もう何度もこのブログに書いているが、私は月に一度近所のお寺で開かれる
仏像の彫刻教室に通っている。
教室の中でも決して上手い方ではないし、進度も遅いのだが
(もう仏面を彫っている人がいるが、私はまだ開き手)
熱心な方なのだろう。一度朝まで千葉県でライブがあって
教室の開始時間にどうしても間に合わなくて、サボってしまった
のだが、その時など先生が心配して電話をしてきたほどだ。
いずれにしても得るところは大変多い。
私は生活のほぼ半分をミュージシャンとしてエネルギーを
注いでいるのだが、そういう立場からも勉強になることが多い。
実際に彫刻教室での勉強からひらめいた方法で音楽にアプローチ
することもある。音楽にかんしては生涯を通してほぼ独学で
やってきたので、人からものを教わるということがとても新鮮
なのだ。
今日学んだことは(わかったこと)、
すべての相には「成り立ち」があり、成り立ちとは
「意図」の集積である。
ということ。
自分以外の誰もが一体何を言っているのかちんぷんかんぷんだと
思うが、自分としても「わかった」だけで、「実践」できていない
ので、上手く説明できないから、しない。
どんな造詣芸術もそうだと思うが、教室ではまず、対象物を「面」でとらえてゆく。
この訓練を徹底的にやらされる。ディテールはその後の話である。
これがあいまいだと、指があっちゃこっちゃ向いたりして、それこそ、
指ではなく「木の枝」になってしまう。
(ちなみに今日も先生に「木の枝」といわれた。先生も半分おもしろがっている
ふしもないわけではないが、なかなか生命のかよった指を彫るということは
むずかしい。私も半分開き直って、「私は立派な枝職人になります。」と
いってやった。人間国宝級の先生に対してなんだ、その口のきき方は!!)
先生のお手本にくびっぴきで、なにより自分の手をみていればわかりそうな
ものなのだが、なかなかそうはいかない。
指など丸いものだとおもって彫っているから、適当に考えていると、
ものごとをシンプルに捉えた時(面で捉えた時)にはじめて、
大間違いを犯していることに気がつく。
まあ、長い間ギターを弾きすぎたせいか、私の指は大きく曲がっているので
(特にピックをもつ右手の人差指)、あんまり参考にはならないのだけど…。
そういう視点から(どういう視点だ)、開きなおって木の枝をしげしげと
ながめていると、なんとこれが、秩序をもって生えている!!(…気がする)
そういえば、野に咲くひまわりだって太陽を志向しているものね。
つまり私が彫った手は枝以下であるということか…。
生物はすべて意図をもって存在しているんだね。
どの側面からとらえても、ある種意味をもっていることがわかる。
それをかぎりなくシンプルな面でとらえてゆくことが芸術の基本なのだろう。
ものごとをシンプルに捉えてゆくということはより抽象度の高い視点から
からものごとを捉えるということだと思う。
要はデッサン力(シンプルでしょ)。
教わっていてつくづく感じるのは、仏像彫刻を学ぶということは、
「見えないし、言葉にならないけど、確かに存在する絶対的なもの」
を追求することだと思う。
個性や人間性というあいまいで相対的な視点が重視される現代において
そういうものの見方に慣れきってしまった我々がいかに、自然という
圧倒的で絶対的な美と向き合うことをさけてきたのかを思い知らされる。
オリジナリティとはそういうものと面と向かって生きてきた人のみに
与えられる特権なのではないだろうか。
異質なるものを当たり前と思わされている現代において、
ピカソのキュビズムやゴッホのひまわりの「意匠」を
本当の意味でくみ取れる人がどれだけいるのだろうか。
まあ、現代アートのことはわからないけど、少なくとも音楽、それも
インプロビゼーションというこの不可思議で巨大な魔物と対峙している
私にとっては、頭から水をぶっかけられたような衝撃をうけるとともに
深く反省させられること多し、である(結局自分の問題か…)。
