 安岡氏は土佐郷士の家の出身でして、宇賀家の遠縁です。
 親族などから、「宇賀のとんと(稚児)の話」として、喜久馬が中平忠一に準じて切腹したいきさつを、聞かされていました。
 喜久馬は、切腹したとき、わずか13歳でした。
 宇賀家の親族は、みなで喜久馬に、「腹を切っても痛いというて泣いちゃいかん、みっともないきに泣かれんぜよ。泣いたらとんとじゃというて、またてがわれるきに」と、いってきかせたそうです。
 つまり喜久馬の切腹、忠一への殉死は、親族全体から認められ、励まされる行為であり、二人の関係は、双方の家族から認められ、郷士社会も公認したものであったわけです。
 物理学者で随筆家の寺田寅彦氏は、喜久馬の甥にあたりまして、寅彦氏の父が、弟の喜久馬を介錯したそうです。

あー、なにが言いたいかといいますと、これは、習俗としての男色なのですね。
なにも土佐だけではなく、日本全国にあったわけでして、長州下関の奇兵隊のパトロン、白石正一郎の短歌にも、こういうものがあります。

みめよきはあやしき物か 男すらをとこに迷う心ありけり
(『白石家文書』 下関市教育委員会編 より)

って、まさか正一郎さん、お相手は晋作さんじゃ、ないですよね。

 わしが稚児(とんと)に 触れなば触れよ
 腰の……が鞘走る~♪
 よさこい、よさこい~♪

……部分を忘れてしまいましたが、そんなよさこい節もあります。

まあ、ともかく、日本全国に幕末まで残った習俗ではあったのですが、土佐、薩摩で特に色濃く残っておりまして、私は、これは南島文化の通過儀礼としての男色の名残、であったのだと思っております。

で、別にそのつながりではないのですが、大河の題材について、妹はこう申しました。
「島津はどうよ? 薩摩ならじめじめしてなくてよさそう」
「あー、それはいいわね」
と、私も即座に賛成いたしました。
関ヶ原の退(の)き口といい、その後の生き残り政略といい、爽快です。
戦国時代の大河なら、今度は薩摩島津がいいですね。


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