OMTインフォメーション

翻訳のこと、会社のこと、生活のこと、音楽のこと、読書のこと

仏像彫刻教室

2011-01-10 17:18:08 | 日記
もう何度もこのブログに書いているが、私は月に一度近所のお寺で開かれる
仏像の彫刻教室に通っている。

教室の中でも決して上手い方ではないし、進度も遅いのだが
(もう仏面を彫っている人がいるが、私はまだ開き手)
熱心な方なのだろう。一度朝まで千葉県でライブがあって
教室の開始時間にどうしても間に合わなくて、サボってしまった
のだが、その時など先生が心配して電話をしてきたほどだ。

いずれにしても得るところは大変多い。
私は生活のほぼ半分をミュージシャンとしてエネルギーを
注いでいるのだが、そういう立場からも勉強になることが多い。
実際に彫刻教室での勉強からひらめいた方法で音楽にアプローチ
することもある。音楽にかんしては生涯を通してほぼ独学で
やってきたので、人からものを教わるということがとても新鮮
なのだ。

今日学んだことは(わかったこと)、

すべての相には「成り立ち」があり、成り立ちとは
「意図」の集積である。

ということ。
自分以外の誰もが一体何を言っているのかちんぷんかんぷんだと
思うが、自分としても「わかった」だけで、「実践」できていない
ので、上手く説明できないから、しない。

どんな造詣芸術もそうだと思うが、教室ではまず、対象物を「面」でとらえてゆく。
この訓練を徹底的にやらされる。ディテールはその後の話である。
これがあいまいだと、指があっちゃこっちゃ向いたりして、それこそ、
指ではなく「木の枝」になってしまう。

(ちなみに今日も先生に「木の枝」といわれた。先生も半分おもしろがっている
ふしもないわけではないが、なかなか生命のかよった指を彫るということは
むずかしい。私も半分開き直って、「私は立派な枝職人になります。」と
いってやった。人間国宝級の先生に対してなんだ、その口のきき方は!!)

先生のお手本にくびっぴきで、なにより自分の手をみていればわかりそうな
ものなのだが、なかなかそうはいかない。

指など丸いものだとおもって彫っているから、適当に考えていると、
ものごとをシンプルに捉えた時(面で捉えた時)にはじめて、
大間違いを犯していることに気がつく。
まあ、長い間ギターを弾きすぎたせいか、私の指は大きく曲がっているので
(特にピックをもつ右手の人差指)、あんまり参考にはならないのだけど…。

そういう視点から(どういう視点だ)、開きなおって木の枝をしげしげと
ながめていると、なんとこれが、秩序をもって生えている!!(…気がする)
そういえば、野に咲くひまわりだって太陽を志向しているものね。
つまり私が彫った手は枝以下であるということか…。

生物はすべて意図をもって存在しているんだね。
どの側面からとらえても、ある種意味をもっていることがわかる。
それをかぎりなくシンプルな面でとらえてゆくことが芸術の基本なのだろう。
ものごとをシンプルに捉えてゆくということはより抽象度の高い視点から
からものごとを捉えるということだと思う。

要はデッサン力(シンプルでしょ)。

教わっていてつくづく感じるのは、仏像彫刻を学ぶということは、
「見えないし、言葉にならないけど、確かに存在する絶対的なもの」
を追求することだと思う。

個性や人間性というあいまいで相対的な視点が重視される現代において
そういうものの見方に慣れきってしまった我々がいかに、自然という
圧倒的で絶対的な美と向き合うことをさけてきたのかを思い知らされる。
オリジナリティとはそういうものと面と向かって生きてきた人のみに
与えられる特権なのではないだろうか。

異質なるものを当たり前と思わされている現代において、
ピカソのキュビズムやゴッホのひまわりの「意匠」を
本当の意味でくみ取れる人がどれだけいるのだろうか。

まあ、現代アートのことはわからないけど、少なくとも音楽、それも
インプロビゼーションというこの不可思議で巨大な魔物と対峙している
私にとっては、頭から水をぶっかけられたような衝撃をうけるとともに
深く反省させられること多し、である(結局自分の問題か…)。