翻訳会社オー・エム・ティの公式ウェブサイト
仏像の彫刻教室に通っている。
教室の中でも決して上手い方ではないし、進度も遅いのだが
(もう仏面を彫っている人がいるが、私はまだ開き手)
熱心な方なのだろう。一度朝まで千葉県でライブがあって
教室の開始時間にどうしても間に合わなくて、サボってしまった
のだが、その時など先生が心配して電話をしてきたほどだ。
いずれにしても得るところは大変多い。
私は生活のほぼ半分をミュージシャンとしてエネルギーを
注いでいるのだが、そういう立場からも勉強になることが多い。
実際に彫刻教室での勉強からひらめいた方法で音楽にアプローチ
することもある。音楽にかんしては生涯を通してほぼ独学で
やってきたので、人からものを教わるということがとても新鮮
なのだ。
今日学んだことは(わかったこと)、
すべての相には「成り立ち」があり、成り立ちとは
「意図」の集積である。
ということ。
自分以外の誰もが一体何を言っているのかちんぷんかんぷんだと
思うが、自分としても「わかった」だけで、「実践」できていない
ので、上手く説明できないから、しない。
どんな造詣芸術もそうだと思うが、教室ではまず、対象物を「面」でとらえてゆく。
この訓練を徹底的にやらされる。ディテールはその後の話である。
これがあいまいだと、指があっちゃこっちゃ向いたりして、それこそ、
指ではなく「木の枝」になってしまう。
(ちなみに今日も先生に「木の枝」といわれた。先生も半分おもしろがっている
ふしもないわけではないが、なかなか生命のかよった指を彫るということは
むずかしい。私も半分開き直って、「私は立派な枝職人になります。」と
いってやった。人間国宝級の先生に対してなんだ、その口のきき方は!!)
先生のお手本にくびっぴきで、なにより自分の手をみていればわかりそうな
ものなのだが、なかなかそうはいかない。
指など丸いものだとおもって彫っているから、適当に考えていると、
ものごとをシンプルに捉えた時(面で捉えた時)にはじめて、
大間違いを犯していることに気がつく。
まあ、長い間ギターを弾きすぎたせいか、私の指は大きく曲がっているので
(特にピックをもつ右手の人差指)、あんまり参考にはならないのだけど…。
そういう視点から(どういう視点だ)、開きなおって木の枝をしげしげと
ながめていると、なんとこれが、秩序をもって生えている!!(…気がする)
そういえば、野に咲くひまわりだって太陽を志向しているものね。
つまり私が彫った手は枝以下であるということか…。
生物はすべて意図をもって存在しているんだね。
どの側面からとらえても、ある種意味をもっていることがわかる。
それをかぎりなくシンプルな面でとらえてゆくことが芸術の基本なのだろう。
ものごとをシンプルに捉えてゆくということはより抽象度の高い視点から
からものごとを捉えるということだと思う。
要はデッサン力(シンプルでしょ)。
教わっていてつくづく感じるのは、仏像彫刻を学ぶということは、
「見えないし、言葉にならないけど、確かに存在する絶対的なもの」
を追求することだと思う。
個性や人間性というあいまいで相対的な視点が重視される現代において
そういうものの見方に慣れきってしまった我々がいかに、自然という
圧倒的で絶対的な美と向き合うことをさけてきたのかを思い知らされる。
オリジナリティとはそういうものと面と向かって生きてきた人のみに
与えられる特権なのではないだろうか。
異質なるものを当たり前と思わされている現代において、
ピカソのキュビズムやゴッホのひまわりの「意匠」を
本当の意味でくみ取れる人がどれだけいるのだろうか。
まあ、現代アートのことはわからないけど、少なくとも音楽、それも
インプロビゼーションというこの不可思議で巨大な魔物と対峙している
私にとっては、頭から水をぶっかけられたような衝撃をうけるとともに
深く反省させられること多し、である(結局自分の問題か…)。
翻訳会社オー・エム・ティの公式ウェブサイト