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Kenny Burrell/God Bless the Child

2012-03-17 17:30:59 | 日記
最近、人前でブルースやロックだけではなく、ジャズなんぞを演奏する
チャンスがありまして(笑)、いろいろ気づくところがある。

私のようなブルースマンの周辺においては「ジャズをちーとも知らない」
人が多いのだが、そんな中でもケニー・バレルを知っている人は比較的多い。
それは、ブルースマンが好むフレーズが随所に出てくるし、
またブルースマン以上にブルース・フィーリングにあふれた演奏をする
ことが多いからだと思う。

彼自身、ブルースに対する敬意のおきかたは大変なものがあるし、
実際、全く普通のブルース進行(ジャズのブルースとブルースマンがやる
ブルースはコード進行が異なる)の曲を演奏したりしている。

ただ、自分がジャズ・ブルースを演奏するようになって、ケニー・バレルと
いう人は実に自由にジャズのコード進行をとらえている気がする。

ジャズマン演奏は、とくにビバップの頃はコードの派生に基づいたもの、
いわゆるコーダルな演奏が圧倒的に多いのだが、ケニー・バレルの演奏は
時にとてもモーダルな動きをみせ、したがってより自由な感覚がある。
まさに、せきとめられていた水が一気にあふれ、流れ出してくる感覚である。

そしてそのモーダルな動きこそが、ブルースの根源的要素だと私は思う。

我々ジャズ・ブルースマンではない、いわゆるただのブルースマン(笑)は、
演奏の際にそれほどコードのことは考えていない(少なくとも私は…)。
実は現代におけるほどその傾向は強いわけで、例えばロバート・ジョンソンや
ロバートJr.ロックウッドなどのブルースの創世記に活躍した様な人たちは
非常にコードを意識した演奏をしている。

ブルースといっても南部のブルースにしてもジャズ・ブルースにしても、
ロック・ブルースにしても、これほど分派し、独自のスタイルが確立されて
いる以上、私はモーダルな演奏こそが真のブルースであるというつもりは全くない。

私が言いたいのは、ケニー・バレルの演奏におけるあの「自由度の高さ」は
なんなのだろうか、ということである。


先ほどケニー・バレルは「自由にジャズのコード進行をとらえている」と書いたが
それなら、いわゆるロックのブルースを演奏する人がジャズ進行のブルースに
対応できるかというと、

うーん、有りといえばありだが、無いといえばない(笑)。

少なくとも彼らがそういう場面で演奏するとするなら、私はあれこれモード的に
音をさがしているような迷いは感じても、自由だとは思わない。
(もちろん、なんの迷いもなく弾いている人もいるし、ある意味すごいと思う。)

結局、ケニー・バレルはコードという制限の中からあふれでるように
「音階(モード)を発見した」のだと思うに至った。

人から教わった知識、たとえばドレミファソラシドを教わったって、
それでDm7-G7-CM7のコード進行で弾いてみろといわれても困るだけでしょ。
(よく見かけるのだが…)

逆にレファラド、ソシレファ、ドミソシをしっかり学んで、それだけで
物足らなくなり、テンション・ノートを加えて、パッシング・ノートを
加えていくうちにモードを発見するという過程の方が現実的というか、
実用的だと思う。

マイルス・デイビスにしたって、パット・メセニーにしたってそうやって
学んだのだ。それは彼らのインタビューからも明らかである。

マイルスはモード奏法に、パット・メセニーはクロマティシズムに、
ケニー・バレルはブルース・スケールにというように。

特にインプロビゼーションに関わる音楽というのは、たとえそれが
すでにある知識だとしても、自身の感性における「発見」がなければ、
「もの」にはならないのである。

ジョン・スコフィールドのようないわゆる現代を代表するようなギタリストが
ロック、ソウル、ブルースといったものから、ジャズに入り、そしてロックや
ブルースを再発見してゆくという過程をたどっているのは非常に象徴的であると
私は思う。



上記はケニー・バレルの『Kenny Burrell/God Bless the Child』。
ブルース進行の曲はないが、「これぞブルース!」としかいいようのない
すばらしい演奏が聴ける。
また、ドン・セベスキーのアレンジもよいし、なによりロン・カーターの
ベースが最高!!



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