翻訳会社オー・エム・ティの公式ウェブサイト


まっぴらごめん

2011-01-09 16:26:32 | 日記
菅総理がネットのインタビューにこたえて、

「何をしたいのかではなく、何をすべきかを考えるのだ。」

と強い口調で語っていた。

私は彼のこの発言で、低迷する日本もまだまだ回復には程遠いと感じた。

鳩山政権を引き継ぎ、新しい総理が何をしようとしているのか、
それがあいまいなまま現在にきている。混迷の中で何をしたいのか
明確なヴィジョンを示すこともなく、ただただ事後処理におわれている。
国民が総理からききたかったのは、やはりmustではなく、wantだと思う。
総理の理念を実現すべく、内閣が組閣されるものかとおもいきや、
誰も夢を語ることもない中で、つまりリーダーがいない中で、部下たちは
どう動けというのか。誰もが将来ビジョンもない中でmustでがんじがらめ
になっている。

そもそも、ヴィジョンのない中でmustなんてありえんでしょ。
ただの自己満足でしょ。

会社組織にしてもそうなのだが、トップの夢を実現するために
部下は動くものだ。トップの人にはわからないのだろうが、部下は
それで自分の人生が無駄になるなんて偏狭な考えはもたない。
だいたいそんな気持ちでいるなら、さっさと独立するでしょ。
国民だって同じだ(とはいっても簡単に亡命などできないけど。)
つまり、自分の夢に命をかけてくれる部下がいるのだ。
それに気がつかないばかりか、自分のヴィジョンすら示せず、
部下には夢を実現しろといい、はたまた義務ばかりを圧しつける
馬鹿な組織はさっさとこの世から消えてしまうべきだ。

私といえば、自分勝手で、人にとやかく言われるのがいやなので、
起業してしまったけど、本当にラッキーだったと思う。
日和見的、感情的、ひとりよがり、夢もヴィジョンもない、
そんな会社は地獄でしかない。
でも、そんな中でも一生懸命で真面目な人ほど、もがいているのが
現実だ。

党内の派閥争いや、野党など、いろいろな見解のちがいもあり、
そのなかでもがいているのは自分自身だ。どうしてわかってくれないんだ、
などと寝ぼけたことは言わないでほしい。
自分のヴィジョンを示すことで初めて、野党や党内派閥同士が対峙する
前提が生まれるのだ。
人の上げ足をとることばかりにたけた人だよね。
今の心のありようじゃ絶対に前進できないと思った。

一人の人間として、そんなものに翻弄されて生きるのは
正直まっぴらごめんである。


翻訳会社オー・エム・ティの公式ウェブサイト

改めまして

2011-01-07 17:23:54 | 日記
あらためて新年あけましておめでとうございます。



写真は近くの神社(高台にある)から撮影した日の出。

実は年末から年始にかけて1日も休んでいない(笑)。
なんと1月1日にも仕事が入ってきたから、さあ大変!

それでも今日なんとか大きな仕事は納品できた。

まだまだ(21日くらいまで)仕事が続くのだが、
なんとか普段のペースを取り戻していかないと、
まったく営業活動が出来ない状態だ。

雑食系とはいってもやはり自分の役割はなんといっても営業である。
営業をやらない自分は、自分ではない。

とはいえ、ここまであわただしい年末年始は本当に初めての
ことだ。ストレスで半分わけがわからなくなってきているくらいだ。

それでも正月はしっかりお酒を飲んだ。
飲んだにもかかわらず、酔い潰れることがなかったのは
仕事のおかげかもね。

人から指図されることが最も嫌いなたちなのだが、それでも
やってられるのは結局、自分は仕事が大好きだからだろうな。

自分でも時折あきれるが、馬鹿は馬鹿なりに楽しいものである。

翻訳会社オー・エム・ティの公式ウェブサイト